NHK大河ドラマ「西郷どん」では第1話から登場し、主人公である西郷小吉の幼馴染として幼少期から最後の戦いである西南戦争までをともに生き抜いたのが大山綱良(格之助/つなよし・かくのすけ)です。
ここでは幕末期の薩摩藩きっての剣豪としても有名な薩摩藩士・大山綱良という人物についてご紹介しましょう。
大山格之助(おおやまかくのすけ/綱良)の略歴・生涯
文政八年十一月六日(1825年12月15日)、樺山善助資兼の末子(兄と姉3人)として薩摩国鹿児島に生を受けた。幼名を熊次郎といった。郷中教育では高麗町郷中で育った。
嘉永二年(1849年)、24歳の時に大山四郎助の長女・澤と婚姻を結び、大山家の婿養子となり、大山角右衛門、或いは大山格之助等と名乗った。後に薩摩藩の中下級藩士が中心となって結成された藩内組織、「精忠組(せいちゅうぐみ/誠忠組とも)」に参加し、西郷吉之助(隆盛)や大久保正助(利通)らと親交を深めることとなる。
島津斉彬派が中心だった精忠組だったが、その斉彬死去後に薩摩藩の実質的最高権力者となった藩主・忠義の実父・島津久光はその精忠組の取り込みを図って大久保利通や吉井友実、税所篤らを側近として取り立てたが、格之助も久光上洛の随行藩士となるなど久光に見出された一人であった。
文久二年四月二十三日(1862年5月21日)、精忠組の中でも過激な尊王攘夷思想を持ち、久光の公武合体の方針に従わなかった有馬新七や橋口壮介、弟子丸龍助ら藩内の尊攘過激派が「関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義襲撃計画」のために集まった寺田屋に久光が藩内でも特に剣術に優れた9名を有馬らへの説得のために派遣した。この中に薩摩藩屈指の剣の使い手と名高かった大山格之助も加わっていた。格之助ら説得のために寺田屋へ遣わされた鎮撫使達は、万が一寺田屋の藩士たちを説得出来なかった場合は上意討ち(上からの命令による粛清)もやむなしとの指令を受けており、説得は不備に終わったために有馬らと寺田屋で同じ藩士同士の乱闘となって敵味方併せて7名の死者の他に多数のケガ人が出る悲劇となった(寺田屋事件)。有馬新七や橋口壮介、柴山愛次郎、弟子丸龍助ら多くの志士を失った寺田屋事件だったが、幸い二階にいた藩士たちは鎮撫使の説得に応じて投降してその後謹慎を命じられるなどしたためそれ以上の犠牲は避ける事が出来た。説得に応じて投稿した藩士たちの中には西郷隆盛の弟である西郷信吾(従道)や大山弥助(巌)といった明治政府の元勲たちや、永山弥一郎や篠原冬一郎(国幹)といった西南戦争で散った隊士たちもいた。
大政奉還、王政復古の後に勃発した戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府の下参謀に就任するも、庄内戦線では西洋化で強兵策に成功していた庄内藩の前に敗戦を重ねた。
戊辰戦争後の明治新政府体制においては鹿児島県令(現在の鹿児島県知事)を務めた。この時期の県令は基本的にその県以外の出身者が就任する事が基本原則となっていたため(藩時代をリセットするため)、薩摩(鹿児島)出身の大山の鹿児島県令就任は異例中の異例であった。これは全国でも最も維新に不満を持っていた(廃藩置県等)旧薩摩藩に対する配慮という見方もある。
西郷が新政府閣僚として廃藩置県などに尽力していた時には西郷を批判していた大山綱良であったが、明治六年の政変によって西郷が新政府を辞して鹿児島に帰郷してからは西郷のサポート役に回る事となった。西南戦争で主力となった不平士族を輩出した私学校設立を援助したりしたが、一方で国に対しては租税を納めないなど、綱良は県令という新政府の要職でありながらも、既に政府に不平を募らせる私学校側として政府のコントロール外といってもいい存在となっていた。
明治十年(1877年)には不平士族の不満が爆発、西郷隆盛を盟主として薩軍が蜂起した西南戦争が勃発。この戦争でも大山は政府側であるにもかかわらず政府への反乱軍である薩軍側に官金で資金援助を行うなどして西郷たちをサポートした。戦争終結後、その責を政府軍に問われて大山綱良は捕縛され、東京に送還された後長崎へと移送された明治十年(1877年)9月30日、長崎にて斬首刑に処せられた。享年53。幕末から共に戦った西郷隆盛の死の6日後の事であった。
薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)の達人で直心影流や神道無念流にも勝った剣豪
大山格之助、維新後は大山綱良と名乗ったこの薩摩藩士は上で触れたように薩摩藩きっての剣豪として有名です。
薩摩藩士の同士討ちの悲劇として知られている「寺田屋事件」では薩摩藩きっての剣客として寺田屋へ説得に赴いた追捕使に選ばれました。たった9人で薩摩藩士大人数の精鋭を相手に戦わねばならない大役、それだけでどれ程の使い手かというのは窺い知れるでしょう。
そんな格之助は薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)の高弟中の高弟であり、口伝である小太刀を極めた達人であったといいます。薩摩の剣術といえば、多くの人が思い浮かべるのが「チェストー!」の掛け声で有名な戦国期の剣豪・東郷重位(とうごうしげかた)が流祖の示現流だと思いますが、格之助の修めたこの薬丸自顕流はその示現流から独立した流派です。
薬丸自顕流は幕末に薩摩藩家老である調所広郷に認められて薩摩藩の剣術師範となりました。中村半次郎や海江田信義(有村俊斎)、篠原国幹、さらには西郷従道など数多くの明治元勲を輩出したこの薬丸自顕流ですが、その中でも屈指の使い手として名高いのがこの大山格之助だったのです。
その剣術におけるエピソードで有名なのが、直心影流(じきしんかげりゅう)及び神道無念流(しんとうむねんりゅう)との道場での試合でしょう。どちらの立ち合いにおいても格之助は、防具をつけた相手道場の師範代を相手に素面素小手(防具無し)に小太刀一本を持って相手を打ち破ってしまったのです。どちらも閃光のような素早い立ち会いであっという間に勝負を決めてしまったといわれています。
名優・北村和夫の血を引く北村有起哉(きたむらゆきや)が八重の桜以来の大河出演
幕末きっての剣豪であり、明治新政府では新政府側の人間でありながら反乱軍である西郷隆盛らの味方をして斬首となった大山綱良。何とも魅力的なこの人物の子役時代を「西郷どん」の中で演じるのが犬飼直紀くん。そして成人以降を個性派俳優の北村有起哉(きたむらゆきや)さんが演じます。北村さんの大河ドラマ出演は2005年「義経」、2011年「江~姫たちの戦国~」、2013年「八重の桜」に続いて5年ぶり四度目となります。
北村さんのお父さんといえば戦後の名優・北村和夫さん(2007年逝去)ですが、その北村和夫さんはその生涯で実に12本の大河ドラマに出演されました。記念すべき大河1作目の「花の生涯」から「赤穂浪士」「太閤記」「源義経」までなんと初作から4作目まで4年連続の出演、そして最後は2006年「功名が辻」での老商人役。千代と一豊の有名な駿馬買いエピソードで馬を連れてくる重要で印象的な役でした。未だにハッキリと脳裏に焼き付いています。
父の12回というのはとてつもなく遠い数字ですが、息子の有起哉さんにもこれからどんどん大河出演頻度を上げていってもらいたいですね。個人的には八重の桜の秋月悌次郎(あきづきていじろう)役が一番印象に残っています。会津藩の忠臣はハマり役でした。
今回は主人公の西郷吉之助や大久保正助、有村俊斎、村田新八、そして寺田屋で斬り合った有馬新七らと郷中仲間であり幼馴染であるという設定の大山綱良役。郷中仲間の兄貴分役として西郷どんと運命を共にする事となるこの幕末きっての剣豪を北村さんがどう演じるのか楽しみにしましょう。
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