戦国時代にその名を轟かせて後世に名を残した戦国武将達。
そんな苛烈な時代を生き抜いてきた猛者たちを祖先に持つ著名人・有名人はかなりいらっしゃいます。
ここではそんな戦国武将たちの末裔をご紹介してみたいと思います。
秋田県佐竹敬久(さたけのりひさ)知事の先祖は独眼竜を恐れさせた“鬼義重”
まずはバリバリの現職知事さんから。この方のご先祖も歴史ファンには人気を博す大物です。
名 前:佐竹敬久(さたけのりひさ)
生年月日:昭和22年(1947年)11月15日生まれ
年 齢:69歳
出身地 :秋田県仙北郡角館町(現:仙北市)
最終学歴:東北大学工学部
職 歴:秋田市長、秋田県知事等
秋田県生まれの秋田県育ちで東北大学卒業後は秋田県庁に入庁し、その後秋田市長となり現在は秋田県知事3期目を務める、まさに秋田県の顔といってもいい佐竹知事です。秋田市長時代には全国市長会の会長にもなった人物ですね。
秋田県で佐竹という苗字・・歴史ファンならばすぐにピンと来るのではないでしょうか。はいそうです、その予想通りです(笑)
名 前:佐竹義重(さたけよししげ)
生年月日:天文十六年(1547年)生まれ
没 年:慶長十七年(1612年)
氏 族:佐竹氏
佐竹知事は佐竹北家という佐竹宗家の分家筋となります。
それにしても、“鬼義重”の家系とは羨ましい限りですね。わたしもそうですが、コーエーの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズのファンとかであれば、この佐竹義重の凄さは体感していらっしゃると思います。政治、戦闘、知略、全てにおいて優秀なパラメーターを誇る実に優秀な武将なのです。わたしもゲーム内では重宝させていただきました(笑)。
しかしゲーム内だけでなく、実際の佐竹義重という武将はやはり凄いのです。
南を北条氏政、北を伊達政宗という超巨大勢力に囲まれ、この二大勢力と幾多の死闘を繰り広げて常陸の佐竹領を守り、佐竹家の全盛期を築いた凄い武将です。その凄さはその異名である“鬼義重”という名前そのものといってもいいでしょう。
ぶっちゃけ、佐竹義重ほどに実力と知名度が比例していない武将も珍しいでしょう。その意味では不遇の武将といえるのかもしれませんね。
細川護熙元総理の祖先は細川ガラシャの夫で石田三成を襲撃したあの戦国大名
現職知事さんの次には元総理大臣経験者といきましょう。自民党の55年体制を打破し、歴史的な非自民系総理となったこの人もあの大物の子孫です。
名 前:細川護熙(ほそかわもりひろ)
生年月日:昭和13年(1938年)1月14日生まれ
年 齢:79歳
出身地 :東京府東京市
最終学歴:上智大学法学部
現 在:陶芸家・茶人
熊本県知事を務めた後に国政へと復帰し、日本新党を立ち上げて非自民連立政権を樹立して第79代総理大臣になった細川護熙首相です。
新党ブーム、そして自民党以外の新総理誕生に沸いた当時の日本のマスコミはこぞって新首相の細川護熙さんの経歴を書き立てました。その中でひときわ目を引いたのが、“お殿様”総理という呼称です。それもそのはず、この細川新首相、凄い有名人の祖先を持っている人物だったのです。それがコチラの方。
名 前:細川忠興(ほそかわただおき)
生年月日:永禄六年(1563年)生まれ
没 年:正保二年(1646年)
氏 族:細川氏
豊臣恩顧の大名でありながら、関ヶ原の戦いでは福島正則や加藤清正、黒田長政らとともに徳川家康率いる東軍の主力として活躍し、その恩賞としてそれまでの丹後・豊後18万石から豊前中津33万9千石へと加増移封となり、さらには息子の忠利に家督を譲った晩年には肥後熊本54万石の大大名へとなり、そのまま熊本の大名として明治維新を迎えました。
関ヶ原で西軍の主力となった石田三成とは不仲だったようで、関ヶ原の戦い前に石田三成失脚の大きな要因となった「石田三成襲撃事件」では、先の福島、加藤、黒田や浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明とともに襲撃した七将の中にはこの忠興も含まれていました。
妻は非業の死を遂げた細川ガラシャであり、父は足利家に忠節を尽くし、茶人としても有名な風流人、細川藤孝(別名:幽斎)という、戦国時代きっての有名一家でもあります。
というわけで、細川護熙元首相が「お殿様総理」と呼ばれたのはこういうバックボーンがあっての事だというわけです。江戸時代に統治したおひざ元である熊本県知事を経ての総理就任は、まさに祖先が果たせなかった天下取りを果たしたとも言えますよね。
元フジテレビ人気女子アナの長野智子キャスターは武田信玄も恐れた上州の猛将の子孫
最後に、元局アナで現在はキャスターとして権力に対して物申す立場で活躍をするこの方の先祖も凄い人物なのです。
名 前:長野智子(ながのともこ)
生年月日 :昭和37年(1962年)12月24日生まれ
年 齢:54歳
出 生 地:アメリカ・ニュージャージー
身 長:166cm
血 液 型:O型
配 偶 者:あり
学 歴:上智大学外国語学部英語学科
ジャンル :報道キャスター、フリーアナ
所属事務所:古館プロジェクト
伝説のバラエティ番組「俺たちひょうきん族」の二代目ひょうきんアナウンサーとして人気となり、フジテレビ全盛期の女子アナとして女子アナブームの先駆者ともいえる活躍をし、現在では「サンデーステーション」などでキャスターを務めるフリーアナウンサーの長野智子さん。
古くは女子アナとして、現在はキャスターとして常に業界のトップを走り続けてきた長野智子さんのご先祖様がこちらの人物です。
名 前:長野業正(ながのなりまさ)
生年月日:延徳三年(1491年)生まれ
没 年:永禄四年(1561年)
氏 族:上野長野氏
上野国の豪族、“箕輪衆”の代表的存在として、上州を手に収めんとする北条氏康や武田信玄と激戦を繰り広げた猛将・長野業正です。
特に武田信玄とは幾度となく戦火を交えたとされており、信玄は「業正がおる限りは上野は攻め取れん」と漏らし、業正病死をきいて大変喜び、箕輪城へ攻め込んだといわれています。父・業正の後を継いで箕輪城主となった業正の子・長野業盛も信玄に対して徹底抗戦しますが、信玄の攻勢の前に自害して果てました。23歳という若さでしたが、この業盛の見事な戦いぶりと最後も後世に語り継がれるものとなっています。1988年(昭和63年)のNHK大河ドラマ「武田信玄」では若き日の保阪尚希さんが天晴れな若武者ぶりを演じてくれました。
なお、この長野業正は本姓を在原といい、その祖先はあの「伊勢物語」の主人公といわれ、六歌仙・三十六歌仙の一人でもある平安時代の歌人、在原業平(ありわらのなりひら)ともいわれています。
もし本当だとすれば、平安貴族きっての色男でありプレーボーイでもある業平の子孫・・うーん、そのルックスもちょっと気になってしまいますよね(笑)。
有名人の戦国武将・戦国大名の祖先については以下の記事もご参照ください。
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