巨人軍歴代監督の勝敗や優勝回数等全成績一覧 読売ジャイアンツの指揮官全16人データ➀三宅大輔から水原茂まで

日本プロ野球界の盟主として時代を築いてきた読売ジャイアンツ。そんなジャイアンツの監督といえば、長い長い日本野球の歴史の中でもたったの16人しか経験者のいない狭き狭き門でもあります。

大きなやりがいと強烈なプレッシャーに晒され、巨人軍独自の不文律をクリアした者にしか就任を許されないといわれる読売巨人軍監督。

そんな選ばれし16人とその成績やプロフィール等をご紹介しましょう。なお、公式戦勝敗と優勝回数は巨人監督としての成績です。

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大日本東京野球倶楽部初代監督:三宅大輔(みやけだいすけ)

名   前:三宅大輔
生年月日 :1893年(明治26年)4月16日
没年月日 :1978年(昭和53年)1月3日(満84歳没)
出   身:東京都
出 身 校:慶應義塾大学
公式戦勝敗:なし
優勝回数 :なし
巨人監督期:1934年~1935年

日本プロ野球誕生前、沢村栄治やV・スタルヒンなどの全日本代表を中心として大日本東京野球倶楽部が1934年12月26日に誕生しました。この大日本東京野球倶楽部こそが、後の読売ジャイアンツとなりました。そしてその時の初代監督が三宅大輔氏。栄光の巨人軍初代監督とされる方です。

三宅氏は翌1935年のアメリカ遠征後に監督を退任。来る日本職業野球連盟誕生後には阪急軍(現:オリックス)や産業軍(現:中日ドラゴンズ)の監督も歴任された、プロ野球黎明期の名将です。

東京巨人軍2代目監督:浅沼誉夫(あさぬまよしお)

名   前:浅沼誉夫(あさぬまよしお)
生年月日 :1891年(明治24年)1月5日
没年月日 :1944年(昭和19年)1月24日(満53歳没)
出 身 校:早稲田大学商科
公式戦勝敗:なし
優勝回数 :なし
巨人監督期:1936年

巨人軍の三宅大輔初代監督の時に総監督というポジションに就いていた浅沼誉夫氏が解任された三宅大輔監督の後任として監督となり、1936年の巨人軍のアメリカ遠征で指揮を執る事となりました。米国遠征からの帰国後に監督の座を解任されたため、国内公式戦の記録は三宅氏と同様残っていません。その後昭和19年に53歳という若さで亡くなりましたが、もし健在であったならば、三宅氏と同様にプロ野球創成期のいずれかの球団で指揮を執っていたであろうだけに残念ですね。

東京巨人軍3代目監督:藤本定義(ふじもとさだよし)

名   前:藤本定義(ふじもとさだよし)
生年月日 :1904年(明治37年)12月20日
没年月日 :1981年(昭和56年)2月18日(満76歳没)
出 身 地:愛媛県松山市
出 身 校:早稲田大学商学部
公式戦勝敗:422勝168敗14分
優勝回数 :7回(全て1リーグ制時代)
巨人監督期:1936年~1942年

早稲田大学時代には鋭いカーブを武器とする投手として大学野球の花形スターとなり、卒業後は東京鉄道局(現:JR東日本)の野球部監督として巨人軍に2度までも土をつけるという快挙を成し遂げた藤本定義氏。その手腕を買われて、日本職業野球連盟(現:日本野球機構)発足後の公式リーグ戦で初めて指揮を執った巨人軍監督となりました。ペナントレースで指揮を執った初の巨人監督という事で、巨人軍の公式見解といってもいい球団史ではこの藤本監督を初代監督として位置付けています。

1938年までは春秋の年2シーズン制だった日本職業野球連盟のペナントレースですが、藤本監督は退任するまでの9シーズン中、なんと7シーズンで優勝を飾っており、在任期間中の勝率も7割に迫るという驚異的なものでした。

巨人軍の監督を退任後も、太陽ロビンスや大映スターズ、阪急ブレーブス、阪神タイガースの監督を歴任。阪神監督時代には2度のリーグ優勝に輝くなど、巨人以外でも22シーズンにわたって監督を務め、監督通算勝利数は歴代通算3位の1657勝という、プロ野球史にその名を残す名伯楽ですね。

なお、東の巨人に西の阪神といわれるこの東西ライバル球団両チームの監督を務めたのは後にも先にもこの藤本定義氏以外にはいません。

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東京巨人軍4代目・6代目監督:中島治康(なかじまはるやす)

名   前:中島治康(なかじまはるやす)
生年月日 :1909年(明治42年)6月28日
没年月日 :1987年(昭和62年)4月21日(満77歳没)
出 身 地:長野県東筑摩郡中山村(現:長野県松本市)
出 身 校:早稲田大学商学部
公式戦勝敗:150勝101敗4分(代行時も含む)
優勝回数 :2回(全て1リーグ制時代)
巨人監督期:1943年・1946~1947年・1949年

記念すべき巨人軍の球団ホームラン第1号を放ち、日本初の三冠王(1938年秋シーズン)にも輝いたスラッガー、長嶋茂雄が付けた巨人軍の背番号3を初めて背負った中島治康が巨人軍の第4代目及び6代目の監督となります(1949年は監督代行)。

監督としての記録はすべて選手兼任監督としての数字であり、選手生活最後の2年間は新球団となったばかりの大洋ホエールズで現役を終え、現役ラストイヤーの1951年には大洋球団でも選手兼任監督を務めました。

打撃の神様と呼ばれた川上哲治や“じゃじゃ馬”の異名を取った青田昇らより前の巨人軍スラッガーの代名詞だった大打者こそこの中島治康氏だといってもいいでしょう。

東京巨人軍5代目監督:藤本英雄(ふじもとひでお)

名   前:藤本英雄(ふじもとひでお)
生年月日 :1918年(大正7年)5月18日
没年月日 :1997年(平成9年)4月26日(満78歳没)
出 身 地:山口県下関市彦島
出 身 校:明治大学
公式戦勝敗:83勝53敗4分
優勝回数 :0回
巨人監督期:1944年~1946年

プロ野球黎明期における巨人軍のエース、いやプロ野球界のエースといえば、非業の戦死を遂げた天才投手・沢村栄治やロシア生まれの剛速球投手・ヴィクトル・スタルヒンなどが有名ですが、東京巨人軍の第5代監督を務めた藤本英雄氏もまたそんな伝説のピッチャー列伝に名を連ねる名投手であります。

“ジャジャ馬”青田昇氏が伊藤智仁と稲生和久に並ぶ程の魔球と絶賛したスライダーを武器として日本プロ野球界初の完全試合を達成した投手であり、200勝投手にもなりました。ホップする程のストレートの軌道から打者の近くで鋭角に曲がるスライダーはあの伝説の「火の玉投手」と呼ばれた剛腕、ボブ・フェラーのスライダーを参考にしたといわれています。

そんな名投手の藤本英雄さんは弱冠25歳で現役投手兼任の青年監督となって巨人軍を指揮しました。この25歳での監督就任というのは、現在に至るまで日本プロ野球界の最年少監督記録ともなっています。恐らくこれから未来永劫この藤本さんの最年少監督就任記録は破られる事はないでしょう。史上初の完全試合達成ピッチャーという偉業と併せて、永遠にプロ野球史に名を残すレジェンダリー投手といえるでしょう。

1945年(昭和20年)の戦況悪化によるリーグ戦中断という激動の時代を跨いで巨人軍を支えた功労者でもあります。もっともっと名を知られてもいい人物だと思いますがいかがでしょうか。

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読売ジャイアンツ7代目監督:三原修(みはらおさむ)

名   前:三原修(みはらおさむ)
生年月日 :1911年(明治44年)11月21日
没年月日 :1984年(昭和59年)2月6日(満72歳没)
出 身 地:香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)
出 身 校:早稲田大学商学部
公式戦勝敗:225勝162敗7分
優勝回数 :1回(全て1リーグ制時代)
巨人監督期:1947年~1949年

“魔術師”という異名を取った名将・三原脩。巨人軍監督時代の漢字表記は「三原修」でした。今や伝説となっている名監督であり、彼が残した采配やセオリー等は「三原魔術」と呼ばれて現在でも大きな影響を与え続けています。

現役時代は俊足巧打の内野手として花の早慶戦を彩るスター選手でしたが、巨人軍でのプロ生活は戦争での怪我等によって決して満足のいくものではありませんでした。しかしそんな三原修氏の真価はむしろ監督としてといえるでしょう。

三原監督の監督通算出場試合の3248試合はプロ野球歴代1位の記録であり、監督として率いたチームが5球団(巨人・西鉄・大洋・近鉄・ヤクルト)というのも1位タイ記録(藤本英雄・石本秀一と並ぶ)、そして監督通算勝利数1687は歴代2位。名将の名に恥じぬ輝かしい記録に包まれています。

監督実績のスターととなった巨人軍の監督は僅か3シーズン、ラストイヤーとなった1949年は奇しくも1リーグ制最後の年となり、1950年のセ・パ2リーグ分裂シーズンは日本プロ野球界と共に巨人軍も新時代へと突入していく事となりました。

読売ジャイアンツ8代目監督:水原茂(みずはらしげる)

名   前:水原茂(みずはらしげる)
生年月日 :1909年(明治42年)1月19日
没年月日 :1982年(昭和57年)3月26日(満73歳没)
出 身 地:香川県高松市
出 身 校:慶應義塾大学
公式戦勝敗:881勝499敗29分
優勝回数 :8回(日本一が4回)
巨人監督期:1950年~1960年

魔術師と呼ばれた三原修の後を受けて巨人軍監督となったのが、その三原とは大学時代からの宿命のライバルであった水原茂。高松商高校時代には甲子園で2度の優勝、慶応大学時代も花形スター選手として鳴らして巨人入団という、まさに野球エリートを絵に描いたような野球人生といってもいいでしょう。

しかし、ライバルの三原修と同様にプロ入りしてからは、年々激しさを増す戦時体制の中で応召や戦後のシベリア抑留等の影響もあってプロ生活は不遇なものでした。ですが、三原同様に水原氏の真価が発揮されたのも監督就任後というのが面白いところかもしれませんね。

巨人軍監督在籍11年間でリーグ優勝はなんと8回、日本シリーズを制しての日本一が4度という、藤本英雄監督時代の第一期黄金時代に次ぐ、いわゆる巨人軍の第二期黄金期を作り出した監督でもありました。

巨人監督退任後は東映フライヤーズと中日ドラゴンズの監督を歴任され、特に東映では在籍7年間を全シーズンAクラスという安定した成績を残しました。後に第3期黄金期の中心メンバーとなる“ON”こと王貞治と長嶋茂雄が入団したのはこの水原政権末期の事ですね。

 

第9代監督の川上哲治氏以降の巨人軍監督については以下の記事から続きをご覧ください。

巨人軍歴代監督の勝敗や優勝回数等全成績一覧 読売ジャイアンツの指揮官全16人データ②

なお、巨人軍監督への条件や不文律についてはこちらの記事もご覧ください。

読売ジャイアンツ監督就任条件の「不文律・暗黙のルール」

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