病死した戦国武将の死因(病名)一覧 戦国三傑に関東三国志、中国三大謀略王、独眼竜や九州のキリシタン大名も

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戦国時代に活躍した全国各地の戦国大名たち。

苛烈な時代を生き抜いた男たちの生涯は様々ですが、当然その死に様も様々です。戦場で命を散らしたり、捕えられての刑死や自害などという最期を迎えた戦国武将たちも多いですが、病気によってその生涯を閉じた戦国大名も当然たくさんいます。

ここでは病気で没した戦国大名たちのそれぞれの死因をご紹介したいと思います。なお、400年以上前の事ですので、当時の資料から推測される死因です。死因については諸説あるものもあり、全てをご紹介するわけにはいきませんがご了承ください。

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豊臣秀吉の痴呆症状と徳川家康の食中毒死の真相、戦国三傑の死因は??

まず戦国史で外せないのは天下取りレースを制した三人の超大物、いわゆる“戦国三傑”と呼ばれる偉人たちでしょう。

そんな戦国三傑の死因をご紹介しましょう。尚、織田信長は本能寺の変で自害したので、病気で死亡した戦国武将の死因というこの記事の趣旨から外れるために除外です。

戦国大名名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
豊臣秀吉 慶長三年(1598年) 62 脳梅毒・尿毒症・脚気・大腸ガン等 有力死因特定できず
徳川家康 元和二年(1616年) 73 胃癌・食中毒 胃癌説が有力

二人の天下人ですが、秀吉が家康と同じくらいに長命であったならば家康の天下は来なかったという説がよく唱えられますが、わたしも全く同感です。

晩年は痴呆の症状が出ていたとされる秀吉ですが、脳梅毒や尿毒症ならばその症状にも納得がいきます。

そして家康の死因は長らく天ぷらを食べての食あたりだといわれて来ましたが、現在では胃ガン説が有力となっています。質素倹約を旨として普段より食生活にも人一倍気を遣っていたとされる家康が胃ガンというのは少し意外な気もしますね。とはいえ、秀吉より20年近く長生きして、そのおかげで天下人の座を手に入れたのですから本望だったでしょう。唯一の憂いだった豊臣家を滅亡させた翌年の死は、まさにこの世でやるべきことを全て終えたうえでの大往生といっていいのではないでしょうか。

甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、越後の上杉謙信、関東三国志の英雄たちの病気は?

続いては、戦国時代のレースの勝者となって天下布武に王手をかけた天才・織田信長が最も恐れたといわれる戦国大名たちをご紹介しましょう。

俗に言う関東三国志という、戦国時代に関東地方の覇権を賭けて争った甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、そして関東管領の職にあった越後の上杉謙信という戦国最強ともいわれる三人の英雄たちです。そんな三英雄の死因が以下となります。

戦国大名名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
武田信玄 元亀四年(1573年) 53 胃ガン・労咳(肺結核)・食道ガン・肺炎等 血を吐いた
北条氏康 元亀二年(1571年) 57 中風(脳出血)
上杉謙信 天正六年(1578年) 49 脳溢血 急死

うーん、関東の雄達は全員短命ですね。いくら「人間50年」といわれた時代だったといってもやはり早過ぎといわざるを得ないでしょう。

「甲斐の虎」武田信玄は西上作戦の途中、徳川家康を三方ヶ原の戦いで完膚なきまでに叩き潰すなど破竹の進撃を見せていましたが、総大将の信玄が喀血して倒れ、結局甲斐に戻る事叶わずに遠征途中で死去しました。喀血というキーワードから胃ガン・食道がんのガン系、さらに当時は不治の病とされた労咳(結核)などが死因の有力といわれていますね。

信玄、謙信と激闘を繰り広げた北条氏康は中風(ちゅうぶ/脳出血)だったという説が有力です。死去の前年には既に発作を患っていたらしく、呂律が回らない、人物の識別が出来ない、コミュニケーションに難ありといった症状が出ていたといわれていますので、やはり脳血管系の病が最有力ですね。

そして最後に「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信。彼の場合は厠(かわや/トイレの事)で用を足している時に倒れて昏睡状態に。その後は意識を取り戻すことなく倒れた4日後に死去しました。これもやはり死因は高血圧による脳卒中(脳溢血)説が有力となっています。

それにしても何度も言いますがやはり皆早過ぎる死だったと思ってしまいますね。武田家と北条家は信玄と氏康の死後滅亡し、上杉家も関ヶ原の結果、会津から出羽へと領地が約4分の1となる大減封となりました。信玄、氏康、謙信という英雄がもう10年長生きしていれば関東三国志という数々の名勝負を繰り広げた戦国の名門三家の趨勢も大きく変わっていたことは間違いないでしょう。

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畳の上で天寿を全うした中国三大謀略王の尼子経久、毛利元就、宇喜多直家

関東三国志という「三」というキーワードが出たところで、智謀に長けた名将を数多く輩出した中国地方において、「中国地方の三大謀将(謀略王)」と呼ばれた超大物武将の最期もご紹介しておきましょう。知某の限りを尽くして多くの人物を謀(はかりごと)にかけて殺害して弱肉強食の世界で成り上がった下剋上の世の代名詞ともいえる戦国大名たちはどのように死んでいったのでしょう。

戦国大名名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
尼子経久 天文十年(1541年) 84 不明 老衰?
毛利元就 元亀二年(1571年) 75 食道癌  老衰の可能性も
宇喜多直家 天正十年(1582年) 53 大腸癌・皮膚ガン おびただしい膿血

うーん、三人ともしっかりと畳の上で天寿を全うしておられます。日頃の行いが良かったとは思えませんが(笑)、よほど信心深かったという事でしょうか。

まず北条早雲、斎藤道三とともに下剋上の魁ともいわれる尼子経久ですが、死去の際を記した詳細な資料がないので死因は不明です。家督を孫の晴久に譲って既に隠居済みでしたし、年齢的には老衰の可能性もかなり高いかと思われます。

毛利元就も食道癌だったという説が有力ですが、老衰で死去したという説もあります。死去する10年近く前から体調はすぐれなかったようですし、人間五十年の当時からすれば75歳で老衰というのは決して珍しいことではなかったのです。

宇喜多直家は病気や最後に関する詳細な逸話が残っています。

「尻はす」と呼ばれる腫物に悩まされていた直家ですが、その「尻はす」から出た膿血のついた衣服を宇喜多家臣が岡山城下の川へ流していたそうです。しかしある日を境にバッタリと膿血の付いた衣服が流れてこなくなったため、岡山城下の民たちは直家の死を悟った・・というものです。

というわでその「尻はす」という患部から膿血の出る腫物が死の原因ではないかといわれています。尻というキーワードから大腸癌、或いは腫物という事で皮膚表面にできる皮膚ガンともいわれています。いずれにせよ謀略王と呼ばれた直家らしい壮絶な逸話ですね。その死の瞬間までその自分の死後の身を心配していた嫡男・宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで敗れて八丈島に島送りになりながらも84歳まで長寿でいたのは直家の親としての願いが通じたのでしょうか。

独眼竜・伊達政宗、キリシタン大名・大友宗麟、尼子晴久、蒲生氏郷らの最期は?

その他、全国各地の戦国期、病死した戦国大名たちのうち死因がある程度推測できるものを取り上げてみましょう。

戦国大名名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
伊達政宗 寛永十三年(1636年) 70 食道癌・癌性腹膜炎
大友宗麟 天正十五年(1587年) 58 チフス
尼子晴久 永禄三年(1561年) 47 脳溢血 急死
蒲生氏郷 文禄四年(1595年) 40 大腸癌・肝臓癌 石田三成による暗殺説も

戦国大名の中でも屈指の人気を誇る東北の独眼竜、伊達政宗。その人気は、渡辺謙主演大河ドラマ「独眼竜政宗」が未だに歴代大河ドラマ最強視聴率であることを見ても明らかですよね。そんな政宗ですが、嚥下困難(食べ物の飲み込みが出来ない)や腹水などといった死去前の状況から食道癌や内臓に出来た癌が原因による癌性の腹膜炎ではないかといわれています。三英傑の家康と同じく健康には人一倍気を付けていた政宗ですが、やはり癌には勝てなかったといったところでしょうか。

北九州の覇者にしてキリシタン大名の大友宗麟(義鎮)の死因は伝染病のチフスだったという説が濃厚です。現代に比べるとこの当時はコレラなどとともに猛威を振るって恐れられていた病気であり、宗麟は秀吉の援軍を得て島津との戦いにおける有利となった時期での発病、そして死でした。

山陰の雄・尼子家の尼子晴久は脳溢血(脳出血)での最期だったといわれています。晴久が死して義久が後を継ぎますが山陽の毛利家の敵ではなく、尼子家は晴久の死からわずか5年後に滅んでしまいました。晴久の急死が無ければ・・と、思わず歴史のifを考えてしまいますね。

豊臣秀吉の治世において、油断ならない東北の伊達政宗や最上義光などの抑えとして会津を任されたほどの大名が蒲生氏郷。秀吉が自分の次の天下人とさえ言ったといわれる器量の持ち主です。この氏郷も40の若さにして癌だったという説が濃厚です。この氏郷が5年後の関が原で健在であったらどうなっていたでしょうか。恐らく五大老の一人として家康に立ち向かっていたでしょう。そう思うと考えただけでワクワクしてきますね。本当に早世が惜しまれる武将です。

 

 

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