わたしは根っからの日本人気質といいますか、どうしても歴史の勝者よりも敗者に肩入れしてしまう傾向にあります。いわゆる判官贔屓(ほうがんびいき)というやつですね。
日本史における合戦の中でも最大級の天下分け目の「関ヶ原の戦い」においても、やはり勝者である東軍の徳川家康よりも、敗れた西軍の石田三成たちの方が好きです。石田三成、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)、立花宗茂、上杉景勝、島津義弘、長曾我部盛親・・やはり西軍の方が魅力的ですね。滅びの美学という日本人の琴線に触れるというのも要因としては大きいのかもしれませんが。
そんな中、どうしても外せないのが西軍の主力であった備前・岡山の宇喜多秀家。三成や吉継らとともに命を懸けて豊臣家のために戦った戦国大名です。
今回は真田丸に関連する宇喜多家の人々をご紹介します。
宇喜多秀家(うきたひでいえ) 演:高橋和也
宇喜多秀家の略歴
戦国時代の備前・岡山城を居城とする大名であり、豊臣五大老の一人。通称は八郎。官位は従三位・左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)、権中納言など。
元亀三年(1572年)、備前の戦国大名・宇喜多直家の次男として岡山城にて生まれる。母は直家の側室・円融院。
秀家がわずか十歳であった天正九年(1581年)に父の直家が病没。宇喜多家が従属していた織田信長は幼少であった八郎に家督を継がせ、宇喜多家存続を認めた。幼少であった八郎の補佐は、直家の弟であり、八郎の叔父にあたる宇喜多忠家が行った。
織田信長が本能寺で横死すると、信長の後を継いだ豊臣秀吉は秀家を備前・備中・美作にまたがる大大名へと抜擢する。この異例の大抜擢には、早くから秀吉に恭順を示していた宇喜多家に、西国一の勢力を誇る隣国・毛利家の抑えを命じるという側面もあった。
元服した八郎は、主君に当たる天下人・秀吉から「秀」の一文字を与えられて秀家と名乗った。さらに秀吉は、後に豊臣五大老として肩を並べる事となる豊臣家の重鎮・前田利家の娘である豪姫を自分の養女としてから秀家に嫁がせた。これによって秀家は豊臣親族衆並みの待遇を受ける事となるのである。
その後は徳川家康との「小牧・長久手の戦い」、秀吉による天下統一事業である「四国征伐」、「九州征伐」、「小田原征伐」にもことごとく参加。それぞれに抜群の働きを見せて秀吉の信頼を勝ち取った。
秀吉による大陸出兵、「文禄・慶長の役」にも参戦し、大陸に渡る。役では普州城や南原城の攻略に大きく貢献するなど主力として働き、慶長の役後にはその戦果を認められて豊臣家五大老に任ぜられる。
慶長三年(1598年)には秀家の最大の理解者であった豊臣秀吉が死去。翌年には五大老であり、岳父でもある前田利家も死去。同年には「宇喜多騒動」という、宇喜多家家臣の内紛に端を発するお家騒動が起きる。この調停に失敗した秀家は結果的に多くの有能な家臣を失う事となった。
慶長五年(1600年)には徳川家康による上杉景勝征伐が勃発。家康が会津へと軍を進めると、西では石田三成が家康打倒を掲げて挙兵。秀家はいち早く三成率いる西軍への参加を決め、全国の大名に味方するよう檄文を送る。秀家は総大将・毛利輝元に次ぐ西軍の副将となった。
関ヶ原の戦いにおいては西軍の中で最大となる1万7千の大軍で参加。家康との密約によって日和見を決める西軍武将が多い中、石田三成や大谷吉継、小西行長隊らとともに獅子奮迅の働きで東軍主力部隊の福島正則隊と激戦を繰り広げる。しかし松尾山に陣取っていた小早川秀秋軍が寝返り、西軍を襲うと戦況は一変。西軍では次々と裏切る大名が相次ぎ、一気に西軍は総崩れとなり、宇喜多隊も壊滅。秀家はなんとか戦場を離脱する。
戦場を離脱した秀家は近江国の伊吹山に逃げ込むが、そこで西軍の落ち武者狩りをしていた地元の武士・矢野五右衛門と遭遇。絶体絶命の危機の中での秀家の態度に感服した五右衛門は秀家を匿う事となる。約40日もの間五右衛門の家に匿われた秀家は、大坂・前田家の屋敷にいる妻・豪姫を頼って大坂へ赴き、豪と再会。その後、西軍としてともに戦った薩摩の島津義弘を頼って薩摩へと落ち延びて匿われる事となった。
しかし西軍の中心として戦った秀家の徳川家による探索は手が緩められる事は無く、島津家が秀家を匿っているとの噂が次第に広まっていく。そして関ヶ原の戦いから三年が経とうという慶長八年(1603年)、ついに島津家から徳川家に身柄を引き渡す事となった。身柄引き渡しに関しては、島津家、さらに豪姫の実家である前田家から秀家の助命嘆願があり、その結果秀家は死罪を免れ、八丈島へ島流しという事となった。
八丈島に流された秀家は、姓を浮田と変え、ともに流刑となった長男や次男と暮らした。
時は流れて時代は徳川第四代将軍・徳川家綱の時代。明暦元年(1655年)、秀家は八丈島で死去。享年84。関ヶ原の戦いに参加した東軍・西軍の大名の中で最後まで生き残った一人であった。
宇喜多秀家の私的考察
最初に書きましたが、個人的に大好きな武将です。石田三成の最期(斬首)、大谷吉継の最期(自害)とはまた違った最期を迎えた人物ですね。西軍の主力三名のこの三者三様の顛末は、これまた西軍に肩入れする人が多い一因になっているとも言えるかもしれません。
八丈島で約五十年過ごしたんですね、宇喜多秀家は。今と違って飛行機や連絡船など無い時代です。これがどれ程過酷なものであったかは想像を絶するほどでしょう。しかしそんな過酷な状況で秀家は生き延び、そして息子たちは現地で妻を娶り、子を産んで宇喜多家(浮田家)は現在まで血脈を保ち、家系を残しているのです。凄い事ですよね。
この宇喜多秀家ですが、成人男性の平均身長が150㎝台であったと言われているこの時代には珍しく170㎝の長身で、顔もかなりの美形だったと伝えられています。これは恐らく母譲りだったのではないでしょうか。というのも、秀家の母・円融院はかなりの美人だったらしく、夫である宇喜多直家が死去した後は羽柴秀吉の側室となったという説もあるくらいです(側室説には諸説あり)。側室かどうかはともかくとして、円融院が大の女好きであった秀吉のお気に入りであった事は間違いなく、秀家が秀吉に一際目を懸けられたのもそんな背景が指摘されています。
そしてそれほどまでに自分を引き立ててくれた豊臣家のために秀家は命を懸けて戦います。裏切り、日和見、保身、そして妬みや憎悪と、関ヶ原の戦いはある意味人間の嫌な部分がさらけ出された戦いでもありました。そんな中、愚直に豊臣家のために戦った三成や吉継、そして秀家はだからこそ光り輝いていると思うのです。恐らく関ヶ原の折にうまく立ち回って家名を繁栄させた大名たちの中には、恩義を貫いて没落した彼らを嘲笑う人間もいたでしょう。しかし関ヶ原で負けた彼らの方が400年以上たった今、そんな一時の勝ち組たちよりも強く激しく光り輝いて多くの人の胸に残っています。
宇喜多秀家は、歴史的には真の勝ち組であったとわたしは思います。
宇喜多秀家を演じるのは高橋和也さん
豊臣家のために戦った宇喜多秀家を演じるのは、私生活では六人のお子さんの良きパパでもある高橋和也さん。大河ドラマは2000年の「葵徳川三代」、2007年の「風林火山」に次いで9年ぶり3作目の登場となります。個人的には「風林火山」で演じた武田四名臣の一人、馬場信春(教来石景政)役が印象的でした。あぁ、いい役者さんになったなあ・・としみじみ思いましたね。
というのもこの高橋和也さん、わたし世代にとってはジャニーズ事務所の音楽ユニット、「男闘呼組(おとこぐみ)」のメンバーとしてのイメージがずっと強かったからです。ちなみに高橋さんはベースを担当していました。男闘呼組解散後はジャニーズ事務所を離れ、音楽活動を続けながら俳優も並行して地道に活動を続けて来ました。そして現在では貴重なバイプレーヤーとしてドラマ、映画に欠かせない俳優となっています。声優としても活動しており、そのマルチな才能には驚かされますね。
ところで、男闘呼組をリアルタイムで体験していた人たちにはもう一つ嬉しいサプライズが真田丸で用意されています。
なんと、元男闘呼組メンバーでギターを担当していた岡本健一さんも真田丸に出演するのです。これはもうファンには感涙ものですよね。ちなみに岡本さんの役どころは大坂の陣で真田信繁たちとともに徳川と戦う事となる武将・毛利勝永。宇喜多秀家と直接の共演シーンは無いかもしれませんが、それでも嬉しいですね。
今や貴重な時代劇で映える俳優・高橋和也さん。信繁や三成、吉継らとのシーンが楽しみでなりませんね。
明石全登(あかしてるずみ・あかしたけのり) 演:小林顕作
明石全登の略歴
生年は不詳。一説には永禄十二年(1569年)前後だという説がある。切支丹(キリシタン)として有名な武将。別称は明石掃部(あかしかもん)。読みはあかしてるずみ、あかしたけのりなど諸説あり。
明石全登は、備前を治める戦国大名・浦上氏の家臣である備前保木城主・明石景親の子として生まれた。
父・景親の仕える浦上氏が家臣の宇喜多直家によって滅ぼされると、明石氏は宇喜多家に仕える事となる。父・景親の後を継いだ全登は、秀家の代に大俣城主となるなど、宇喜多家の家臣として順調に地位を築いていった。
慶長四年(1599年)の「宇喜多騒動」で宇喜多家の主だった家臣が一斉に離反し宇喜多家は危機に陥ったが、新たに宇喜多家家宰(家を取り仕切る実務のトップ)となった明石全登が何とか宇喜多家を立て直したという。この騒動によって、名実ともに全登は宇喜多家の№2の地位を不動のものとする事となった。
慶長五年(1600年)に起こった「関ヶ原の戦い」においては、主君・秀家とともに宇喜多軍1万7千を率いて西軍として参加。伏見城を攻略した後の関が原本戦では、秀家と同じく豊臣秀吉恩顧の大名である福島正則隊と激突。一進一退の攻防を繰り広げるが、小早川秀秋の裏切りによって西軍は壊滅状態に陥る。敵陣に討って出ての討ち死にを主張した主君・秀家を全登は何とか押しとどめ、戦場を離脱させたと言われている。
秀家と離れ離れになりながら何とか殿を務めて関ヶ原から逃れた全登であったが、既に宇喜多家の本城である岡山城は敵の手に落ちており、全登と同じキリシタンである大名・黒田官兵衛孝高の元で匿われたと言われている。官兵衛死後にキリシタンを廃した黒田長政の政策によって全登は黒田家を去り、全国を放浪したと言われている(諸説あり)。
慶長十九年(1614年)に徳川と豊臣の決裂が決定的となると、大坂城に入城。大坂の陣では大坂方の主力として道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いなどに参戦。数に劣る中で相手方を混乱に陥れるなど大いに戦果を挙げるが、味方が壊滅状態の中、敵軍を突破して戦場を離脱。その後の消息は生死不明となる。
全登の消息については諸説あり、戦死したという説やキリシタンに匿われて隠棲したという説、さらには日本を脱出して海外に渡ったという説まであるが、どれも確証はない。ただ一つはっきりと言えるのは、敬虔なキリシタンであった明石全登が自害して果てたという事は考えられないという事だけである。
明石全登の私的考察、演じるは小林顕作さん
戦国時代にキリシタン大名は数多くあれど、その中でもかなり有名なキリシタンであるのがこの明石全登です。全登の旗印は久留子(くるす)。久留子とは、英語の「クロス」を日本語に置き換えたものと言われています。そう、「十字架」です。白地の旗に、花模様が十字になっているものを旗印として使用していました。これだけでいかに敬虔なキリシタンであったかわかろうというものですね。他にもキリスト教の宣教師を自宅に住まわせるなど、全登が熱心なキリシタンであった逸話は数多く残されています。
だからこそ、関ヶ原でも大坂の陣でも自決しなかったのです(キリシタンは自害を固く禁じられていたため)。そしてだからこそ、全登の生存説が根強く現在まで語り継がれているとも言えます。
大坂の陣で大坂城に集まった武将達には非常に個性豊かな面々が多いのですが、この明石全登も非常に個性的な武将であり、現在でも高い人気を誇る武将でもあります。この真田丸を機に今まで以上に全登の人気が高まるのではないでしょうか。
切支丹武将・明石全登を真田丸で演じるのは、小林顕作(こばやしけんさく)さん。大河ドラマは初出演となります。舞台を中心とした俳優さんですが、他にも声優、脚本家、演出家、そして音楽、ダンスと様々な活動でマルチな才能を発揮している方です。
さてこの小林さん。小学生未満の子どもさんをお持ちのお父さん、お母さんは見た事ある人多いんじゃないかと思います。ちなみにわたしは毎日のようにテレビで見ていました。子どもが見ていたので(苦笑)。
何を隠そう、小林顕作さんはNHK教育テレビで毎朝8時から放送中の子供向け番組「みいつけた!」にレギュラー出演しているのです。「呼んだ?呼んだよね?」でお馴染みの「オフロスキー」だったのです。
いやあ、一気に親近感が沸いてしまいませんか?わたしは沸いてしまいましたよ(笑)。しかし、失礼ながらわたしは俳優としてドラマでの小林顕作さんを見るのは実はこの「真田丸」が初めてなのです(汗)。だからこそ非常に楽しみです。義に生きたキリシタン武将・明石全登をあの「オフロスキー」小林さんがどう演じてくれるのか。お父さんお母さん必見ですよ(笑)。
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