ドラフト指名を4度拒否し5度目で入団した男・元中日投手藤沢公也(ふじさわきみや)を指名した球団と順位

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毎年のように悲喜こもごものドラマを繰り広げる、日本プロ野球界オフシーズンのビッグイベントでもあるプロ野球ドラフト会議(正式名称:新人選択会議)。

このサイトでも「KKドラフト」や「江川事件」、「1位指名競合数」といったドラフトを題材とした記事を書いていますが、選手の人生を左右しているイベントだけに書いていて複雑な心境になる事もしばしばでした。

選手にとっては希望球団に入れるとは限らないドラフトですが、指名を拒否する権利はもちろん保証されています。そして中にはそんな指名拒否を複数回行使した強者もいるのです。ここでは日本プロ野球史上最多となる4度の入団拒否をした一人の漢(おとこ)をご紹介したいと思います。

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ドラフト会議最多指名回数の藤沢公也(ふじさわきみや)氏のプロフィール

「空白の一日」事件で世間を騒がせた怪物・江川卓氏や読売巨人軍の現役選手、長野久義選手など、2回のドラフト指名を蹴って3度目に入団して活躍した選手はよく知られています。

しかし何事も上には上がいるのは世の常というもの、40年以上の歴史を誇るドラフトでも凄い選手がいました。その選手の名前こそ、

元中日ドラゴンズの投手・藤沢公也(ふじさわきみや)さん、その人です。

以下が簡単な藤沢公也氏のプロフィールです。

名   前:藤沢公也(ふじさわきみや)
生年月日 :昭和26年(1951年)11月29日
出 身 地:愛媛県西宇和郡伊方町
生 ま れ:大分県北海部郡佐賀関町(現:大分市)
出 身 校:愛媛県立八幡浜高校
ポジション:投手
身   長:174cm
体   重:70kg
投球・打席:右投げ右打ち

同学年のプロ野球選手としては、後に同僚となる藤波行雄氏、新浦壽夫氏、山本功児氏、蓑田浩二氏、山下大輔氏、加藤博一氏、仁科時成氏、八重樫幸雄氏、福間納氏、太田幸司氏、栗橋茂氏、有田修三氏、河埜和正氏、間柴茂有氏らがいます。かなり豪華なメンバーですよね。

それでは、具体的に藤沢公也氏のドラフト史を見ていきましょう。

1回目 「荒川事件」の昭和44年ドラフトで指名された八幡浜高校エース時代

八幡浜高校のエースだった藤沢公也投手は、甲子園出場こそなかったものの、春の選抜を賭けた四国大会に出場したり、全国制覇を成し遂げた松山商に苦杯を喫したりと、県下では有数の好投手としてプロのスカウトからは注目されていた存在でした。

そんな藤沢投手の将来性に着目して、プロ解禁となる高校三年生時のドラフトだった昭和44年(1969年)のドラフト会議で3位指名したのがロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)でした。しかし藤沢投手はこの指名を蹴って社会人野球の日本鉱業佐賀関(現:パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所)に進みました。ちなみにこの年のロッテオリオンズは1位から8位まで8名の選手を指名しましたが、そのうち3位の藤沢投手を初めとして5位、7位、8位の計4選手が指名拒否という結果でした。この頃のプロ野球界は今と違ってドラフト指名拒否というのは珍しい事ではなく、むしろ日常茶飯事といってもいいほどのものだったのです。12球団全体でも実にこの年だけで37選手が入団を拒否して進学・就職・残留等を選択しています。

この1969年ドラフトでの入団選手の中には、後に名球界入りを果たす事となる門田博光選手(南海ホークス2位)や谷沢健一選手(中日ドラゴンズ1位)という超大物もいました。後、この年のドラフトは「荒川事件」という名で語られている荒川尭(あらかわたかし)氏の大洋ホエールズ指名にまつわる騒動が巻き起こったドラフトとしても有名ですね。

2回目 中日1位・藤沢哲也‥ですが公也投手はヤクルト11指名を華麗にキック(笑)

ロッテの3位指名を蹴って日鉱佐賀関で社会人野球の道を選んだ藤沢投手に再びドラフト指名がかかったのが社会人2年目、藤沢投手20歳を迎える昭和46年(1971年)でした。

この年に藤沢投手を指名したのがヤクルトアトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)。指名順位は11位という下位指名でした。

藤沢公也投手はこの指名も拒否して日鉱佐賀関に残留します。ちなみにこの年の中日ドラゴンズの1位指名は藤沢投手と1文字違いの藤沢哲也投手。もちろんですが藤沢公也投手とは何の関係もありません(笑)が、後に藤沢投手が中日ドラゴンズの1位指名を受ける事になるのを考えると、ただの偶然とはいえなかなか面白いものがあります。

尚、後に「空白の一日」事件によるコミッショナー裁定によって江川卓投手と交換トレードで阪神タイガースに移籍した小林繁投手はこの年の巨人の6位指名でした。そして同じくヤクルトの指名拒否組には、後のプロゴルファー・“ジェット”の異名で人気を誇った尾崎三兄弟の次男、尾崎建夫さん(ヤクルト3位指名)がいました。

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3回目&4回目 近鉄4位を華麗にスルー後、日ハムとは入団直前で破談

藤沢公也投手に3度目のプロ入りのチャンスが訪れたのはヤクルトアトムズ指名の2年後となる昭和48年(1973年)。

この年の指名球団は近鉄バファローズで指名順位は4位。ちなみにこの年の指名拒否選手にはあの作新学院高校の怪物・江川卓投手もいました。さらに阪神タイガースの6位には後のミスタータイガースとなる掛布雅之内野手、さらに藤沢を指名した近鉄の1位指名は駒大の強打者で、後にいてまえ打線の中軸を打つこととなる栗橋茂外野手がいました。名門巨人軍は1位指名と2位指名、3位指名した上位三選手全員に入団拒否されるなど、大荒れのドラフト会議でした。

藤沢投手4度目のドラフト指名は昭和51年(1976年)。既に日鉱佐賀関野球部に入部して7年目、25歳の年を迎えていた藤沢投手でしたが、日本ハムファイターズが敢然と2位指名しました。

これまでの指名とは一転して、2位という高評価や年齢的なものもあり一度は入団を決意した藤沢投手でしたが、日ハム球団が契約金の引き下げを申し入れしてきたことから、藤沢投手は球団の誠意のなさに不信感を抱いて交渉が決裂し、結局4度目のドラフト指名も入団には至りませんでした。

尚、この年のドラフトで藤沢投手含めた全12球団の入団拒否選手は全19名。やはり多いですよね。ちなみに指名全選手が入団したのは巨人、ヤクルト、中日の3球団のみでした。

5回目 中日ドラゴンズ1位で遂にプロ入団!2位はあの速球王・小松辰雄

そしていよいよ運命(?)のというべきか、年貢の納め時というべきか(笑)、藤沢投手5度目にして最後のドラフト指名がやってきました。日ハムの2位指名を蹴った翌年の昭和52年(1977年)ドラフト会議です。

このドラフトではこれまでの指名順位で最も上位であり、選手にとっては栄誉でもある1位で中日ドラゴンズが指名してきました。

年齢は既に26歳を目前に控え、結婚していて守るべき家庭はあったものの、社会人でキャリアを重ねてきた実績もあり、最初の指名時にはなかった投手としての自信も手にしていました。年齢的にも最後のチャンスだと思っていた藤沢公也投手。中日ドラゴンズが示してくれた最高の誠意の前に拒否する理由は有りませんでした。

そして4度拒否して5度目の指名でプロ入りした藤沢投手。

同じドラフトで2位指名された星稜高校出身の高卒投手、小松辰雄投手の快速球に心を折られそうになったものの、当時の中日投手コーチだった往年の鉄腕・稲尾和久コーチの助言もあってパームボールを決め球として磨き、1年目から13勝を挙げて見事に新人王に輝きました。拒否しても拒否しても5度までも指名してきたプロ球団の目が間違っていなかったことを証明した大活躍でした。

その後は故障に泣くなど勝ち星を思うように積み上げる事が出来ず、結局プロ通算27勝35敗という成績を残して入団6年後の1984年に引退した藤沢投手。引退後はプロ野球界から身を引いて普通のサラリーマン生活を送ったり、自ら保険代理店を立ち上げたりしていたとの事です。中日ドラゴンズのOB会などには時折姿を現したりしていたのが何よりです。

現在のドラフト制度を考えれば、4度入団拒否して5度指名されるなどといった選手は二度と現れないでしょう。この藤沢公也投手のドラフト履歴は誰も塗り替える事の出来ない永久不滅の記録なのは間違いないところでしょうね。

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