徳川家との大坂の陣において滅亡した豊臣家。
全国の大名家を敵に回して戦った大坂の陣は、豊臣家にとってほとんど勝ち目のない戦でした。
そんな斜陽の豊臣家にあって、大坂の陣で獅子奮迅の働きを見せた五人の名将たちがいます。
真田左衛門佐幸村、後藤又兵衛基次、毛利豊前守勝永、長宗我部盛親、明石掃部守全登。
人々はこの五人を畏敬の念を込めて「大坂城五人衆」と呼びます。
大阪冬の陣での和睦までの徳川家、豊臣家対立の流れ
かねてより火種がくすぶっていた豊臣家と徳川家の仲は、慶長十九年(1614年)に起きた「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」によって対立が決定的となり、同年大坂冬の陣が勃発します。
豊臣家は各地の大名や浪人たちに書状を送りますが、大名家で味方するものはおらず、大坂に馳せ参じたのは牢人衆がほとんどでした。その中には大阪五人衆と呼ばれた真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登という有名な武将もいたのです。
徳川軍約20万人と豊臣軍約9万は、大阪城に籠城した豊臣軍を徳川軍が攻めるという籠城戦となりました。真田幸村が大阪城南に築いた出丸「真田丸」での戦いで勝利するなど、徳川は堅固な大阪城を攻めあぐねますが、徳川の大筒による攻撃で豊臣方は徳川家との和睦を選びます。
和睦によって堀を埋められて本丸を残すのみという裸城になった大阪城。そこに再び徳川と豊臣の亀裂が入ります。大阪城の牢人達に不穏な動きありとした徳川家は、豊臣方に武装解除を通牒しますが、豊臣方はこれを拒否。
この豊臣家の返答に対して慶長二十年(1615年)、徳川は再び大軍を擁して豊臣征伐を決定。ここに大坂夏の陣が火蓋を切るのです。
真田左衛門佐信繁(さなださえもんのすけのぶしげ)

真田信繁(幸村)
真田信繁は別名を真田幸村といいます。幸村としての知名度が高いですよね。幸村という名は後世作られた名という説もあり、ここでは確実に名乗っていた真田信繁という名でご紹介します。
真田信繁は信州の戦国大名、真田安房守昌幸の次男として生まれました。
上杉景勝や豊臣秀吉の人質として不遇な半生を送りますが、秀吉の下で豊臣家の直参として取り立てられます。
しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・昌幸とともに石田三成率いる西軍に属し、勝利した東軍の徳川家康によって昌幸と信繁は高野山九度山へと配流となってしまいます。
慶長十九年(1614年)、高野山で流人生活を送っていた信繁のもとに大阪城からの使いが訪れ、信繁は家臣や家族を伴って九度山を脱出、大阪城に入城することとなります。
大阪冬の陣前には籠城策を主張する大野修理治長らに対して、野戦を献策。野戦案が退けられ籠城策が決まると、大坂城の弱点である城の南側に真田丸を築城。ここで徳川軍を打ち破って大損害を与えます。
大阪冬の陣での豊臣・徳川和睦後は徳川家康に大名として誘いを受けますが、これを固辞。豊臣家は大坂夏の陣へと突入します。
大坂夏の陣での真田信繁
大坂夏の陣では5月6日の道明寺の戦いに参加。後藤又兵衛、毛利勝永とともに徳川軍を迎撃することとしていましたが、真田隊、毛利隊が戦場についた時には先に仕掛けた後藤又兵衛が討ち死にしており、後藤軍は壊滅状態となっていました。後藤隊を壊滅させた徳川方の伊達政宗の先鋒、片倉重長はその勢いで真田隊にも襲い掛かりますが、この進撃を真田隊は食い止めます。
しかし同日の誉田の戦いでも大坂方は敗北を喫します。
全軍退却命令の下った豊臣軍は退却戦を開始。殿は真田信繁が務め、無事大坂城への退却に成功します。
そして翌5月7日。
真田信繁は天王寺口の茶臼山に陣を張り、最後の決戦に臨みます。真田軍は徳川方の松平忠直軍と激突。一進一退の攻防を繰り広げますが、松平忠直軍は真田の陣を抜けると、一気に大坂城へと向かいます。これを見た信繁は、松平隊を追わずにがら空きになった前方に突撃をかけます。目指すは松平隊の後方に陣を張った徳川家康の本陣。
この時、真田信繁は敵陣に潜ませていた味方に徳川軍の浅野長晟が寝返ったという偽情報を流し、徳川軍を混乱に陥れます。そしてその混乱を突いて家康本陣に突撃をかけたのです。
この信繁の突撃で本陣は大混乱を来し、家康は二度までも切腹を覚悟したといわれています。しかし、三度の突撃でも家康を討ち取る事は出来ず、次第に圧倒的兵力の徳川軍は体制を立て直し、真田軍は劣勢に追い込まれる事となります。
結局善戦空しく真田隊は壊滅、信繁は撤退を余儀なくされます。
戦場離脱した信繁は四天王寺側の安居神社の境内にいたところを松平忠直家臣の西尾宗次に討ち取られたといいます。享年49。
その戦いぶりは島津忠恒をして「日本一の兵(つわもの)」と称されるほどでした。
ちなみに、幸村の突撃によって家康本陣にあった徳川家の旗印は倒されたといわれています。この徳川家の旗印が倒されたのは、42年前に家康が武田信玄に惨敗を喫した三方が原の戦い以来でした。
後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)

後藤又兵衛基次
後藤又兵衛基次は、黒田官兵衛孝髙、黒田長政に仕えた黒田家一ともいわれた猛将です。
黒田家では朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで戦功をあげ、大隅城主となって1万石以上を賜るなど、その名は全国に轟いていました。
しかし、関ヶ原の戦いの後、主君黒田長政と不和になり黒田家を出奔。その後は黒田家の介入もあって仕官できずに浪人生活を余儀なくされます。
そんな中、又兵衛の元にも大坂城からの使者が来ます。又兵衛は五人衆の中でも一番早く大坂城へと入城。かつての主君・黒田長政とは敵味方に別れて戦う事となったのです。
後に書かれた「武功雑話」によれば、徳川家康は大阪城で警戒しなければならない人物を「御宿政友(勘兵衛)と後藤又兵衛のみ」と断言したと伝えられています。徳川家康の中での後藤又兵衛はそれほど評価の高い人物であったという表れでしょう。実際、大坂城五人衆の中でも、戦での実績と経験においてはこの後藤又兵衛が頭一つ抜けていたといっても過言ではありません。
籠城して徳川軍を迎え撃った大阪冬の陣では遊軍として6千の兵を率い、大坂城東側に陣取った上杉景勝軍、佐竹義宜軍と激戦を繰り広げたといわれています。さらに、真田丸の戦いでも八丁目口・谷町口に布陣し、真田丸での勝利に大きく貢献したといわれています。
大坂の陣での後藤又兵衛
大坂夏の陣で後藤又兵衛は5月6日に行われた道明寺の戦いに参戦します。
平野に陣を張っていた又兵衛は、5月6日の早朝に陣を立ち、大和街道を進んで藤井寺に到着しました。しかし味方の真田信繁、毛利勝永の両隊の姿は見えず、又兵衛はすでに東軍の大軍が動き出している事を知ります。
後藤隊は信繁、勝永の到着を待たずに道明寺へと進軍。小松山を占拠した後藤隊に対して、伊達政宗らの徳川軍は10倍以上の兵力だったといわれています。鉄砲隊によって数度は相手を押し返すものの、やがて三方を敵に囲まれた又兵衛は、戦況の不利を悟って小松山を西に下りて最後の突撃をかけます。
突撃をかけた後藤隊は相手の隊を蹴散らしますが、多勢に無勢、数で圧倒的に勝る徳川軍は退きません。やがて一発の銃弾が又兵衛の腰を撃ち抜きます。
これまで戦場で数限りない傷を負ってきた又兵衛でしたが、人生最後のこの傷によって立ち上がる事が出来ません。それでも尻もちをつきながら自慢の槍を振りかざし、押し寄せる徳川の兵をなぎ倒したと伝えられています。そしてついに最後を悟った又兵衛は、被っていた兜を投げ捨てて、「敵の手にかけるな、我が首を討て!」と告げ、家臣に首をはねさせたたといわれています。又兵衛の首の行方については諸説ありますが、家臣が近くの田に見つからぬよう埋めたといわれています。
後藤又兵衛は大坂城五人衆の中で最初に討ち死にを果たしましたが、その最後は猛将の名に恥じぬものであったと伝えられています。
五人衆の毛利勝永、長曾我部盛親、明石全登についてはこちらの記事をご覧ください。
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