[NHK大河ドラマ]西郷どんの盟友・大久保利通(おおくぼとしみち) 瑛太(えいた)演じる維新三傑の英雄

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西郷どん

2018年の大河ドラマは幕末~明治初期を描いた「西郷どん」。主人公は現在でも“西郷さん”と呼ばれる国民的英雄の西郷隆盛。そして西郷隆盛といえば、同じ薩摩藩下級武士出身で共に維新を成し遂げた維新三傑の一人、大久保利通を避けては通れません。

当然ながら「西郷どん」の中でも準主役級として登場する大久保利通。鹿児島が生んだもう一人の英雄の生涯やエピソード、その人となりなどをご紹介していきたいと思います。

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大久保利通(おおくぼとしみち・正助/一蔵)の生涯・略歴

文政十三年8月10日(1830年9月26日)、薩摩藩下級武士(家格は小姓与)の大久保利世と皆吉福の長男(第二子)として、薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)にて生まれた。幼名を正袈裟(しょうけさ)といった。

下鍛冶屋町の郷中教育で知り合った西郷隆盛や有村俊斎(海江田信義)、税所篤(さいしょあつし)、吉井友実(幸輔)とは郷中仲間として後に結成する誠忠組等でも同志としてともに行動する事となった。ちなみに郷中仲間の中では学問では抜きんでた秀才であったといわれている。

天保十五年(1844年)に元服して通称を正助とし、後に薩摩藩記録所書役助に就いていたが、島津斉彬派と島津久光派の藩主を巡るお家騒動である「お由羅騒動」に連座する形で父・利世が喜界島に流罪となり、正助も謹慎処分となり失職・失脚し、大久保家の生活は困窮を極める事となった。

後に島津斉興が老中・阿部正弘の仲裁によって隠居して斉彬が藩主となると正助は謹慎を解かれて復職し、安政四年(1857年)には盟友・西郷隆盛とともに徒目付に任ぜられた。

島津斉彬病死後は、島流しとなるなど冷遇された西郷とは反対に、郷中仲間の税所篤の斡旋で新藩主の父である久光に接近して藩政に参加する程の信頼を得る。

通称を一蔵として諱(いみな)を利通と改めた大久保利通は、西郷隆盛の藩政復帰を後押しし、公家の岩倉具視らと接近して公武合体路線から武力倒幕路線への転換の中心人物となり、薩摩藩の中では西郷、家老の小松帯刀とともに薩長同盟、大政奉還、王政復古と続く維新回天に大きな役割を果たしていった。

維新後は明治新政府の参議となり、版籍奉還、廃藩置県等を行って中央集権体制の確立に尽力する。その後大蔵卿となって岩倉使節団副使として諸国外遊に出たが、外遊中に勃発した征韓論論争において、留守政府の旧友・西郷隆盛らと意見が真っ向から対立。征韓論に敗れた西郷らは職を辞して下野する(明治六年の政変)。

明治六年(1873年)には内務卿となり、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成などの殖産興業政策や徴兵制、地租改正などを整備して富国強兵の基礎を固めた。しかし、西郷や板垣退助、江藤新平らが政変によって政府を去った後の大久保への権力集中は「有司専制(ゆうしせんせい)」であるという内外からの批判を招いた。

明治新政府の中心的存在として、明治六年政変で政府を追われた江藤新平の佐賀の乱(明治七年)、そして幼少時からの友である西郷隆盛の西南戦争(明治十年)等を鎮圧して日本の新しい形が出来つつあった明治十一年(1878年)5月14日早朝、自宅を出て明治天皇に謁見するために赤坂仮皇居へ馬車で向かう途中、紀尾井坂(現在の東京都千代田区紀尾井町)で石川県と島根県の不平士族6名に襲われ、頭部を中心として計16か所にも及ぶ刀傷を受けてほぼ即死した(紀尾井坂の変)。享年49。大久保の死によって維新三傑(大久保、西郷、木戸孝允)は維新からわずか10年余りで全て鬼籍に入る事となった。

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冷静沈着なパブリックイメージを覆した西郷隆盛との友情秘話(西南戦争編)

地元の鹿児島県において、英雄として現在でも多大なる人気を誇っている西郷どんこと西郷隆盛に対してこの大久保利通の不人気は一層際立ちますね。ともに維新の三傑と呼ばれた偉人とは思えない程です。ハッキリ言って、日本が明治以降西洋列強に国力で追いつくことが出来たのはこの大久保利通あってこそだと思っています。日本史上最も優れた政治家だと個人的には評価している程です。

この大久保利通の不人気の原因としては、地元鹿児島の不平士族の受け皿となり、共に戦って散った西郷隆盛に対し、新政府の中心人物として鹿児島の不平士族の一掃を嬉々として指揮した冷徹な大久保利通、というのが大きなものといえるでしょう。

確かに大久保利通は新たな日本のために不平士族の一掃はやむなしと考えていたのですが、西南戦争の場合は少し趣が違いました。その理由は西南戦争で反乱軍の首魁となったのが幼馴染であり倒幕から維新を共に成し遂げた盟友・西郷隆盛だったからです。

鹿児島での不平士族の蜂起の萌芽の噂はもちろん大久保の耳にも届いていましたが、大久保の中ではその反乱に西郷が与するとは思ってもいませんでした。だからこそ鹿児島の不平士族反乱軍の中に西郷がいると知った時には驚き、殺されるのを覚悟で鹿児島へ西郷の説得に行くとまで言ったのです。超合理主義者で目的のためには徹底して感情を挟まない事で有名なあの大久保利通という男が、です。

そして西南戦争で西郷が死亡した事を自宅で知ると、取り乱して号泣し、鴨居に頭をぶつけながらグルグルと歩き回ったと伝わっています。常に冷静沈着、他を威圧してとても話しかけられないような威厳と圧倒的オーラを放っていたというあの大久保利通という男が、です。

幕末から明治に至る動乱においての功績についてはよく、「西郷が壊して(武力倒幕)大久保が作り上げた(明治新政府)」といわれます。破壊と建設のプロフェッショナル、一見正反対に見える二人ですが、あの冷血漢とも揶揄された大久保利通が唯一心を許した人物こそ、西郷隆盛だったといえるのかもしれません。

私財を投じて国のために尽くし、借金だらけとなった清貧の維新三傑

大久保利通という人物程、その功績の割に人気のない偉人も珍しいといえるかもしれません。その大きな要因の一つが、上でも述べたような目的遂行のためには妥協を許さぬ冷徹なイメージなのではないでしょうか。確かにそのパブリックイメージは間違ってはいませんが、その裏には意外と知られていない素顔もあるというのも事実なのです。

大久保利通という偉人は、理想国家建設のために故郷やかつての仲間を切り捨てる事も厭わない人物でしたが、立場を利用して私腹を肥やすような人間ではありませんでした。大久保ほどの立場にいれば、権力集中によって様々な利権を利用して私財を蓄える事など容易にできた事でしょう。しかし大久保はそんな立場を個人のために利用するようなことは一切ありませんでした。

大久保利通が紀尾井坂の変で暗殺された直後、大久保利通の残した私的な財産はわずか現金140円でした。それに対して大久保が各方面に残した借金が総額約8000円。私財の60倍にも及ぶとんでもない借金です。これは大久保がとんでもない浪費家だったからではもちろんありません。

大久保は新国家建設のために様々な事業を推進します。が、中には国家に認められずに予算がつかなかった事業やインフラ整備も当然ありました。そんな事業のうち、どうしても喫緊でしなければならないと大久保が認めたものに対して、大久保は私財を投じてその事業やインフラ整備を推進したのです。国家事業を自らの財産を投げうって行ったというわけです。その結果、大久保家はおよそ国家宰相には似つかわしくない程質素な暮らしぶりであり、結果として莫大な借金を残してしまったのです。

ただしこのような大久保利通の顔は債権者にはお見通しだったようで、大久保の残した借金を大久保の遺族に督促するような債権者は一人もいませんでした。大久保という男を皆よく知っていたのでしょう。

どうですか?少しは大久保利通という人物を見る目が変わるエピソードでしょう?

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写真好きで子煩悩、西洋文化を好み囲碁に負ければ口惜しさを露にした大久保卿

さらに大久保利通という人物について何点かご紹介しましょう。

写真嫌いとして有名で、生涯において1枚も写真が残っていない西郷隆盛とは正反対に、大久保利通の写真好きは有名で現在でもかなりの数の写真が残されています。

最も有名なのがこの写真ですよね。わたしの学生時代の教科書にはこの写真が載っていました。ちなみに、西郷が写真嫌いとなったのは、大久保が写した自分の移っている写真を見た西郷隆盛が、自らの写真写りに嫌気がさしたためという説もあります。真偽は定かではありませんが、なかなか面白い逸話だと思いますね。

写真隙に代表されるように、西洋文化に対して全くと言っていいほど抵抗がなく、むしろ積極的に取り入れていた大久保ですが、当時住んでいた自宅も西洋風の家屋であり、当時の日本人には珍しく、洋風の居間で洋服を着た生活を送っていました。朝食はコーヒーを飲み、ブランデーを少し加えたオートミールを好んでいたといわれています。写真で見ても分かるように、頭髪もしっかりとセットしており、常にポマードでビシッと決めていたそうです。まさに文明開化を地で行く生活ぶりであったという事ですね。

大久保利通という人はとても子煩悩であり、寝る間もない程忙しい日々を送る中で一人娘の芳子と遊んでやるのが一番の楽しみであったというのも有名な逸話です。明治政府では恐れられた大久保でしたが、芳子や男児たちからもとても慕われており、大久保家では良きパパであったといわれています。

趣味が仕事といえる程に趣味の少なかったといわれる仕事人間の大久保利通という人物の、唯一といってもいい道楽が「囲碁」だったといわれています。薩摩藩士時代から相当好きだったようで、倒幕・維新を共に成し遂げた岩倉具視とは囲碁では火花を散らす間柄だったといいます。さらに明治時代に名を馳せた名人、本因坊秀栄とも囲碁を通じた交流を持っていました。冷静沈着なイメージの大久保ですが、囲碁の対局で負ければ露骨に機嫌が悪くなり、家に帰ってきた足音を聞いただけで囲碁に負けたのが分かる程だったといわれています(笑)。

こういった逸話がもっと広まれば、きっと日本人の大久保人気はもっと上がるのだろうと思いますね。

鹿児島出身の瑛太(えいた)が「篤姫」の小松帯刀に続いて演じる維新の元勲

維新三傑の一人として近代日本を作り上げた父ともいえる存在、大久保利通。今回の大河ドラマ「西郷どん」では主人公・西郷隆盛の盟友として登場するこの偉人を演じるのが瑛太さん。大河ドラマは2008年「篤姫」以来10年ぶり二度目の登場となります。今世紀最大ともいえる大河ヒット作となった「篤姫」では薩摩藩家老の小松帯刀を演じ、小松帯刀という人物の人気を一躍高めたのは記憶に新しいところでしょう。今回は小松に続いて、維新の元勲である大久保利通を演じます。

瑛太さんの大河出演がまだ2作目というのは本当に意外なイメージです。それ程に前回の「篤姫」における小松帯刀役のインパクトが凄かったという事でしょうか。奇しくも薩摩を舞台とした大河ドラマに連続登場となった瑛太さんですが、そんな瑛太さんの父親は鹿児島県出身という事なのだそうです(もちろん弟の永山絢斗さんも)。

同じく薩摩藩を舞台として、西郷隆盛を主人公として描いた作品としてこの「西郷どん」と比較される運命にある「翔ぶが如く」では鹿賀丈史さんが演じた大久保利通(今作では島津斉興を演じられます)。翔ぶが如くでは、触れれば斬れそうな切れ者という大久保卿のイメージを素晴らしい演技力で表現された鹿賀さんでしたが、今回の大久保利通は、上記したような人間臭さとか人情的部分にもスポットライトを当ててほしいと個人的には思いますね。

瑛太さんが演じるという事で、間違いなく大久保利通という偉人の評価はこの作品で上がる事でしょう。個人的に凄く嬉しいですね。

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