野球における大記録の一つであり、投手にとっての夢ともいえるのが「完全試合」。「パーフェクトゲーム」とも呼ばれる、投手にとっては最高の栄誉であり夢の記録、しかしそれ故にとんでもなく高い難易度を誇っている大記録、それが「完全試合」なのです。
ここではそんな夢の大記録、「完全試合」を成し遂げた日本プロ野球界の大投手たち15人のうちの5人(6人目~10人目)をご紹介したいと思います。
完全試合達成投手の1人目から5人目についてはこちらの記事をご覧ください。
島田源太郎(しまだげんたろう/大洋ホエールズ) 1960年(昭和35年)対大阪タイガース
スコア :大洋1-0大阪タイガース
達成日 :昭和35年8月11日
球 場:川崎球場
達成投手:島田源太郎(しまだげんたろう)
生年月日:1939年(昭和14年)8月25日
通算成績:70勝77敗
権藤博監督が率いた横浜ベイスターズが「大魔神」と呼ばれた守護神・佐々木主浩や鈴木尚典やローズ、駒田徳広らを擁したマシンガン打線を武器に38年ぶり2度目の優勝を果たしました。当時最もリーグ優勝から遠ざかっていた横浜の優勝は大きな話題になりましたよね。
そんな横浜DeNAベイスターズの球団創設以来2度の優勝のうちの1度め、つまり初優勝が昭和35年。この記念すべき年にも優勝した大洋ホエールズの若きエースが完全試合の快挙を成し遂げています。その投手が島田源太郎投手。気仙沼高校を卒業後、大洋ホエールズにテスト入団した島田投手はこの年プロ入り3年目。大記録当日はまだ20歳という若手投手でした。そんな20歳の若者が大阪タイガース(現;阪神タイガース)相手に大記録を達成してしまったのです。
この年島田投手はキャリアハイとなる19勝を挙げ、当時の大洋の不動の大エースだった秋山登に次ぐ勝ち星を挙げて大洋ホエールズ悲願の初優勝の原動力となりました。ちなみにこの島田源太郎投手の20歳11か月での完全試合達成は史上最年少完全試合達成投手として、日本プロ野球記録となっています。
森滝義巳(もりたきよしみ/国鉄スワローズ) 1961年(昭和36年)対中日ドラゴンズ
スコア :国鉄1-0中日ドラゴンズ
達成日 :昭和36年6月20日
球 場:後楽園球場
達成投手:森滝義巳(もりたきよしみ)
生年月日:1938年(昭和13年)3月8日
通算成績:16勝46敗
昭和53年の初優勝までは、球団創設以来下位に低迷していた年月の永かった国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)。そんな国鉄から早くも三人目となる完全試合達成者が出たのが昭和36年。この森滝投手の達成によってNPB(日本プロ野球)での完全試合達成者は7人目となり、実にそのうち3人は国鉄スワローズの投手であるという事となります。当時の実力的に決して強豪とは言えない国鉄からこれだけのパーフェクトゲーム達成者が出るというのは凄い快挙であるといってもいいでしょう。
この森滝投手は立教大学で活躍した右のアンダースロー投手で、変化球のコンビネーションと精密なコントロールで打たせて取るタイプのピッチャーでした。ちたみに立教の2コ上にはあのミスタージャイアンツ・長嶋茂雄と、史上最強のサブマリンとまで呼ばれた南海のエース・杉浦忠がいました。
国鉄スワローズに入団した森滝投手ですが、2桁勝利を挙げたのはこの完全試合を達成した昭和36年のみ(10勝8敗)。この年以外の総勝利数は6勝に過ぎません。この昭和36年に強く光り輝いた森滝投手は、完全試合を達成してNPB史にその名を残しました。こういう投手が完全試合達成者に名を連ねるからこそ野球というのは面白いというか、奥が深いというか、やっぱり素晴らしいですよね。
佐々木吉郎(ささききちろう/大洋ホエールズ) 1966年(昭和41年)対広島東洋カープ
スコア :大洋1-0広島東洋カープ
達成日 :昭和41年5月1日
球 場:広島市民球場
達成投手:佐々木吉郎(ささききちろう)
生年月日:1940年(昭和15年)3月4日
没年月日:2008年(平成20年)12月21日(満68歳没)
通算成績:23勝34敗
NPBにおける8人目の完全試合達成者がこの佐々木吉郎投手。島田源太郎投手に続いて大洋からは2人目のパーフェクトピッチャーとなりました。先に述べた国鉄の森滝投手と同様、この佐々木投手も8年間にわたるプロ野球でのキャリア通算の勝利数はわずか23勝に過ぎません。そのうち完全試合を達成した昭和41年に8勝を挙げています。
面白いのが、佐々木投手が完全試合達成に至った経緯でしょう。
この佐々木投手が完全試合を達成した大洋対広島戦、実は大洋の先発予定は右投手の佐々木吉郎ではなく、速球派左腕の小野正一投手でした。
今のように予告先発ではないこの時代は、相手先発投手を左腕と予想すれば右打者を、右腕と予想すれば左打者を並べるのがセオリーでした。そんな読み合いの中で当時の大洋ホエールズの別所毅彦ピッチングコーチは相手が小野を予想して右打者を並べてくる中、右投手の佐々木吉郎を先発に送り込みます。ただしこれはあくまで「当て馬」。左腕の小野投手と予想してスタメンで並べた広島の右打者を左打者に変えさせようという狙いです。右打者を左打者に代えさせてから本来の先発投手予定であった左腕の小野正一投手に投手交代するという予定だったといいます。その交代時期は1回終了時。
しかし佐々木投手がランナーを出さない事から、別所コーチはヒットを打たれるまでは佐々木投手で行くと決断。結局佐々木投手は最後までヒットどころかランナーを一人も許さずにパーフェクトゲームを達成してしまったというわけです。何とも凄いエピソードです。「完全試合なんて狙ってできるわけがない」と誰もが言いますが、それを如実に表しているのがこの佐々木吉郎投手の完全試合エピソードといえるでしょう。
ちなみにこの佐々木投手の大記録は、佐々木吉郎氏の地元である秋田県の大仙市にある「かみおか嶽雄館(がくゆうかん)」の二階にある野球展示室に当時の写真が飾ってあるそうです。興味のある方は是非どうぞ。
田中勉(たなかつとむ/西鉄ライオンズ) 1966年(昭和41年)対南海ホークス
スコア :西鉄2-0南海ホークス
達成日 :昭和41年5月12日
球 場:大阪球場
達成投手:田中勉(たなかつとむ)
生年月日:1939年(昭和14年)10月10日
通算成績:103勝89敗
大洋ホエールズの佐々木吉郎投手が広島市民球場での広島カープ戦で完全試合を達成してからわずか11日後の昭和41年5月12日の大阪球場での西鉄対南海戦。またも完全試合が達成される事となりました。達成したのは当時西鉄ライオンズで3年連続2ケタ勝利を挙げていたバリバリのエース級・田中勉投手。
わずか二週間足らずの間隔で完全試合が達成されたのはこの佐々木投手と田中投手の記録が最短間隔ですし、同一シーズン(同一年)内での複数の完全試合達成もこの1966年(昭和41年)のみとなっています。
前述したように、国鉄の森滝投手、大洋の佐々木投手ともに完全試合記録を達成したシーズンにキャリア敗の成績を残しているのですが、この田中投手もこの昭和41年に自己最多、自身唯一の20勝以上となる23勝(12敗)を挙げて最多奪三振にも輝いています。他の投手と同様に、狙ってできるものではないとはいってもやはり調子のいいシーズンには達成の可能性が高まるという事なんでしょうね、当たり前っちゃあ当たり前なんですけど(苦笑)。
外木場義郎(そとこばよしろう/広島東洋カープ) 1968年(昭和43年)対大洋ホエールズ
スコア :広島2-0大洋ホエールズ
達成日 :昭和43年9月14日
球 場:広島市民球場
達成投手:外木場義郎(そとこばよしろう)
生年月日:1945年(昭和20年)6月1日
通算成績:131勝138敗
ご存知広島カープ初優勝時の大エースであり、NPB記録となる3度のノーヒットノーランを達成している唯一の投手、それがこの外木場義郎投手です。「ミスターノーヒットノーラン」との呼び名もある大投手です。
そんな外木場投手のキャリア通算3度の「ノーノー」のうち、2度目に達成したこの1968年(昭和43年)の試合はなんと完全試合という快挙だったのです。
キャリア通算で131勝を挙げて3度のノーヒッター(うち1回は完全試合)を達成し、最多勝や最優秀防御率、最多奪三振、沢村賞などのタイトルも獲得した外木場義郎投手。その投球スタイルはまさに豪球投手。重い剛速球に外木場投手の代名詞ともいえるブレーキの利いた大きく曲がって相手打者の空振りを取るパワーカーブはまさに本格派投手というにふさわしいスタイルでした。そんな外木場投手が完全試合を達成した昭和43年9月14日の太陽ホエールズ戦では、完全試合達成に加えて16奪三振を記録し、当時のセ・リーグ奪三振タイも記録しました。この奪三振数はもちろん完全試合の中で最多奪三振記録となっています。
「小さな大投手」と呼ばれた広島カープ黎明期の大エース・長谷川良平投手引退後の広島カープをエースとして牽引して日本一に導いた外木場義郎。間違いなくカープの歴史に名を残すレジェンドですね。カープの歴史はもちろんの事、同時に記録でも日本プロ野球史に燦然とその名を残しているのです。
どうでしたか?NPBでの完全試合達成投手シリーズその2。歴代15投手の中の5人の名投手を紹介しました。
その他の投手たち、完全試合達成の11人目から15人目については以下の記事をご覧ください。
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