山中鹿之助幸盛七難八苦の生涯 三日月に祈り尼子氏復興に命を懸けた戦国時代の英雄

日本史

戦国時代に山陰地方を中心として中国地方の覇者として君臨した尼子氏。

その尼子氏の家臣として活躍したのが山中幸盛。山中鹿之助(鹿介とも)という呼称でも有名なこの戦国きっての勇将は、戦国ファンにはお馴染みといってもいい人気武将でもあります。

山陰が生んだ戦国最大の英雄、山中鹿之助幸盛とは一体どのような人物だったのでしょう。

二君に仕えぬ“忠義の男”山中鹿介幸盛!日本人の心に響くその壮絶な人生

山中鹿介こと山中幸盛は天文十四年(1545年)に尼子家家臣・山中満幸とその妻・なみの子として出雲国で誕生(1540年生年説も有)。天正六年(1578年)に生涯の宿敵であった毛利氏によって備中国で謀殺され、34歳でその生涯を閉じました。

鹿介がなぜ現代でもそれ程までに人気を誇っているのか…

それは彼が戦国時代でもほとんど絶滅種に近い程の“忠義の士”だったからに他ありません。

戦国時代というのは皆さんもよく知っているように、「下剋上」の時代です。武士の時代の秩序の象徴ともいえる存在の幕府の権威は失墜し、力で主君を倒して成り上がるというカオスの時代でした。その象徴こそが農民の生まれから天下人となった豊臣秀吉ですね。

この時代の武将や大名たちは、立身出世のため、家名を守るためには主君を裏切って他家に鞍替えする事など当然ですし、生存競争に生き残るために強い者につくという思考がごく自然で圧倒的多数派であった時代です。戦国三傑と呼ばれた織田信長は室町幕府を滅ぼし、織田家臣だった豊臣秀吉は織田家を差し置いて天下人となり、徳川家康はその豊臣家臣ながら豊臣家を滅ぼして天下泰平の世を築きました。

しかしこの山中鹿介という男は、滅亡した主家の尼子家を大名として再興させるために生涯を戦い抜いた男だったのです。鹿介程の勇名を轟かせた武勇の士であれば、他家からの士官の誘いなど引く手数多だったでしょうが、彼は生涯を尼子家の復活に費やしました。

中国地方の覇者となった毛利に立ち向かう鹿介ら尼子再興軍との戦いは、巨象に犬や猫が立ち向かうようなものでした。しかしそんな絶望的な戦いでも鹿介は諦めず、敗れても敗れても立ち向かっていき、遂には命を落としました。まさに「主君に忠誠を尽くして二君には相まみえぬ」という、中世武士の鑑(かがみ)といってもいい存在だったのです。

同時代の人間たちからは「バカな奴だ」「もっと器用に生きれば出世出来て家名も繁栄したのに」などと思われていたかもしれません。まさに時代の異端児です。しかし、だからこそ鹿介の生きざま、死にざまは400年以上を経た現代のわたしたち日本人の琴線に触れるのではないでしょうか。

月よ、我に七難八苦を与えたまえ!ドラえもん「苦労みそ」で有名なエピソード

山中鹿介は戦国時代には稀少種といっていい義に篤い、「二君には仕えぬ」忠臣だったわけですが、そんな彼の有名な逸話こそ、夜空に輝く三日月に向かってこう言ったというエピソードです。

月よ、我に七難八苦を与えたまえ!!

敢えて自分に数多くの試練を与えてくれと天に祈ったのです。次々と降りかかる苦難に心折れる事無く最期まで戦い抜いた山中鹿介幸盛という英雄の人生とこれほどクロスする逸話もありませんよね。

藤子・F・不二雄さんの国民的漫画「ドラえもん」の話の中にもこの鹿介が三日月に祈ったエピソードがあります。「ドラえもん」の「苦労みそ」というエピソードの中に、鹿介が敢えて苦労を背負おうと三日月に祈った話をのび太のパパがのび太くんに言い聞かせる場面が出てくるのです。そしてのび太くんはドラえもんが四次元ポケットから出した、何事にも敢えて苦労してしまうという「苦労みそ」というアイテムで苦難が降りかかる…というものです。このエピソードで鹿介の存在を知っているという方も結構多いのではないでしょうか。実はわたしも鹿介を初めて知ったのはドラえもんでした。

尼子氏滅亡から第一次~三次尼子再興戦、そして阿井の渡しでの鹿介の壮絶な死

夜空に浮かぶ月に七難八苦を与えよと祈った鹿介は、まさに七難八苦の人生を送る事となります。以下、鹿介の人生における苦難の道をご紹介しましょう。

幼少期:極貧生活の中で見せた母・なみの優しさと鹿介への教え

鹿介の父で山中家の当主であった山中満幸は幼い子らを残して36歳で早逝したため、山中家は困窮を極めたとされています。そんな中、鹿介らの母・山中なみは田畑を耕しながら女手一つで鹿介らを育て上げたといわれています。自分たちが食うにも困る生活の中でなみは、貧困にあえぐ子供たちがいれば食事を振舞ったり世話をしたとされ、その時に世話になった子供たちは長じて鹿之助に恩を返すため、尼子再興戦などでも協力したり共に戦ったりしたといわれています。鹿介はなみの教えを守り、ともに戦う仲間や家臣を大切にしたそうです。そんな山中家の家風であったからこそ、絶望的ともいえる毛利家との戦いにも多くの人が鹿之助の下に集ってともに戦ったのでしょうね。

第二次月山富田城の戦いで主家・尼子氏が滅亡

尼子晴久が病死して義久が当主になってからの尼子家は衰退の一途を辿っており、ついに中国地方の覇者・毛利元就は尼子家を滅ぼすべく永禄八年(1565年)に月山富田城を包囲し総攻撃を開始しました(第二次月山富田城の戦い)。

天下に聞こえる名城・月山富田城に籠城した尼子軍として戦った鹿之助は高野監物や品川大膳を一騎打ちで討ち取るなど存分に武名を轟かせましたが、圧倒的兵数を誇る毛利軍の前に兵糧の切れた尼子軍は約1年半にわたる籠城の末に降伏し、当主の義久らは毛利家の捕虜となって大名家としての尼子氏は滅亡。鹿介は義久らへの同行を許されずに浪人となります。

第一次尼子再興戦:新宮党の尼子勝久を擁立、出雲国を勢力下に治めるも…

浪人となった鹿介は諸国を放浪して軍学や戦略を学び、上京した後に叔父である立原久綱らと合流します。そして尼子家再興を目指す旧尼子家臣らとともに、先代晴久に粛清された新宮党の尼子誠久の遺児で僧籍に入っていた尼子勝久を還俗させて尼子家当主として擁立、尼子再興軍を興します。

鹿介は毛利氏と戦いを繰り広げていた但馬国の山名祐豊と手を組み、毛利氏の九州侵攻の間隙をついて出雲に侵攻します。連戦連勝の鹿介は出雲・石見の旧尼子家臣に檄文を送って味方につけ、一時は出雲国一円の他伯耆国や因幡、美作、備中・備後まで勢力を拡大させました。

しかし九州から撤退して中国地方の反乱鎮圧に乗り出した毛利輝元、吉川元春、小早川隆景の大軍に押されることとなり、遂には大将である勝久の籠る新山城を落とされ(勝久は隠岐の島へと逃れる)、鹿介も吉川元春に捕らえられ毛利軍の捕虜となってしまいます。これによって第一次尼子再興軍は瓦解、再び出雲は毛利の勢力下となったのです。

第二次尼子再興戦:因幡国鳥取城を落城させるも山名豊国の裏切りによって…

毛利の捕虜となった鹿之助は毛利家からの士官の誘いを拒否し、幽閉先の尾高城から脱出して但馬国に潜伏した後、再び尼子再興軍を興し、因幡国で毛利方の武田高信に居城を奪われ再起を目指す山名豊国と手を組んで因幡平定戦を展開することとなります。

連戦連勝で武田高信の鳥取城へ迫った鹿之助らは僅か1000の兵力で鳥取城を攻略して山名豊国が鳥取城へ入城、鹿之助らはなお因幡各地を転戦します。

しかし因幡国の要となる鳥取城を治める山名豊国が毛利の調略によって毛利方へと寝返り、再び鹿介らは苦境へと陥ります。毛利と敵対する勢力と外交で連携する鹿野介でしたが、吉川元春と小早川隆景による4万超の大軍での因幡平定軍の前に因幡からの撤退を余儀なくされ、第二次尼子再興戦も失敗に終わりました。

第三次尼子再興戦:織田信長に尼子氏復活をかけた鹿介…最期は宿敵・吉川元春に…

尼子勝久を擁する鹿之助は、毛利氏と敵対する新興勢力の織田家を頼る事を決意し、織田信長に謁見して織田軍の配下となりました。

鹿之助率いる尼子再興軍は明智光秀や織田信忠の麾下に入ってで丹波攻めや信貴山城の戦いで活躍して武功を挙げます。

そして織田家の中国攻めを任された羽柴秀吉軍に加わって宿敵・毛利家と対峙することとなります。秀吉が毛利軍から奪った上月城を与えられた尼子勝久と鹿之助らはここを拠点としましたが、織田方であった播磨・三木城の別所長治が毛利家に寝返ったことにより、上月城は孤立して毛利家の大軍に包囲されることとなります。三木城奪回の命を信長から受けた秀吉からの救援もままならず、勝久は毛利への降伏を決意し、城兵の助命嘆願と引き換えに切腹して26年の生涯を終えました。

勝久と最後の別れを終えて上月城の開城後、鹿之助は再び毛利家に捕らえられ、鹿之助の処遇は毛利家当主の毛利輝元のいる備中松山城へと護送される事が決定されました。

しかし、鹿之助が備中松山城の毛利輝元の元へ着くことはありませんでした。

鹿之助の武勇と尼子再興にかける執念を恐れた毛利両川の一人、吉川元春は護送途中での鹿之助の暗殺を配下に命じていたのです。鹿之助は護送途中の備中国・阿井(合)の渡しで毛利家臣・福間元明によって暗殺されました。

山中鹿介幸盛の死によって、尼子家旧臣による尼子再興は完全に終焉を迎える事となったのです。

江戸時代から明治、戦前までの英雄から現代…楠木正成と鹿介の共通点

実はこの山中鹿之助、現在とは比べ物にならないほどに昔は日本人の間では超有名な武将でした。その理由こそ、鹿之助の戦国武将としては特異な人生にありました。

前述したように、戦国時代というのは「下剋上」という言葉に代表されるように無秩序の時代でした。しかし、徳川家康が天下を統一して以降の戦のない平和な江戸時代には秩序が求められました。幕府の頂点に立つ徳川将軍家は、平和な時代を構築するために「武士は主君に尽くすもの」という「武士道」を奨励し、それこそが武士の本分であり美徳であると教育したのです。上(主君)に逆らう事は武士の風上にも置けない愚行であると教え、身分という秩序を作ってお上に対しての反乱を起こさせないためです。

そこで幕府の掲げる「理想の武士像」の格好のモデルとして脚光を浴びたのが、主君(主家)のために命を懸けて戦った山中鹿之助だったというわけです。鹿之助の壮絶かつ劇的な人生は江戸時代に講談などで取り上げられて庶民にも大人気となります。ちなみに尼子氏復権のため戦った鹿之助を含む「尼子十勇士」も講談から生まれた物語だといわれています。

そして鹿之助は続く明治時代以降も忠臣の象徴として教科書などにも載る等、日本人で知らぬ者はいない程の日本国民にとっての英雄・偉人だったのです。

しかし、太平洋戦争の敗戦後は、戦前教育が全て見直される事となり、鹿之助の名前は教科書などから消えていくこととなり、今に至るというわけです。そんな鹿之助と同じように戦前は知らぬ者なき超有名な英雄、今は一般的には知名度イマイチ…という例としては、鎌倉末期~室町初期に大活躍した「大楠公」こと楠木正成も挙げられますね。後醍醐天皇に忠義を尽くし、「建武の新政」の立役者となった武将です。

「ドラえもん」で山中鹿之助の七難八苦エピソードを取り上げた藤子・F・不二雄氏は1933年(昭和8年)生まれ。小学生時代は戦前だったので学校の教科書などで鹿之助とこのエピソードを知っていらっしゃったのではないでしょうか。

鹿介にしろ楠木正成にしろ、時代の移り変わりによってこれだけ知名度や人気、評価に差が出る野は個人的に納得がいかないものがあります。両名の人間性や生き方はどの時代にも不変の輝きを放っていると思うのですがいかがでしょうか。いや、むしろ現代の日本人が無くしてしまった最も必要なものを教えてくれるのが彼らなのではとさえ思います。

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