幕末を舞台として、様々な歴史上の偉人や有名人たちが次々と登場してくる2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」。
そんな「西郷どん」における新たな登場人物に一人気になる人物が一人・・ここではその人物の正体やその人物像、生涯などについてご紹介していきたいと思います。
高知県(土佐藩)に関係?劇団ひとり演じる、牢屋で出会った謎の漂流者の正体は?
西郷どんの第5話、6話の2話にわたって出演するその人物の役名は「謎の漂流者」。洋服を着て異国の歌を口ずさむその男は密航者として琉球(現在の沖縄)で捕らえられた・・という設定だそうです。
そしてそんなミステリアスすぎる「謎の密航者」を演じるのがこの方です。
名 前:劇団ひとり(げきだんひとり)
本 名:川島省吾(かわしましょうご)
生年月日 :昭和52年(1977年)2月2日生まれ
年 齢:41歳
出 生 地:千葉県千葉市花見川区
身 長:175cm
体 重:71kg
ジャンル :お笑いタレント、俳優、小説・脚本家
血 液 型:A型
家 族:妻(タレントの大沢あかね)と二子
趣 味:映画鑑賞
所属事務所:太田プロダクション
お笑い芸人から俳優、そして小説家、脚本家とマルチな才能を発揮する劇団ひとりさん。大河ドラマは元長州藩士で日本国初代総理大臣となった伊藤博文を演じた2015年「花燃ゆ」以来3年ぶり2作目の登場となります。
実をいえばこの劇団ひとりさんのお父さんは高知県出身であり、その祖父(ひとりさんの曾祖父、つまりひいお爺さん)は高知市長も務められた名士なのだそうですが、今回一人さんが演じるこの謎の漂流者も高知県にゆかりのある人物なのだそうです。
さらに日本航空のパイロットだった父親の影響で、小学校二年から五年までアメリカのアラスカ州に住んでいたという帰国子女のひとりさんですが、やはりこの謎の漂流者もアメリカと大きな関係のある人物だという事です。
高知県と関連があり、アメリカとも関係があり、異国の服を着て流れ着いた日本人・・。歴史に詳しい方なら既にピンときた方も多いのではないでしょうか。まだNHKさんから正解はいただいていませんが(苦笑)、わたしの推理でほぼ間違いないと思います。そう、この人物は100%間違いなく・・
「ジョン万次郎(中浜万次郎)」
でしょう。
というわけで、ここからはこの劇団ひとり演じる謎の漂流者がジョン万次郎であるという前提で(笑)、万次郎についてご紹介していきます。
ジョン万次郎(中浜万次郎/なかはままんじろう)の生涯・略歴
文政十年一月一日(1827年1月27日)、土佐国中浜村の農業と漁業で生計を立てる半農半漁の家に二男として生まれた。
幼くして父を亡くした万次郎は、病弱な兄に代わって一家の生計を支えるために学問を習うことなく働いたという。寺子屋で手習いをする事もなく育ったため、読み書きもほぼ出来なかった。
天保十二年(1841年)、14歳の頃、重助、五右衛門、伝蔵、寅右衛門という漁師仲間たちと漁に出ていた万次郎は嵐に遭遇して遭難し、5日半の漂流の後に全員が伊豆諸島にある鳥島という無人島に漂着し、そこで143日間無人島生活をする事となった。万次郎たちはたまたま通りかかったアメリカの捕鯨船、ジョン・ハラウンド号に救助されるが、日本は鎖国中だったためにハラウンド号船長のホイットフィールドはこの日本人漁師たちを寄港先のハワイで降ろして出発。しかし万次郎だけはホイットフィールド船長にその聡明さを気に入られて万次郎自身の希望もあって船に残り、一緒に航海に出た。
ジョン・ハラウンド号で航海に出た万次郎は「ジョン・マン」という愛称で船長や船員に可愛がられ、アメリカ本土に到着後はホイットフィールド船長の養子となって同居しながら天保十五年(1843年)にはオックスフォード学校に入学、弘化元年(1844年)にはパレット・アカデミーに進学して英語や数学、さらには造船技術や測量術、航海術等を学び、日本人の身ながら首席となって卒業を果たした。
学校卒業後は捕鯨船副船長となって近代捕鯨の道を選んだが、嘉永三年(1850年)に日本への帰国を決意。日本への旅費を稼ぐためにゴールドラッシュで沸いていたサンフランシスコに行って金鉱で金を掘り、約600$を稼いだ万次郎はそのままハワイのホノルルへ行って、重助、五右衛門、伝蔵、寅右衛門と再会。日本に乗り付けるための小舟を購入して「アドベンチャー号」と名付けた。同年12月に万次郎たちは「アドベンチャー号」とともに上海行きの商船に乗り込み、日本へ出発した。
嘉永四年(1851年)に日本近海に着いた万次郎たちは、アドベンチャー号に乗り込んで当時は薩摩藩の支配下にあった琉球上陸を図った。鎖国体制下の日本に非正規ルートで入った万次郎たちは直ちに琉球から薩摩国(鹿児島県)へと護送されて取り調べを受けたが、当時薩摩藩藩主になったばかりの島津斉彬は万次郎たちを手厚くもてなした。開明派大名として西洋文化に造詣の深かった斉彬は万次郎に自ら海外情勢やアメリカ文化について聞き、アメリカ本土で航海術や造船技術を取得した万次郎の技術を藩の船大工や藩士に伝授してもらった。その知識を基にして薩摩藩は越通船(おっとせん)と呼ばれる和洋折衷の小型木造帆船「雲行丸(うんこうまる)」の建造に成功する事となる。
薩摩藩滞在後、万次郎たちは長崎へ移送されて長崎奉行所で長期間にわたる詮議を受けた後、故郷である土佐藩から身柄引き渡しのために役人が来て高知城で家老である吉田東洋直々の取り調べを受けた後に開放され、万次郎は故郷へと帰郷した。漂流から約11年、琉球への帰国からおよそ1年半後の事であった。
帰郷した万次郎に対して土佐藩は万次郎を武士の身分として土佐藩校「教授館」の教授とし、生徒であった後藤象二郎や岩崎弥太郎らに教鞭を揮った。
嘉永六年(1853年)、万次郎は幕府に召喚されて直参旗本の身分を与えられ、軍艦教授所の教授となる。同時に旗本となった万次郎は名を「中浜万次郎」と名乗った。幕府役人となった万次郎は造船技術や航海術、測量や翻訳等語学力の知識を如何なく発揮して幕府の大きな力となった。
万延元年(1860年)には船長の勝海舟率いる咸臨丸に福沢諭吉らとともに乗り込んで万延元年遣米使節団としてアメリカに渡り、翌文久元年(1861年)には幕府の小笠原諸島の開拓調査団に同行、慶応二年には土佐藩開成館教授に就任し、翌年には薩摩藩からも招かれて教鞭をとった。
維新後の明治二年(1869年)には東京大学の前身である開成学校の英語教授に任命された。
明治三年(1870年)には普仏戦争視察団として渡欧し、帰国途中にはアメリカで養父となってくれた大恩人・ホイットフィールドと再会することが出来た。その後はハワイにも立ち寄って知人たちと旧交を温めた。
帰国後に脳卒中を患ったが、幸い軽症であり日常生活には不自由ない程に回復したがこれを機に要職を退いて静かな暮らしを送った。明治三十一年(1898年)に死去。享年72。
島津斉彬、吉田東洋、阿部正弘、人に恵まれた天からの使者(?)、ジョン万次郎
凄い人生ですよね。漁の最中に遭難してアメリカ船に拾われてアメリカに渡って独学で英語を覚えて大学を首席で卒業、ゴールドラッシュに沸くアメリカで一山当てて帰国し、幕府や雄藩からの要職を歴任し、土佐の漁民の身分から幕府の直参旗本にまで取り上げられた、まさにアメリカンドリームというか、ジャパニーズドリームですよね。全く英語が分からない異文化の世界の中で昇り詰めていったその苦難たるや筆舌に尽くしがたいものだったことは想像に難くありません。
日米和親条約の締結に幕府の一員として尽力し、通訳として英語教師として、さらには航海術や測量、造船技術に至るまで、万次郎が幕末から明治初期にかけての日本に与えた影響は一言で言い表せない程莫大で貴重なものでした。
それにしても、この万次郎が帰国した時の薩摩藩主が島津斉彬だったことは万次郎にとっても日本にとっても幸運だったといわざるを得ません。西洋文化に明るく、いち早く日本の西洋化の必要性を唱えていたこの名君だったからこそ、万次郎たちは厚遇されたのでしょう。土佐藩で取り調べをした吉田東洋も同じく西洋化の必要性を説いていた名士ですし、日米和親条約締結時の幕府老中首座が同じく開明派の阿部正弘だったというのもまた万次郎にとっては幸いしたと思いますね。彼らの存在無ければ、ジョン万次郎という人物がここまで取り上げられていたかは疑問です。時の権力者達に恵まれたというのは間違いないでしょう。
とはいえ、250年にわたって続いてきた鎖国体制がまさに崩れようとしていたこの時期に、ジョン万次郎という男が日本に帰ってきたというのはまさに歴史の必然といいますか、天が遣わした使者のようにも思えますね。歴史の大きな転換点に現れた救世主といってもいい存在だと思います。
「西郷どん」では劇団ひとりさんが演じる(であろう笑)、ジョン万次郎(中浜万次郎)。楽しみですよね。
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