このページでは日本プロ野球の歴史における監督通算勝利数ランキングの6位から1位までをご紹介します。7位~30位までについては以下の記事をご参照ください。
日本プロ野球(NPB)史上監督最多勝利数記録ランキングを現役時代の実績で検証➀
勝利数6位 “悲運の名将” 西本幸雄(にしもとゆきお) 1322勝
名 前:西本幸雄(にしもとゆきお)
生年月日:1920年(大正9年)4月25日
没年月日:2011年(平成23年)11月25日(91歳没)
出 身:和歌山県和歌山市
大毎、阪急、近鉄というパ・リーグ3球団で指揮を執り、8度ものリーグ優勝を果たして名将の名をほしいままにしながら、日本シリーズでは1度も勝てなかった西本幸雄氏。その名称である「悲運の名将」とは、名将と呼ばれながらも日本一に1度もなれなかったという悲劇的な監督キャリアから名づけられたものです。
監督通算勝利・敗戦成績 | 勝率 | 優勝回数 | 所属球団(監督) |
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1384勝1163敗118分 | .543 | 8回 | 大毎、阪急、近鉄 |
ポジション | 通算成績 | 獲得タイトル | 所属球団(選手) |
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一塁手 | 491試合276安打 | なし | 毎日 |
大毎、阪急、近鉄と率いたチーム全てで優勝を成し遂げた名将・西本幸雄氏でしたが、その現役キャリアは至極平凡そのものなものでした。毎日オリオンズへのプロ入り時には既に30歳だったこともありますが、西本幸雄氏の本領は現役引退後といってもいいでしょう。
時には鉄拳も辞さない熱血監督ぶりで有名だった西本氏ですが、同時に情に厚い人物としても有名でした。だからこそ厳しいながら選手たちには大変慕われていたのも有名な話です。プロ野球ニュースの解説者時代、大変厳しい評論での解説が多かった中、時折アナウンサーに冗談でツッコまれた時の何ともはにかんだ人懐っこい笑顔にそんな西本さんの一面が見られましたね。
勝利数5位 “ID野球/野村再生工場” 野村克也(のむらかつや) 1565勝
名 前:野村克也(のむらかつや)
生年月日:1935年(昭和10年)6月29日
出 身:京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)
中島治康氏に次ぐ日本プロ野球史上2人目の三冠王であり、戦後初の三冠王、さらに捕手としての三冠王はアメリカ大リーグでも誰も成し遂げていない、世界でこのノムさんただ一人という、レジェンドであります。齢80を過ぎた現在でも多くのメディアにおいて辛口評論を続け、未だ大きな影響力を持つプロ野球界の大御所ですね。
監督通算勝利・敗戦成績 | 勝率 | 優勝回数 | 所属球団(監督) |
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1565勝1563敗76分 | .500 | 5回 | 南海、ヤクルト、阪神、楽天 |
ポジション | 通算成績 | 獲得タイトル | 所属球団(選手) |
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捕手 | 3017試合2901安打657本塁打 | 首位打者 1回 ホームラン王 9回 打点王 7回 最多安打 1回 |
南海、ロッテ、西武 |
“生涯一捕手”としてキャッチャーというポジションにこだわりとプライドを持ち続けた現役生活でした。捕手というポジションを体現したプレイヤーといっても過言ではないでしょう。まさにプロ野球史上最強捕手ですね。
監督としてはデータを重視したID野球という言葉を生み出してヤクルトスワローズを常勝球団へと導きました。さらに決して恵まれた戦力ではなくとも、“野村再生工場”と呼ばれた指導力によって多くの引退危機に陥っていた選手を戦力として採用しました。監督通算キャリアにおける勝率は.500ギリギリですが、引き受けた各球団の戦力やそれまでの成績などを考えれば素晴らしいものであることは一目瞭然でしょう。現在の巨人やソフトバンクといった資金力豊富で巨大戦力を保持できる球団をノムさんが監督として率いる事があったならどんなチームが出来てどんな野球をしたのか…一度は見て見たかったのはわたしだけではないはずです。
勝利数4位 “大リーグ式近代野球を導入した知将” 水原茂(みずはらしげる) 1322勝
名 前:水原茂(みずはらしげる)
生年月日:1909年(明治42年)1月19日
没年月日:1982年(昭和57年)3月26日(73歳没)
出 身:香川県高松市
巨人と東映で計9度の優勝を成し遂げ、セ・パ両リーグで日本一に輝いた知将・水原茂氏が4位にランクインしました。いち早く大リーグ(MLB)方式のトレーニングや戦術を日本野球に導入して近代野球の道を切り開いた監督としても知られている名監督ですね。
監督通算勝利・敗戦成績 | 勝率 | 優勝回数 | 所属球団(監督) |
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1586勝1123敗73分 | .585 | 9回 | 巨人、東映、中日 |
ポジション | 通算成績 | 獲得タイトル | 所属球団(選手) |
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三塁手 投手 |
523試合476安打 12登板8勝 |
なし | 巨人 |
水原氏が現役時代に活躍していた戦前及び終戦直後というのは、1シーズンの試合数が少ない事や飛ばないボールによる極端な投高打低傾向によって、打者の成績は現在に比べるとごく平凡な傾向があったために水原氏に関しても通算成績に関しては一見平凡に見えますが、巨人軍のレギュラーとして活躍しました。ただ惜しむらくは、太平洋戦争の招集とその後のシベリア抑留によって約8年間もプロ野球から遠ざかってしまった事でしょうか。
監督としては常勝巨人軍で川上哲治、与那嶺要、千葉茂、別所毅彦らを率いて巨人の第二期黄金時代を築き、その後はパ・リーグの東映フライヤーズ監督として指揮を執った7年間全てAクラス入りという安定感抜群の成績を残し、キャリア最後の中日ドラゴンズでは優勝こそなかったものの、星野仙一や大島康徳、谷沢健一、島谷金二といった。後に古巣巨人のV10を阻止した主力メンバーを育てました。
勝利数3位 “東京巨人軍初代監督” 藤本定義(ふじもとさだよし) 1657勝
名 前:藤本定義(ふじもとさだよし)
生年月日:1904年(明治37年)12月20日
没年月日:1981年(昭和56年)2月18日(76歳没)
出 身:愛媛県松山市
いよいよここからベスト3となります。その歴史そのものがプロ野球の歴史ともいえる栄光の読売ジャイアンツの初代監督、藤本定義氏が堂々の3位にランクインです。
監督通算勝利・敗戦成績 | 勝率 | 優勝回数 | 所属球団(監督) |
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1657勝1450敗93分 | .533 | 9回 | 巨人、パシフィック→太陽、金星→大映、阪急、阪神 |
ポジション | 通算成績 | 獲得タイトル | 所属球団(選手) |
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プロ野球実績なし |
エースの連投当たり前の当時のプロ野球界において投手ローテーションという概念を導入し、晩年には“伊予の古狸(ふるだぬき)”の異名をとるほどの知略を見せた知将・藤本定義氏。しかしウイニングショットのカーブを自在に操って大活躍したアマチュア時代(松山商→早稲田大学)にはまだ日本にプロ野球は誕生しておらず、プロ野球発足時には東京巨人軍監督として参加したのです。プロ実績こそありませんが、藤本氏の全盛期にプロがあったら当然プロで大活躍していた事でしょう。
巨人軍で7度の優勝を果たしてジャイアンツの第一期黄金期を築いた後、キャリアの最後には巨人の宿敵・阪神タイガースを率いて2度の優勝を含む7年連続Aクラスという阪神黄金期を作り上げました。まさにプロ野球黎明期から球界のど真ん中で活躍した名監督です。
勝利数2位 “魔術師”三原脩(みはらおさむ) 1687勝
名 前:三原脩(みはらおさむ)
生年月日:1911年(明治44年)11月21日
没年月日:1984年(昭和59年)2月6日(72歳没)
出 身:香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)
監督通算勝利数第4位にもランクインしている水原茂氏とは名将同士であり、二人の対決は巌流島の決闘と呼ばれる程の注目度を集めました。勝利のため、時には相手の虚を突き勝機を得る変幻自在の戦術は三原マジックと呼ばれました。そんな三原修氏が2位にランクインしています。
監督通算勝利・敗戦成績 | 勝率 | 優勝回数 | 所属球団(監督) |
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1687勝1453敗108分 | .537 | 6回 | 巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルト |
ポジション | 通算成績 | 獲得タイトル | 所属球団(選手) |
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二塁手 | 108試合92安打 | なし | 巨人 |
太平洋戦争への応召で負った怪我の影響などによりわずか3年に過ぎなかった三原脩氏の現役生活でしたが、その本領は監督になってから発揮されました。
偵察メンバー起用やワンポイントリリーバー、走攻守のどれかに秀でたスペシャリストを重用する選手起用に加え、二番には繋ぎの選手ではなく強打者を起用する「流線形打線」を編成する等、この稀代の智将が執った采配は現在に至るまで多大なる影響を残しています。
“魔術師”とまで呼ばれたその名采配は未だに「三原マジック」と呼ばれ、多くのプロ野球ファンのリスペクトを受けています。そんな三原脩氏だけが持つ記録、それがセントラル・リーグ球団での日本一(大洋ホエールズ)、パシフィック・リーグ球団での日本一(西鉄ライオンズ)、そして日本野球連盟(1リーグ制)での日本一(巨人)という全ての種類での日本一監督だという実績です。まさに“名将”なのです。
勝利数1位 “ミスターホークス/親分”鶴岡一人(つるおかかずと) 1773勝
名 前:鶴岡一人(つるおかかずと)
生年月日:1916年(大正5年)7月27日
没年月日:2000年(平成12年)3月7日(83歳没)
出 身:広島県呉市
現役、監督生活ともに南海ホークス一筋の野球人生を送った“鶴岡親分”こと鶴岡一人氏(1946年~1958年の名は山本一人)。鶴岡親分という呼び名の他にも「ミスターホークス」「ドン」など、この鶴岡一人氏の通称は数多くあります。それだけ球界において特別だったという事でしょう。
監督通算勝利・敗戦成績 | 勝率 | 優勝回数 | 所属球団(監督) |
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1773勝1140敗81分 | .609 | 11回 | グレートリング→南海 |
ポジション | 通算成績 | 獲得タイトル | 所属球団(選手) |
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内・外野手 投手 |
754試合790安打 1登板0勝 |
本塁打王 1回 打点王 1回 |
南海→グレートリング→南海 |
終戦間もない1946年(昭和21年)に29歳という若さで南海ホークスの選手兼任監督となって以来23年間のホークス監督生活。同じ球団における監督就任期間としてはもちろん最長記録となります。
プロ野球界にも暗い影を起こした戦争において中隊長を務めたその統率力と義理人情に篤いその人間性に加え、最新の選手育成術や新人・外国人助っ人の卓越したスカウティングも取り入れたバランスの良い監督としての能力を持っていた監督という評価を得ている鶴岡監督。セ・リーグの「ドン」である川上哲治氏とともにパ・リーグの「ドン」として監督引退後も強烈な存在感を発揮されました。
選手としては戦争によって20代のほとんどの期間を棒に振ったにもかかわらず、ホームラン王と打点王を獲得する程のスラッガーでした。この選手時代も南海一筋でした。まさに「ミスターホークス」「ミスター南海」に相応しい人物です。まあこれほど一つの球団におけるシンボリックな存在はこれからも現れる事は無いでしょう。監督としての勝利数や1000勝以上監督で唯一の勝率.600超えといった数字面と同様にその辺りがまた鶴岡一人氏の凄さなのではないでしょうか。
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