幕末といえば日本史における大変革期ですが、様々な政治思想やイデオロギーがぶつかり合った時代でもあります。
そんな幕末においての最も重要な“キーワード”といってもいいものに「尊皇攘夷(尊王攘夷/そんのうじょうい)」というものがあります。幕末を語るうえで決して避けては通れないこの「尊王攘夷」という政治スローガンについてここでは説明していきたいと思います。
尊皇攘夷とは「尊王論」と「攘夷論」の二つの思想が結びついた幕末固有の政治思想
幕末を舞台にしたドラマや小説などを見ていると、「尊王(尊皇)攘夷」という言葉によく遭遇します。この「尊王攘夷」という言葉をしっかりと理解しておかなければ、幕末の薩摩、土佐、長州といった雄藩の志士たちを主人公とした作品はなかなか流れを理解しづらいといってもいいくらいに重要なキーワードであるといっても過言ではないでしょう。
「尊王攘夷」という言葉は有名なのですが、実はこの「尊王攘夷」という言葉は二つの独立した言葉がくっついて出来上がったものです。その2つというのが
尊皇
と
攘夷
という2つの異なる思想を現す言葉なのです。
この2つの思想が組み合わさって幕末における「尊皇攘夷」という言葉となったのですが、まずは「尊皇」と「攘夷」という2つの思想をそれぞれ説明したいと思います。
尊皇論(尊王)とは?覇者であり正当性を欠く幕府否定は倒幕運動へと繋がり明治維新へ
まず、尊皇攘夷の「尊皇」について簡単に説明しましょう。
「尊皇」とはもともと「尊王論」という中国の儒教に由来する「王を尊ぶ」という思想なのですが、日本の幕末においては「尊皇」という言葉に置き換えて使用されました。
江戸時代は言うまでもなく徳川将軍を頂点とする江戸幕府が日本を支配する存在でした。もちろん、幕府の頂点に立つ征夷大将軍の任命は朝廷が行うため、理論上は朝廷が幕府の上にいるという事となるのですが(権威としての頂点は朝廷)、これは表向きの話であって実際には幕府が日本を動かす実質的トップの存在であったのです。
そんな幕府に対して、武士同士の争乱の末(江戸幕府の場合は関ヶ原の戦い等)に政権を握った「覇者」であるとして、その正当性を認めないというのが「尊皇思想」であり、その思想が幕末における「倒幕」という行動へと繋がっていく事となったのです。
簡単に言えば、「朝廷を蔑ろにして日本を牛耳っている幕府に日本の頂点に立つ正統性はない。」というのが、幕末における尊皇思想といえるでしょう。これは、江戸時代中期辺りから盛んになった国学の影響や、幕末に広く全国に広まった水戸学などの影響も大いにあります。そしてそういった下地が出来上がっていたうえに起こった「黒船来航」による幕府の弱腰と批判された条約の締結(日米和親条約/老中・阿部正弘)、さらには異国との条約の締結(日米修好通商条約や安政五カ国条約)を朝廷からの勅許を得ずに幕府の独断で行った(大老・井伊直弼主導)という事によって一気に「尊皇」思想に火が付き、やがてそれは武力倒幕派、公武合体派に枝分かれしていき、明治維新へ・・というのが実際のところなのです。
国学や水戸学によって高まった尊王論、そこに黒船来航という外圧があり、大老・井伊直弼による強権発動への反発・・これらが複合的に組み合わさって尊皇思想が日本中の志士の間で飛躍的に高まったといっていいでしょう。
攘夷論とは?異国を日本から力で追い払う攘夷思想は黒船来航で尊王思想と合体し尊皇攘夷へ
次に、「攘夷」についての説明です。
攘夷という言葉の由来は、これも中国で春秋時代(紀元前770年~403年)にまで遡ります。
意味としては「夷狄 (いてき)を攘(はら)う」という事であり、幕末で言う「夷狄」とは外国人の事であり、つまり外国人を打ち払うという意味として使われていました。幕末には朱子学の影響を色濃く受けた水戸学が志士の間で流行し、その中で攘夷論も語られており、西洋諸国は直ちに打ち払うべしという内容でした。
そしてそういった素地があったところに次々と外国船が現れるようになり、ついに幕府はアメリカと日米和親条約、日米修好通商条約を立て続けに締結することとなったのです。そしてこの幕府の対応を「弱腰」などと批判を加えた尊王攘夷派の志士たちを時の大老・井伊直弼が弾圧した事によって(安政の大獄)、攘夷論は尊皇思想と結びついて「尊王攘夷」として全国の志士に広がっていったというわけです。
そしてそういった攘夷論のもと、薩摩藩とイギリスが戦った「薩英戦争」や長州藩とイギリス・オランダ・フランス・アメリカの4国が戦った「下関戦争」によって薩長が攘夷を実行しました。しかしその結果、西洋列強との軍事力の差を痛感した両藩は、力によって外国を排除する攘夷論を捨て、開国して富国強兵して力を蓄える事を優先させる「大攘夷」「大開国」へと方針転換し、流れが力づくの攘夷から、大攘夷・大開国を実行するための倒幕へと流れていく事となったのです。
“攘夷”から“大開国・大攘夷”へ 先見性を持っていた吉田松陰や島津斉彬ら開明派
というわけで、「朝廷こそが日本の正統な頂点であり、今政治を行っている幕府は権力を朝廷に返すべきである」という尊皇論と、「外国を日本から追い出すべき」という攘夷論、この2つが組み合わさって「尊皇攘夷」という政治スローガン(イデオロギー)が生まれた直接的原因はやはりマシュー・ペリー提督による「黒船来航」と、それに伴う幕府の「開国」という事となります。
「夷狄(西洋諸国)に屈した弱腰幕府にこれ以上日本の政治を任せておくわけにはいかない」
という理由により、
「幕府ではなく正統な主である天皇に忠誠を尽くし、幕府に代わって自分たちの手で夷狄を攘う」
という思想となっていったというわけであり、それが幕末における尊皇攘夷思想ということとなるわけです。
但し攘夷論の項で述べたように、攘夷派の志士たちの多くは西洋列強との圧倒的な軍事力の差から、現状での力による攘夷実行は現実的な方策ではなく「攘夷を実行するためにまずは開国して西洋列強から技術を吸収し、富国強兵に努めて十分に対抗し得る力を蓄えた後に攘夷を実行する」という「大攘夷・大開国論」へと徐々にシフトしていき、明治維新前にはそれが主流の考え方となっていきました。
尚、比較的早くからこの大攘夷・大開国という思想を持っていたとされるのが長州の吉田松陰や薩摩藩主の島津斉彬らであり、彼らの薫陶を受けた弟子や藩士たちはその後の明治維新の立役者となっていったのです。
西郷隆盛や高杉晋作、坂本龍馬ら幕末英雄の行動原理となった尊王攘夷
というわけで、簡単に「尊皇攘夷」思想についてご説明しました。
補足しておきますと、大開国・大攘夷という方針で薩長が倒幕を目指していった中でも、強硬な攘夷論者はもちろんたくさんいましたし、その意味では「尊王攘夷派」といわれる志士の中でもその考え方は多種多様だったといえます。
「尊皇」の志が厚い「勤皇家」と呼ばれる人たちの中にも、幕府を倒そうとする「倒幕派」の人間ばかりではなく、朝廷のもとで幕府を中心として攘夷を実行するべしという人もいましたし、坂本龍馬のように徳川将軍や幕府の主要人物も入れた新政府を作るべしという志士もいました。
まあとにかく幕末というのは様々な政治思想やイデオロギーがぶつかり合った時代であり、それ故になかなか分かりづらい時代ともいえます。ただし、“尊皇攘夷”というキーワードについてある程度理解していれば、幕末の小説やドラマなども飛躍的に理解しやすくなることは間違いないでしょう。
西郷隆盛や大久保利通らを輩出した薩摩藩の精忠組、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら長州の松下村塾出身藩士、そして坂本龍馬も所属していた武市半平太を盟主とする土佐藩郷士で結成された土佐勤皇党の志士など、維新の原動力となった有名志士たちの行動原理ともいえる尊王攘夷という幕末の最重要キーワード・・難しいですけどね(苦笑)。
コメント