ヨハン・クライフとは?ペレやマラドーナ、プラティニ級のレジェンド 近代サッカーと現在のバルセロナの美しさを作った男

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ワールドカップアジア二次予選の日本対アフガニスタンを視聴し、5-0で勝利したのを見届けてからネットに目をやると信じられないニュースが飛び込んできました。

サッカー界のレジェンド、オランダのヨハン・クライフが死去したそうです。

現在公式サイトのサーバーがダウンしているようで詳細は分かりませんが、確実な情報の様です。

サーバーがダウンするほどに全世界からアクセスが集まっているのでしょう。

当然です。

なにせクライフと言えば、ペレやマラドーナ、ベッケンバウアーらと並ぶサッカー界のレジェンドなのですから・・

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天才少年ヨハン・クライフ 運命の師・ミケルスとの出会い

ヨハン・クライフは1947年4月25日、アムステルダムの東に位置するべトンドルプという小さな町で生まれました。

兄の影響でサッカーを始めたクライフ少年はみるみるうちに上達し、10歳でオランダの名門チーム、アヤックスの下部チームに入団します。12歳の時に青果店を営んでいた父が他界。母は青果店をたたみ、女手一つでクライフら子どもたちを育てました。15歳でユースに昇格したクライフは、持ち前のテクニックと得点能力でめきめき頭角を現します。そしてそんな時期に、クライフの才能に目を付けたアヤックストップチームの監督から、自分自身の得点だけではなく、チームのためにプレイする事を教えられます。これが後々クライフが「トータルフットボールの申し子」と呼ばれる大きな転機となるのです。

1964年、弱冠16歳でアヤックスとプロ契約を結び、11月には初ゴールを決めます。そして1965年1月にクライフは自身のサッカー人生を決定づける運命の出会いを果たします。

アヤックスの監督に後のオランダ代表監督、リヌス・ミケルスが就任するのです。ミケルスは溢れるほどの才能に対してまだまだ心身ともに幼かったクライフの将来を考えて、彼を控えメンバーとして大切に育てました。一方で、ミケルスの代名詞ともいえる「トータル・フットボール」を実践するためにアヤックスの選手たちには過酷な練習を課します。青年であったクライフはハードな練習に耐え、徐々にフィジカル面でもプロの体となっていったのです。

1965-65シーズンには19試合に出場して16得点を挙げるなど、弱冠18歳にして既に優勝したアヤックスの不動の中心選手となっていました。翌シーズンには得点王を獲得、ミケルスの理想とする「トータルフットボール」にもはやクライフは無くてはならない存在となっていたのです。

1970-71シーズンでは念願のUEFAチャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)優勝を果たし、見事にヨーロッパの頂点に輝いた。ミケルスからシュテファン・コバチに監督が交代した翌シーズンも優勝しUEFAチャンピオンカップ2連覇を成し遂げます。

伝説となった1974W杯 バルセロナ監督時代には現在の美しさの基礎を築く

そして1974年、クライフにとって初のワールドカップを迎えます。国内チームのアヤックスがヨーロッパで無双していたのと対照的にオランダ代表は1970ワールドカップ、1972欧州選手権(現在のユーロ)で予選敗退と、本戦にさえ出場できない低迷が続いていました。

そして迎えた1974年のワールドカップ西ドイツ大会。オランダ代表監督にはクライフの師ともいえる、現バルセロナ監督のミケルスが兼任でオランダ代表も率いていました。

ミケルスの決して妥協を許さない「トータル・フットボール」。全員が守備し、全員で攻撃をする。両サイドにスピードと突破力に優れたウインガーを配置し、相手のサイドをえぐる。選手のポジショニングを数十センチ単位にまで指示し、距離感を決して崩さない。今では当たり前の事なのですが、この時代にこのサッカーは衝撃をもって登場しました。その伝道師がミケルスであり、その体現者がクライフだったのです。

1974年のワールドカップでオランダ代表は全世界のサッカーファンを魅了する美しいサッカーを見せましたが、決勝で地元西ドイツに屈し、準優勝に終わりました。しかしクライフのその攻守にわたる縦横無尽の活躍と天才的なプレーは優勝国の西ドイツ以上に世界に称賛されました。

この後、クライフは1978年のワールドカップに出場することなく代表を引退します。まだ30歳。余りにも早い代表引退でした。クラブチームではアヤックスの後、スペインのバルセロナに移籍、再びミケルスと師弟となります。バルセロナでも活躍し、バロンドールを受賞、その後はアメリカ、スペイン、アメリカ、そして最後は母国オランダでプレーし、1984年に36歳で現役を引退します。

その後は監督としてアヤックス、バルセロナを率いて活躍します。特にバルセロナではクーマン、グアルディオラ、ストイチコフ、ラウドルップらドリームチームと呼ばれた完成度の高さでヨーロッパの頂点に輝きます。このクライフの魅力的なポゼッションサッカーは現在のバルセロナの国際的人気の基礎を作りました。現在メッシやネイマール、スアレスらが黄金期を作っているバルセロナ。勝利するだけではなく、見る者を魅了するバルサのサッカーは間違いなくクライフから始まったのです。そして1996年にバルセロナの監督を退任、それ以降は代表、クラブを率いる事は在りませんでした。

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ヘビースモーカーだったクライフ 心筋梗塞と肺ガンを患う

ヨハン・クライフは1992年のバルセロナ監督時代に心筋梗塞に倒れ、一時期休養しています。そして2015年には肺がんが見つかり、それ以来病魔と闘ってきました。どちらも原因は15歳の頃から吸っていたタバコとの因果関係が囁かれています。心筋梗塞で倒れて以来、クライフは煙草を辞めたと言われていますが、肺ガンと聞いたらやはりタバコを思い浮かべてしまいます。それくらいサッカーファンの間ではクライフのヘビースモーカーぶりは有名だったのです。監督時代に禁煙に耐え切れずに口元寂しさでチュッパチャプスをくわえていたのはあまりにも有名です。

肺ガンで療養中だったクライフはほんの数か月前に声明を発表。病魔との戦いは「前半戦を終えて2-0でリードしている」と語って、治療が順調な事にファンは胸をなで下ろしていたばかりです。それなのに・・

サッカー界では「2-0というのは勝っている方にとって最も危険なスコア」と言われています。サッカーの申し子でさえもこの定説は覆せなかったのでしょうか・・

サッカー史ではペレやマラドーナ、ベッケンバウアー以上に重要な偉人

クライフはその奔放な発言と強気な性格によって様々な軋轢も生んできました。

自分自身を最も優れた選手と称し、他の選手をレベルが低いと言ってのけるその自信家でありプライの高いキャラクターはしばしば批判の的ともなりました。

しかし、彼はそれを言ってもいい人間なのです。それだけの素質に恵まれ、それだけの実績を残したのです。選手・監督としてこれだけの成功を収めた人間はこのヨハン・クライフとドイツの「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーだけでしょう。

クライフが現役時代に体現した現代フットボールの始まりともいわれる「トータル・フットボール」、そしてバルセロナ監督時代に築き上げたポゼッション重視の美しいパスサッカーは、間違いなくサッカーの歴史を変えたものです。サッカー史における重要度で言えば、クライフはペレやマラドーナをはるかに凌いでいるとわたしは思います。

今はただ、ただひたすらこのサッカー界を変えた不世出の天才の冥福を祈るだけです。

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