西郷隆盛といえば明治維新最大の功労者といわれながら、最後は西南戦争で明治新政府に反旗を翻して賊軍の汚名を被って(後に名誉は回復)死去した悲劇の人物として知られています。
そんな西郷隆盛の弟、西郷従道は兄・西郷隆盛の死後も明治新政府において要職を歴任した明治新政府の要ともなる大物でした。“大西郷”と呼ばれた兄・隆盛に対して“小西郷”と呼ばれた弟、西郷従道についてここでは説明していきたいと思います。
西郷従道(じゅうどう・つぐみち/信吾“しんご”)の生涯・略歴
天保十四年五月四日(1843年6月1日)、薩摩藩城下士・西郷吉兵衛と西郷満佐の間に、西郷家の三男として薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で生を受けた。幼名を竜助と名付けられた。
幼少時、前藩主・島津斉興の茶坊主となって出仕していた有村俊斎(海江田信義)の推挙によって藩主・島津斉彬に茶坊主として出仕し、「竜庵」と号した。
文久元年(1861年)、還俗して西郷信吾隆興と名を改めた。
還俗後は兄・隆盛が盟主的立場となっていた薩摩藩の中下級武士による「精忠組」に加入し、尊王攘夷に傾倒し、尊攘派志士たちとの交流を持ち始める。
文久二年(1862年)、兄・隆盛が村田新八らと久光の命によって薩摩藩に捕縛された。同時期、西郷信吾ら精忠組は京都・寺田屋で京都所司代襲撃を企てていたところを久光の命を受けて説得に訪れた、大山格之助ら同じく精忠組メンバーで編成された追捕使たちと一階で乱闘となった(寺田屋事件)。この薩摩藩士による同士討ちによって有馬新七らが死亡するが、二階にいた信吾は追捕使の説得に応じて投稿したために謹慎処分となった。
謹慎が解けた信吾は、生麦事件に端を発した薩英戦争や王政復古後の戊辰戦争などに従軍、兄・隆盛の下で維新回天に貢献を果たしたが、戊辰戦争の緒戦となった鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の銃撃を受けて銃弾が貫通するという重傷を負った。
明治維新後は諱を従道と改める。
維新後には明治新政府に出仕し、明治三年(1870年)には兵部権大丞、翌明治四年には陸軍少将に任ぜられた。
明治六年(1873年)には征韓論争が巻き起こり、これに敗れた兄・西郷隆盛を始めとして多くの新政府要職が職を辞して下野する事となった(明治六年政変)。西郷隆盛の下野に従って多くの薩摩藩出身者も職を辞して故郷・鹿児島へと帰っていったが、従道は新政府に残って西郷の盟友・大久保利通らとともに新たな国づくりに携わる事となった。
明治七年(1874年)には陸軍中将に昇進、台湾出兵には指揮官として参加し、現地で制圧戦を指揮した。
明治十年(1877年)には鹿児島私学校の生徒を中心とした不平士族らによる反乱、西南戦争が勃発。兄・西郷隆盛は盟主として反乱軍に加わったが、従道は反乱軍に加わる事無く陸軍卿代行となって新政府の留守を守った。
紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺された翌明治十一年(1878年)には参議となり、同年中には陸軍卿に任ぜられた。その後も農商務卿や開拓使長官、海軍大臣、内務大臣、海軍大将、など明治新政府の要職を歴任、華族令制定時には伯爵を授爵された。
晩年は元老として政府内に大きな影響を与え、明治三十一年(1898年)には元帥の称号を授けられた。尚、海軍軍人として初の元帥こそこの西郷従道であった。
明治三十五年(1902年)、東京・目黒の自宅で病死した。享年60。死因は胃ガンであったといわれている。
戦死した隆盛、吉二郎、小兵衛の兄弟に代わって近代国家日本の礎を築いた小西郷
西郷従道といえば、冒頭で述べた通り、「大西郷」と呼ばれた兄・隆盛に対して「小西郷」と呼ばれた明治時代の政治家です。幕末にも薩摩藩士として多くの活躍をしましたが、西郷従道という人物の本領は明治以降、新政府に出仕してから発揮されたといってもいいでしょう。
西郷従道は略歴でも書いたように西郷吉兵衛の三男として生まれました。従道には長兄に維新三傑に数えられる英雄・西郷隆盛がおり、次兄には西郷吉二郎、そして末弟には西郷小兵衛という兄弟がいたのですが、西郷家の男兄弟の仲で天寿を全う出来たのはこの従道ただ一人でした。他の三人は全て戦で戦死してしまったのです。
明治維新最大の功労者である隆盛は当然として、二男の吉二郎や四男の小兵衛ももし戦死せず、もしも失脚していなければ従道と同様に明治政府の要職を歴任していた事でしょう。薩摩閥が維新以降にあれだけ新政府の中心となった事を考えれば当然の事実ともいえます。
いってみれば、従道は志半ばで世を去らねばならなかった兄や弟の分も西郷の名を残してくれたといってもいいかもしれません。兄たちは死して武人の名を残したかもしれませんが、従道は生きて政治家として西郷の名を高めたといえるでしょう。やはりこの兄弟は凄い人たちだったのだと思い知らされますね。
外見も中身も兄・隆盛とよく似た西郷信吾 最後まで総理大臣就任を拒み続けたその理由
「小西郷」と呼ばれて明治政府の重鎮として近代国家日本の礎を築いた西郷従道ですが、小西郷と呼ばれる程に、大西郷と呼ばれた兄・隆盛に風貌もよく似ていたといわれています。上の写真を見てもらえば一目瞭然ですよね。太い眉に黒目の大きなハッキリとした目、わたしたちの良く知っている「西郷さん」の顔に瓜二つです。
それもそのはずです。わたしたちがよく知っている西郷さんの肖像画の一つはこの西郷従道の顔を参考にして描かれているのですから。その肖像画が下のものです。
上の肖像画は明治時代に来日して日本の美術教育などに大きな影響をおよぼしたイタリアの画家、エドアルド・キヨッソーネが描いたものなのですが、キヨッソーネが来日してこの絵を描いた時、既に西郷隆盛はこの世の人ではありませんでした。そこで、風貌のよく似た西郷従道の顔を参考にしてこの絵を完成させたというのは有名な話です(顔は従道、体は隆盛の従兄妹の大山巌を参考にしたといわれる)。
このように外見がよく似ていた長兄・隆盛と三男・従道でしたが、性格も兄とよく似た非常に「太か」人物だったそうです。
大臣級を歴任した従道でしたが、基本的に仕事は部下に任せていたそうです。部下には好きなように仕事をやらせて、もしもの時の責任は全て自分がとるというスタイルだったそうです。上士としてはまさに理想であり、下からの人望も篤かった理由がよく分かりますよね。
さらに、伊藤博文が初代総理になった他、黒田清隆や松方正義、さらには西郷の腹心ともいえる山本権兵衛といった薩摩藩出身者が総理大臣となった中で、当然ながらこの西郷従道にも何度となく総理就任要請があったらしいです。まあ維新時や新政府での功績を考えれば当然でしょう。しかし従道は終生これを受ける事は有りませんでした。兄・隆盛が賊軍として処罰された事がその理由なのですが、この辺りもまた西郷家の男らしいというか、薩摩人らしいというか・・こういう人物にこそ総理になって欲しかったと思うのはわたしだけでしょうか。
ジャニーズ事務所の関ジャニ∞・錦戸亮(にしきどりょう)が待望の大河ドラマ初出演
西郷隆盛を主人公として描く2018大河「西郷どん」。当然ながらこの西郷従道という人物は重要な役どころとして全編にわたって登場する事となるでしょう。そんな「小西郷」を演じる俳優さんがこちらです。
名 前:錦戸亮(にしきどりょう)
生年月日 :昭和59年(1984年)11月3日生まれ
年 齢:33歳
出 生 地:大阪府門真市
グループ名:関ジャニ∞
身 長:169.5cm
ジャンル :歌手・俳優・ギタリスト
血 液 型:O型
所属事務所:ジャニーズ事務所
関ジャニ∞のメインヴォーカリスト&ギタリストであり、俳優としても映画、ドラマ、舞台にと活躍する錦戸亮さんが待望の大河ドラマ登場となります。これまでの活躍を考えるとこれが初の大河ドラマ出演というのは意外な気もしますよね。
それにしても、錦戸さんの彫りの深い少し南国系の顔立ちというのはこの西郷従道にピッタリな気がしますよね。若き日は寺田屋騒動に巻き込まれるほどに血気盛んな若者、そして明治以降は新政府の一員として実の兄と対峙しなければならないという過酷な運命を背負ったこの西郷従道。錦戸亮さんがどう演じてくれるのか楽しみにしましょう。
尚、従道の幼年期は斎藤汰鷹くん、少年期を佐藤和太くんが演じてくれます。どう錦戸亮さんに繋げてくれるのか、これもまた楽しみに見ましょう。
コメント