幕末の薩摩藩からは、明治維新、そして明治新政府で活躍した人物を大勢輩出しました。
そんな薩摩藩の傑物の中からここでは、幕末には「人斬り半次郎」として京で名を馳せ、維新後は桐野利秋として西南戦争で奮戦した中村半次郎(桐野利秋)をご紹介しましょう。
中村半次郎(桐野利秋/きりのとしあき)の生涯・略歴
天保九年十二月(1838年)、薩摩藩城下士・中村与右衛門の二男として鹿児島郡吉野村(現:鹿児島県鹿児島市吉野町)に生まれる。
中村家の先祖は江戸初期の薩摩藩士で藩主への謀反の疑いによる平田増宗暗殺で道案内を務めた桐野九郎左衛門尉(きりのくろうざえもんのじょう)であるといわれている。桐野九郎左衛門尉の次男である源之丞が増宗暗殺後に桐野姓を改め、母方の姓である中村姓を名乗って中村与兵衛と称したという。西南戦争で薩軍としてともに戦った別府晋介は母親方の従兄弟にあたる。
半次郎がまだ幼少期に父・与右衛門が徳之島に遠島となって家禄五石の召し上げ以降の中村家は困窮を極め、兄の与左衛門邦秋も死去した後は、半次郎が小作人となったり畑を開墾したりと農民同様の働きをして中村家を支えた。
成人後は島津斉彬急死後の藩主・島津忠義の父として実質的な薩摩藩の最高権力者となった島津久光に目をかけられて上京した。
文久二年(1862年)に起きた「寺田屋事件」の時には尹宮(いんのみや/東久邇宮朝彦親王)附きの守衛で在京していた。同年に京都の旅籠・寺田屋で起きた「寺田屋騒動」で犠牲となった弟子丸龍助ら、昵懇の仲であった誠忠組の藩士も多く犠牲となったが、半次郎自身は関与しなかった。
久光の元で片腕というべき存在となった家老の小松清廉(帯刀)に重用されて仕事をこなしていくうちに他藩藩士らとの交流で人脈を築いた。その中で後に運命を共にする事となる西郷隆盛とも親交を深めていった。
薩摩藩家老として大きく表立った行動が出来ない小松帯刀の手足となって働いた半次郎は、薩長同盟を結ぶ前の長州藩潜入や天狗党の乱の偵察、さらに神戸海軍操練所への入塾など、密偵ともいえる役割を果たして薩摩藩のために大きな働きをした。その過程において当時は薩摩藩と反目していた長州藩に共感するようになり、次第に薩長同盟のために動くようになっていき、その過程で薩長同盟の仲立ちをした土佐脱藩浪人の中岡慎太郎や坂本龍馬らとも親交を深めていった。
薩長同盟、大政奉還、王政復古と続いて始まった戊辰戦争においては、伏見の戦いや駿府城と小田原城の占拠、上野戦争、そして会津戦争と主要な戦いに参加した。さらには西郷隆盛と山岡鉄太郎との会談や西郷と勝海舟の江戸城明け渡しに関する会談にも同席したといわれており、その事実に当時の西郷と半次郎の関係の深さが現れている。
維新後間もなくは鹿児島常備隊第一大隊隊長として鹿児島にあったが、明治四年(1871年)に陸軍少将に任ぜられて中央政府入りした。その後は鎮西鎮台司令長官や陸軍裁判所署長などを歴任したが、明治六年(1873年)に征韓論争に敗れた西郷隆盛が新政府役職を辞して下野すると(明治六年の政変)、利秋も新政府の職を辞してともに下野、鹿児島へと帰郷する。
鹿児島へと帰郷した利秋は鹿児島本城村の久部山の開墾に従事する日々を送りながら、城山に私学校が創設されると利秋はその翌年に設立された吉野開墾社で開墾事業を指導する立場となった。
明治十年(1877年)に入ると、私学校生徒による草牟田火薬庫襲撃事件や帰郷警察官による西郷隆盛暗殺計画によって勃発した不平士族による反乱、西南戦争が勃発。利秋は新政府に対抗すべく結成された鹿児島の西郷軍に加わり、軍需品の調達収集等の役割を担うとともに、出兵における大隊編成においては第四大隊指揮長とともに総司令を兼務し、西郷に次ぐナンバー2といっていいポジションで戦いに臨んだ。
西郷軍は鹿児島を進発して熊本城の奪取を目指して包囲したが、徐々に政府軍に押されて各地で敗戦を重ね、鹿児島へと追いやられた薩軍は城山を占拠したが兵数と火力に勝る政府軍に包囲され、城山総攻撃により西郷が負傷して別府晋介の介錯によって自決。西郷自決後も利秋は戦い続け、明治十年(1877年)9月24日、岩崎口にて奮戦したが眉間を銃で打ち抜かれて戦死した。享年40。洒落者として有名だった利秋らしく、その遺体からはほのかに芳しい香水の香りが漂っていたという。
人斬り半次郎一回だけの暗殺エピソードと脇差で刺客を撃退した恐るべき実力
幕末においては中村半次郎という名で維新回天を成し遂げ、明治期には桐野利秋という名で明治新政府で要職を歴任し、最後は西郷隆盛や村田新八、別府晋介、篠原国幹、永山弥一郎らとともに西南戦争で散ったこの人物、NHK大河ドラマ「西郷どん」においても重要なキーパーソンとなる事は間違いない程に西郷隆盛という偉人の人生にとっては欠かす事の出来ない人物です。
まずこの中村半次郎という名は歴史ファンの間では「人斬り半次郎」として特に有名となっています。幕末の四大人斬りにも数えられる剣客として知られていますね。
独自の我流の剣術に薩摩藩の御流儀でもある示現流を加えた半次郎の剣術は達人の域であったといわれており、佐幕派に大いに恐れられたといわれています。但し、現代に伝わる「人斬り半次郎」のイメージに反して、中村半次郎がその生涯の中で行った天誅はたったの一度きりです(記述として残されているもの)。ここが四大人斬りと呼ばれた他の岡田以蔵、田中新兵衛、河上彦斎との大きな違いといえるでしょう。
ただしその一度の人斬りが実に半次郎らしいともいえます。
中村半次郎が天誅を下したたった一人の人物が、幕末きっての兵学者である信州上田藩士の赤松小三郎(あかまつこさぶろう)。実はこの赤松という人物、半次郎の属する薩摩藩がイギリス兵学教官として雇い、京の薩摩藩邸で約800人の藩士に教えたり、薩摩藩主・島津久光の依頼を受けて「英国歩兵練法」の翻訳を担当するなど、薩摩藩の兵式を蘭式から英式へと変化させた偉大な人物なのです。
ただしこの赤松小三郎という人物、政治思想的には「公武合体派」であり、「武力倒幕」思想の半次郎的には敵対する幕府に与する危険分子であると映っていたらしく、赤松が上田藩に帰藩する途中で暗殺してしまったのです。しかもこの暗殺、半次郎の独断によるものであるといわれているのです。薩摩藩がスカウトしてきた人物を幕府寄りの人間であるという理由で上への相談なく斬り捨ててしまうという、非常に豪胆なこの暗殺エピソードこそ中村半次郎という人物を最もよく現しているのかもしれません。
さらに半次郎の剣豪エピソードとして有名なのは、戊辰戦争中の上野戦争の後、銭湯からの帰途で3人の暗殺者に襲われたものでしょうか。半次郎は河野四郎左衛門という人物と一緒のところを一刀流の使い手である鈴木隼人ら三人の刺客に襲われました。この襲撃で半次郎は反撃して一人を斬って撃退したものの、左手の中指と薬指を失うという負傷を負ったのです。しかしこのエピソードの凄いところは、半次郎は襲撃された際に脇差しか持っておらず、脇差のみで戦って撃退したという事でしょう。脇差で一刀流の剣客を相手に戦い撃退したというこのエピソードも、中村半次郎という人物の剣術の凄さを物語っているといえます。
まあどのエピもカッコいいのです、この中村半次郎は。
高身長・ハンサムで華も実もある中村半次郎のイメージにピッタリの写真
明治維新後は名を桐野利秋とした中村半次郎ですが、この桐野姓と中村姓については上に記した通り、元々桐野姓であった半次郎の祖先が江戸初期に中村姓と名乗ったためです。
幕末には薩摩藩士・中村半次郎として全国各地を飛び回り、幕府を倒して維新回天を成し遂げた半次郎でしたが、明治以降は波乱万丈の人生を送りました。維新回天の英雄から一転して政府に反旗を翻した逆賊として戦死、そして死後に名誉回復・・という流れは共に西南戦争で最期を共にした維新三傑の一人、西郷隆盛と同じです。
そんな桐野利秋ですが、とにかくオシャレで粋な男であったらしく、着物の着こなしや頭髪等身だしなみは見事であり、さらに当時としては高身長で見栄えのする体格に加え、整った顔立ちはまさに華を感じさせるものであったという同時代の人物による証言が多く残っています。
上の写真の向かって左側が幕末の頃の中村半次郎です。隣は当時の恋人だった「村田さと」という女性で、京都四条にあった「村田煙管店」という店の娘です。何とも言えない魅力を感じますよね。まさに“激動の時代を生き抜いた粋な男”といった感じでしょうか。薩摩の快男児・中村半次郎という男のイメージにピッタリの写真だと思いますね。
幕末に多数の大物を輩出した薩摩藩ですが、そんな薩摩隼人たちの中でもこの中村半次郎(桐野利秋)という人物は今でも高い人気を誇っています。わたしも大好きなこの中村半次郎、今回の「西郷どん」で今以上に多くの人たちに知ってもらいたい人物であり、もっと脚光を浴びてほしい歴史的人物の一人でもあります。
桐野利秋(中村半次郎)役はどの俳優に?続報が入り次第追記します
そんな中村半次郎(桐野利秋)ですが、平成30年1月20日現時点ではまだ「西郷どん」におけるキャスト発表はされていません。
まあ中村半次郎が登場しないという事は有り得ませんので、そのうちに発表があると思います。半次郎役の俳優さんが発表され次第、この記事中で追記したいと思いますので楽しみにお待ちください。
1/21追記:少年時代の中村半次郎役は子役の中村瑠輝人(なかむらるきと)君
「西郷どん」の中村半次郎の少年時代は子役の中村瑠輝人(なかむらるきと)くんに決定しました。
中村君は2004年(平成16年)4月20日生まれの13歳。数々の映画やドラマ、情報バラエティ番組などで活躍している実力派子役です。
貧しいながらも後に「人斬り半次郎」として京で恐れられた剣豪の片りんを見せる若き日の中村半次郎をどのように演じてくれるのか楽しみにしましょう。
コメント
関ヶ原 西軍サッカーフォーメーション
監督 毛利輝元
1 GK 上杉景勝
2 DF 直江兼続
3 DF 前田慶次
4 DF 宇喜多秀家
5 DF 安国寺恵瓊
6 MF 大谷吉継
7 MF 石田三成(キャプテン)
8 FW 小西行長
9 MF 真田信繁
10 MF 真田昌幸
11 FW 島左近
12 GK 島津義弘
13 DF 明石全登
14 MF 長宗我部盛親
15 MF 毛利勝永
16 FW 立花宗茂
大坂の陣 豊臣軍メンバー
監督 真田幸村(選手兼任)
1 GK 豊臣秀頼
2 DF 大野治長
3 DF 大野治房
4 DF 大野治胤
5 MF 明石全登
6 MF 長宗我部盛親
7 MF 毛利勝永
8 MF 猿飛佐助
9 FW 後藤又兵衛
10 MF 真田幸村(キャプテン)
11 FW 木村重成
12 GK 塙直之
13 DF 高梨内記
14 MF 大谷吉治
15 MF 堀田作兵衛
16 FW 真田幸昌