戦国武将のカッコいい異名・あだ名・別名一覧 風神雷神、龍虎獅子、謀将、黒衣の宰相…

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日本史

戦国時代を彩ったキラ星の如き個性豊かな戦国武将たち。

400年以上経った現代の日本人を魅了し続ける幾多の戦国武将たちには、その個性を表現する異名や別名、渾名を持つ者も多く存在しています。

ここではカッコいい呼び名を持つ個性豊かな戦国日本史の英雄たちをご紹介していきたいと思います。

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尼子経久・毛利元就ら 謀聖・謀将(ぼうせい・ぼうしょう)

「下剋上」という言葉に象徴されるように、戦国時代というのは食うか食われるかの時代であり、もっと端的に言えば“何でもアリ”な時代だったと言い換えることが出来るかもしれません。

そんな戦国時代には「謀略」を駆使して大名や太守に登り詰めた人物も少なくはありません。そこでここでは謀略渦巻く戦国時代でも傑出した知略を持ち、「謀聖」「謀将」と呼ばれた人物たちをご紹介します。

尼子経久(あまごつねひさ)

出雲守護代で尼子家第四代当主の尼子経久です。

北条早雲と並ぶ下剋上の祖といわれた、食うか食われるかの戦国時代を体現したような存在ですね。出雲、石見、伯耆、備後等最大11か国をその版図に収めて尼子氏の最盛期を創出、毛利元就以前の中国地方の覇者といってもいい存在です。

そんな経久の最大の武器こそ「謀略」。謀略によって成り上がったといっても過言ではない経久の「謀聖」「謀将」という呼び名にはそんな意味が込められています。

毛利元就(もうりもとなり)

上でご紹介した尼子経久の次代の謀略王にして中国地方の覇者、毛利元就。

安芸の一豪族に過ぎなかった毛利家を西日本最大の大名へと一代で導いた、戦国時代のレジェンドの一人ですね。政治的手腕や外交手腕、内政でも評価の高い元就ですが、やはり陶晴賢を破った厳島合戦に代表されるような神がかり的な謀略手腕は彼を語る上で欠かせません。

宇喜多直家(うきたなおいえ)

流浪の身であった幼少時代から浦上家に仕官して頭角を現し、独立して主君を追放、毛利元就と織田信長という大勢力を巧みに利用して備前の支配者となった宇喜多直家。前述の尼子経久、毛利元就と並んで中国三大謀将ともいわれる謀の天才です。

直家の代名詞といえば、やはり「毒殺」でしょう。数多くの政敵を謀略によって葬ってきた直家ですが、その手段として多く用いられたのが毒薬を使っての謀殺。身内からも恐れられたという直家の本領発揮といってもいい逸話ですね。

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斎藤道三 美濃の蝮(マムシ)

前述の経久と並んで、下剋上の象徴的存在ともいえるこの斎藤道三。油売りから身を興して美濃の太守となったといわれている戦国大名です(近年の研究では父と二代にわたる国盗りとの説が有力)。

その国盗りの過程等から「美濃の蝮」という異名をとった斎藤道三。三英傑の一人、織田信長に嫁いだ帰蝶の父、つまり信長の舅(義父)としても有名ですよね。

長野業正 上州の黄班(じょうしゅうのおうはん)

関東管領・上杉家の家臣であり、離反後は上野国箕輪城主として上野国に侵攻した武田信玄と激闘を繰り広げたのがこの「上州の黄班」の異名を持つ長野業正(なりまさ)。

「黄班」とは虎のことで、つまり「上州の黄班」とは「上野国の虎」という意味です。一般的な知名度はそんなに高くない業正ですが、戦国ファンには猛将として根強い人気を誇る武将です。

武田信玄をして、「業正がいる限り上州には手が出せない」と言わしめたほどの剛の者である業正ですが、平安時代の歌人でありプレーボーイとしても知られた在原業平の子孫を自称しており、業正自身もかなりの美男子だったという説も伝わっています。

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