リオデジャネイロ五輪が終わって約1年が過ぎ、各スポーツ界では次の2020年東京オリンピックに向けた新体制が発足してその土台を作り始めたものも多いですね。
ロンドン五輪では実に28年ぶりとなる銅メダル獲得で復活を印象付けた女子バレーボール「火の鳥NIPPON」も、リオ五輪ではベスト8に残るのが精いっぱいという結果に終わりました。
そんな女子バレーボール界もリオ後は新体制を発足させました。新しく女子バレー全日本を率いて東京オリンピックに臨む新監督こそ、中田久美監督なのです。
元全日本セッター、生沼スミエ以来の女性代表監督・中田久美(なかだくみ)のプロフィール
まずは全日本女子バレー代表、通称「火の鳥NIPPON」の新監督となった中田久美監督の簡単なプロフィールをご紹介しましょう。
名 前:中田久美(なかだくみ)
生年月日 :1965年(昭和40年)9月3日
出 身:東京都練馬区
出 身 校:NHK学園高校
身 長:176cm
体 重:62kg
血 液 型:A型
利 き 腕:左右両効き腕
ポジション:セッター
はい、現役時代はセッターとして活躍、まさに「天才セッター」という名をほしいままにしていた、日本が世界に誇る名選手でした。個人的な話となりますが、わたしは中田久美の前の全日本のセッターの記憶が全くありません。中田久美が全日本入りする前にも試合は見ていたはずなんです。江上由美や三屋裕子、広瀬美代子などがいて、ハイマンやクロケットのいたアメリカや郎平がエースだった中国と戦っていた(多分1981年W杯だと)のは何となく覚えているので・・。
ともかく、わたしの中での初代全日本セッターといえばまずこの中田久美なのです。それほどまでに1980年代から1990年代初めにかけて全日本に君臨していた日本バレー史を代表する世界的セッターだったのです。そんな中田久美が全日本監督に。実に女性の全日本監督は生沼スミエさん以来35年ぶり2人目。これだけで中田監督の期待の高さはわかろうというものでしょう。
山田バレー塾合格で将来の師である名監督・山田重雄との運命的出会い
世界的セッターであった中田久美全日本女子監督の現役時代。日本バレー界をけん引したといっても過言ではないその現役時代を簡単に振り返っておきましょう。
中田久美さんがバレーを始めたのは練馬中学校に進学してからの事でした。それまで色々なスポーツをしたものの長続きしなかった中田さんにとって、バレーは母のママさんバレーによって身近な存在でした。身長は既に他の同級生たちより頭一つ抜けていた中田さんにとってバレーはうってつけだったといえるでしょう。
そんな中田久美さんの運命を決めたのが中学時代に雑誌に掲載された「山田少女バレー塾」の入塾性募集広告。全日本女子を率いて五輪でメダルを獲得した名監督・山田重雄氏が次代の選手育成のために立ち上げた次世代による選手の英才育成組織でした。
これに応募した中田さんは100倍以上の狭き門を突破して見事に合格。これこそが後に日本リーグの日立でも師弟となる山田重雄監督との運命的な出会い、そして世界的名セッター・中田久美誕生の礎だったのです。
全日本最年少の高身長天才セッターのプレースタイルがバレー界を高速化
山田バレー塾での厳しい練習によってバレー選手としての才能をメキメキ伸ばしていった中田久美選手にとっての第二の転機こそ、1980年の全日本メンバー入り。この時中田久美選手は中学三年生の15歳。同級生の大谷佐知子選手(後にユニチカ所属)との中3コンビは大いに話題となりました。そしてこの時はセンタープレイヤー(現在で言うとミドルブロッカー)だった中田選手は、資質を見抜いた山田重雄監督によってセッターへと転向し、1981年には恩師の山田重雄率いる当時の日本リーグ(現在のVリーグ)の名門・日立に入部。直ぐにスタメンを獲得し、その年のリーグ戦では1セットも落とさない完全優勝を達成し、自身も新人賞を受賞しました。ちなみにこの時のリーグデビュー16歳3か月は長らく最年少記録として君臨していた大記録です。
1983年には全日本でもセッターとしてスタメンを獲得し、以降は不動のセッターとして日本女子の司令塔を担う事となります。176㎝というそれまでのセッターの常識を覆す長身に加え、高い位置からの早いトス回しは日本のバレーに高速化をもたらした、まさにバレー界に革命を起こしたともいわれている天才的なものでした。
日本バレー界にすい星のように現れたこの天才少女を中心として日本の女子バレー界は回っていくことになるのです。
日ソ二強時代から大型高速化で世界は群雄割拠へと
以下が中田久美監督の選手時代の主な代表での戦績です。
1982年 世界選手権 4位
1983年 アジア選手権 優勝
1984年 ロサンゼルス五輪 3位(銅メダル)
1985年 ワールドカップ 4位
1986年 世界選手権 7位
1988年 ソウル五輪 4位
1989年 ワールドカップ 4位
1991年 ワールドカップ 7位
1992年 バルセロナ五輪 5位
16歳で大エースの郎平らを擁して当時世界一だった中国を倒してアジア選手権優勝を果たし、ロス五輪で銅メダルを獲得した時にはまだ18歳だった中田選手。このロス五輪以降、実に28年間日本は五輪でのメダルから遠ざかる事となります。中田選手はこの後、ソウル、バルセロナとセッターとして日本を五輪に導きました。ワールドカップや世界選手権ではあと一歩のところでメダルに届かないという成績でした。しかしこの1980年代の時期というのは、元々の日本のライバルであったソ連以外にも、中国やアメリカ、キューバ、ペルーがもの凄い勢いで台頭してきた時期であり、スピードと技術を生かしたコンビバレーで世界の中でも一歩先んじていた日本に対して、フィジカルに加えて日本の持つ緻密なバレーを習得した世界の強豪たちが一気に力をつけて日ソの二強に追いつき追い越した時代でした。
そんな世界の勢力図が変わった時代の節目で日本の中心となって奮闘した選手こそ、中田久美という存在だったのです。
セリエAでの指導者からVプレミア久光製薬スプリングスを常勝軍団へ
1992年にバルセロナオリンピックでメダルを逃すと引退を発表し、3年後の1995年には一時的に現役復帰した中田久美選手。1997年の再度の引退後は全国各地のバレー教室での指導、スポーツキャスターやバレー中継解説者を務めた中田久美さんは、2005年に日本バレー協会の強化委員に就任し、2008年には世界の最高峰リーグともいわれるイタリアのセリエAに所属するヴィチェンツァのコーチに就任し、日本人初の海外での指導者、それも世界最高レベルともいわれるセリエAの指導者となりました。
そしてヴィチェンツァの次に同じくセリエAのノヴァ―ラのアシスタントコーチも務めた後帰国。満を持してVプレミアリーグに所属する久光製薬スプリングスのコーチに就任し、10か月後には同チームの監督へと昇格します。
ここから中田久美の名将・監督としての第二幕が開きます。
監督就任1年目の2012-13Ⅴプレミアリーグでいきなり優勝を果たすと、翌シーズンの13-14シーズンも優勝、14-15シーズンこそ準優勝に終わったものの、続く15-16シーズンで再び優勝と、チームを率いた4年間で3度のVプレミアリーグ優勝を果たしました。初年度にはVプレミアリーグ以外に皇后杯と黒鷲旗も制し、久光製薬スプリングスを女子チーム史上初となる三冠チームへと導いたのです。
そして久光製薬を常勝軍団に導いたその圧倒的な実績を評価され、日本バレーボール協会から眞鍋政義監督退任後の全日本女子バレーの監督に選任されたというわけです。
竹下佳江引退後の全日本の絶対的セッター育成への期待
とまあ、現役時代も指導者時代も凄い実績の持ち主であり、まさに日本バレー界のレジェンドといった存在の中田久美全日本女子監督なのですが、その監督就任は多くのバレーボールファンにとって待ち望んだものだったに違いありません。東京オリンピックを戦うチームを率いる女子の監督にこれだけうってつけの人もいないでしょう。
その理由の一つが、竹下佳江選手引退後の正セッター不在を解消し得る存在であるという事です。ロンドン五輪後に不動の名セッター・竹下佳江さんが引退した後の日本はセッターを固定できずにいました。若手の宮下遥選手を抜擢しましたが、チームとしては世界の強豪には敵わないという状態でリオ五輪を終えました。そこで日本女子の喫緊の課題として正セッターの発掘・育成が挙げられています。
この課題に対し、自身も現役時代に天才とまで呼ばれた世界的セッターだった経験上、東京オリンピックに向けて世界に通用する正セッターを発掘・育成する最適任者は逆に中田久美か竹下佳江しかいないんじゃないか??と思う程です。現役時代に名セッターであり、指導者として久光製薬を無双状態ともいえるチームに育て上げた中田久美監督に期待するのは当然でしょう。
プレッシャーはハンパないでしょうが、現役時代の中田久美を知っているファンならば「きっとやってくれる」と期待してしまうのです。
スポーツ番組での「てめえらこの野郎!」事件等「中田久美の性格=強気・怖い」の図式
中田久美監督といえば、現役時代を知るファンならばその強気の性格もよくご存じでしょう。実際に相手コートの選手を威嚇するようなその攻撃的な視線や強気のトス回し、さらに相手セッターにツーアタックをされればすぐさまお返しにやり返す・・そんな光景が今でも脳裏にはっきりと蘇ってきます(笑)。
そして現役引退後もそんな強気な性格を現す伝説が残されています。それこそが、「てめえらこの野郎!」事件です(笑)。
アテネ五輪出場を決めた日本女子チームが試合終了後にスポーツ番組の生放送に出演した際、そこにゲストで中田久美さんも居合わせたのですが、女子選手たちはテンションが高くてキャーキャーと騒ぎっぱなしでした。本番中は我慢していた中田さんでしたが、生放送がVTRに入った途端に選手たちに向かい、
「てめえら、この野郎っ!!」
と一喝。見事にはしゃぐ選手たちを静かにさせたのです。ただし、その一喝は見事にマイクに拾われており、中田久美魂の怒鳴り声は見事全国放送で鳴り響いた‥とこういうわけです。
この放送は未だにバレーファンのみならず多くのスポーツファンの間で語り草ともなっており、今でも中田久美という人物の性格を表現するのにしばしば用いられているほどです。
とにかく、バレーボールファンであれば「中田久美=強気な天才」というのは常識ともいえるものなのです。
中田監督は闘将?知将?若手選手の育成に長けた監督としての実力は?
そんな現役時代や評論家時代に強気で鳴らした中田久美さんが全日本監督に就任。当然の事ながら、現役時代や評論家時代のように、強気な性格を全面に押し出して「闘将」として選手たちを鼓舞して指揮するんだろうな・・と多くの方は思われるかもしれません。
しかし実際に指揮官となった中田久美さんは本当に冷静です。ハッキリ言って試合中は顔色一つ変えません。喜怒哀楽が全くといっていいほど表に出ないのです。これは本当に以外でした。試合中のタイムアウト時のアドバイスなどもコーチなどに任せる事が多く、あの強気の中田久美はどこへ?と思われるファンも多いかもしれません。
しかし凄いのは、中田監督はそのスタイルで実績を築いてきたという事。中田監督が凄いのは久光製薬に数々のタイトルをもたらした采配もさることながら、最も凄いのは、久光製薬を常勝軍団に導いた卓越した指導力、選手育成能力でしょう。
今や全日本不動のオポジットに成長した長岡望悠(ながおかみゆ)選手や、これも全日本の常連となった石井優希選手を鍛えて試合で我慢強く使ってここまでの選手に育て上げたのは、間違いなく久光監督だった中田監督の手腕です。
その他にも新鍋理沙、岩坂奈々、野本梨佳、古藤千鶴、座安琴希らの全日本代表組を育て上げて見事に魅力的な攻撃と守備がバランスよく一体となった魅力的なチームに作り上げました。
現役時代の中田久美しか知らない人は指導者として帰ってきた今の姿を見て少し戸惑うかもしれませんね。しかし紛れもなく超一流の監督となって帰ってきてくれたのです。
現役時代のライバル、郎平に勝るとも劣らぬ指導者としての資質
正直言って、日本女子バレー界は今まだロンドン五輪でメダルを獲得したチームからの完全脱皮の途中にあるといってもいいかもしれません。ロンドン後には長らくチームの司令塔を務めたセッターの竹下佳江、世界一のリベロ・佐野優子、さらに中央の壁として立ちはだかった大友愛などが引退しました。そしてリオ五輪後には攻守の要だった木村沙織、ロンドンメンバーの迫田さおりも引退と、中田久美監督にはチーム作りの根幹から求められているのが現状です。
奇しくも現役時代にしのぎを削ったライバル、中国の郎平は中国代表監督として見事にリオで王国復活の金メダルを母国にもたらしました。指導者としての力量やカリスマ性において中田監督は郎平に勝るとも劣らない素晴らしい監督です。
東京オリンピックでの全日本代表監督というプレッシャーはとてつもなく重いものですが、この稀代の天才監督ならばいとも簡単に乗り越えてくれそうな気がしてしまいます。ともかくこれほどワクワクさせてくれる監督は初めてです。“中田久美だったら必ず何かやってくれる”、そんな気がするのはわたしだけでしょうか。
時を同じくして日本男子を率いる事となった中垣内祐一監督については以下の記事をご覧ください。
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