「真田丸」で大きく真田家に関わるであろう越後の大名・上杉景勝。
真田信繁(幸村)にとっても大恩人と言っていいこの戦国大名は、ご存知あの軍神・上杉謙信の後継者であります。あまりにも偉大過ぎる父・謙信と、有能な参謀である直江兼続の影に隠れがちなこの上杉景勝ですが、彼の持つ「義」の心は父である謙信にも負けない強烈なものがあります。彼の生きざまはまさに「義」のために生きた人生であり、「義」を貫いた男であったと言ってもいいでしょう。
弱気を助け、強きをくじく。昔から日本人のアイデンディティといってもいいこの言葉は、今や日本の現代人の多くが忘れてしまっているものかもしれません。
しかしこの日本人の美徳を体現していたのが上杉謙信であり、景勝であったといってもいいでしょう。
上杉弾正少弼景勝(うえすぎだんじょうしょうひつかげかつ)の生涯
うえすぎかげかつ。弘治元年(1555年)、越後に生まれる。父は上田長尾家当主・長尾政景、母は上杉謙信の姉・仙桃院。上杉謙信は叔父にあたる。
永禄七年(1564年)に父・政景が溺死したのを機に実子がいなかった叔父・上杉謙信の養子となる。天正三年(1574年)に名を長尾顕景(あきかげ)から上杉景勝へと改め、従五位下・弾正小弼(だんじょうしょうひつ)の官位を任官する。
織田信長と北陸で激戦を繰り広げていた天正六年(1578年)、義父・上杉謙信が急死。謙信が後継者を定めぬまま死去した事によって、景勝と北条家から謙信の養子に入った上杉景虎との上杉家の家督争い、「御館の乱(おたてのらん)」が勃発する。
当初、春日山城を抑えた景勝がこの戦いを有利に進めるが、景虎の実家である北条家と同盟を結ぶ甲斐の武田勝頼がこの乱に介入し、景勝は一転窮地に陥る事となる。しかし景勝は上野国の一部領土の武田家への引き渡しと金を贈る事を条件に武田家と和睦を結ぶことに成功。さらに勝頼の妹、菊姫を景勝の正室に迎え、武田家と同盟を結ぶ。これで再度戦局は逆転し、天正七年(1579年)に追い詰められた景虎は自刃。越後国衆も勢力下に加えた景勝は乱を制し、上杉家当主となる。
天正九年(1581年)には織田家の北陸軍総大将・柴田勝家が上杉領である北陸越中国に進軍してくる。家臣・新発田重家の裏切りもあり、上杉軍は劣勢を余儀なくされる。そんな中、翌年天正十年(1582年)には同盟を結んで織田家に対抗していた武田家が滅亡。南からの援護を失った上杉に対し、織田軍は5万の大軍で越中の上杉家の要衝である魚津城を陥落させ(魚津城の戦い)、越中は完全に織田家のものとなる。
上杉家の本拠地・越後に迫る織田軍の脅威の前に風前の灯火であった景勝の命運は、6月2日に起こった「本能寺の変」によって一変する。織田信長の死によって織田家は混乱し北陸討伐は中止される。
信長の死によって空白地帯となった信濃を巡る「天正壬午の乱」においては、北信濃の所領を巡って関東の北条氏直と争い、北信濃4郡を領土として獲得する。その後は織田信長に代わって台頭する豊臣秀吉と友好関係を結び、秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」、秀吉と徳川家康が争った「小牧長久手の戦い」、さらに秀吉と佐々成政が争った「富山の役」、全てにおいて秀吉の側について秀吉を助けた。天正十三年(1585年)には上野国の領地を巡って徳川家康と敵対していた信濃の真田昌幸を臣下に迎えている。
秀吉に謁見し正式に豊臣家の家臣となった景勝は、謀反を起こし対立していた新発田重家を滅ぼすなどして再び越後を統一し、さらに佐渡、信濃と出羽の一部も切り取り、90万石という広大な領土を持つ大大名となる。
文禄四年(1597年)、豊臣政権の五大老の一人である小早川隆景が死去すると、景勝は五大老に任ぜられる。翌年には会津120万石に加増・移封を受ける。これは関東の徳川家康、出羽の最上義光、陸奥の伊達政宗という大勢力を抑える役目もあったと言われ、それだけ秀吉が景勝を信頼していたことが伺える。しかし同年、その秀吉が死去。城の補修など、領内整備を行っていた景勝に対し、五大老の一人、徳川家康は無断の軍備拡張による豊臣家への謀反を疑い、上洛して弁明するよう景勝に促す。しかし、景勝はこれを拒否。徳川家康は景勝討伐の軍を起こす。
しかし上杉軍討伐のため東上中の家康に対し、家康と対立していた石田三成が家康討伐のため挙兵する。これを知った家康は上杉討伐軍を石田三成討伐のために反転、西上する。上杉軍は家康についた最上軍、伊達軍と戦う(慶長出羽合戦)。しかし、家康と三成が戦った「関ヶ原の戦い」で三成率いる西軍が敗北。これを受けて景勝は家康に降伏し、上洛する事で許されるが、120万石から30万石へと大減封される事となる。
わずか4分の1となる減封によって藩の財政が困窮しても、景勝は家臣を減らす事をせず雇い続け、また家臣たちも苦しい状況でも上杉家を離れる事はなかったという。
その後は徳川家の大名として大坂の陣に出陣し、元和九年(1623年)、居城である米沢城で死去。享年69。
徳川家康に立ち向かった笑わない男、硬骨漢・上杉景勝
史実によると、この上杉景勝という人はほとんど笑う事が無かったといいます。唯一家臣たちの前で笑ったのは、飼っていた猿が自分のモノマネをした時だけと言われています。
常に眉間にしわを寄せ、鋭い形相を崩す事がなく、家臣は景勝の前では常に身を引き締められていたと伝えられています。「花の慶次」で有名な傾き者・前田慶次郎でさえ、この上杉景勝には無礼な行いをしなかったと言われています。と同時に、その慶次をして「我が主君は上杉景勝以外になし」と言わせるほどであったと言われています。それだけでもどれほどの人物であったかうかがい知れますね。
さらに関ヶ原の戦い前に、秀吉死後の最大の権力者・徳川家康に謀反の嫌疑をかけられた時にも、秀吉に息子秀頼の行く末を頼まれておきながら、秀吉が死んだ途端に秀吉の遺言に背いて露骨に天下取りに邁進し始めた家康に決して従おうとはしませんでした。それはまさに自分を120万石もの大名へと押し上げてくれた秀吉に対する「義」であり、「義」に背く家康を許せないという景勝の「義」であったとも言えます。
思えば、義父・謙信も私利私欲のために戦をした事がありませんでした。しかし、「義」に背く者に対しては容赦しませんでしたね。武田信玄と戦った「川中島の戦い」も、元はと言えば信玄によって領土を奪われて謙信の下に逃げてきた村上義清の領土を奪い返すための戦いでした。謙信には全く利がない戦だったのです。
こんな父・謙信の思想は見事に子・景勝にも受け継がれていました。
というより、景勝は偉大なる父を超えるという事こそが人生の命題だったともいえるのではないでしょうか。家康に取り入り、うまく立ち回って景勝以上に出世した大名たちはいくらでもいます。しかし、彼が貫いた「義」はそんな大名たちよりも現在では強烈に光り輝く事となったのです。
信繁の人質時代や昌幸の離反や臣従など真田家との深い関係
上杉景勝は真田家を語るうえで欠かす事の出来ない人物です。
徳川家康の理不尽な沼田城明け渡し要求に対して、徳川との戦を決意した昌幸は後顧の憂いを絶つべく、間接的に敵対関係にあった上杉景勝に助けを求めます。この申し出に対し、景勝は真田家を庇護する事を決断します。昌幸は次男・信繁を人質として差し出し、徳川と決戦を挑むのです。これが有名な「第一次上田合戦」です。昌幸は徳川を散々に打ち破り、名を上げましたが、それも景勝の後ろ盾があればこそなのです。
そしてこの上杉家での人質時代の信繁は非常に手厚くもてなされたと言います。学問や兵法も学ばせてもらい、後の名将の基礎を学んだとも言われています。
さらに関ヶ原でも昌幸・信繁とともに西軍として家康と戦いました。景勝は東軍の強敵・伊達政宗と最上義光、昌幸は徳川秀忠率いる東軍主力部隊と死闘を繰り広げました。西軍が関ヶ原で負けたために降伏しましたが、局地戦では両軍とも西軍の意地を天下に示したのです。大坂の陣で景勝は徳川方として出陣しましたが、若き日に越後でともに暮らした信繁が家康を追い詰め、「日本一の兵(つわもの)」として敵味方から称賛を浴びたのをどのように見ていたのでしょう。恐らく、誇らしくもあり、うらやましくもあったのではないでしょうか。景勝も心の中では称賛を送っていたに違いないと個人的には思っています。
ちなみに、30年前に放送された池波正太郎原作のNHKドラマ「真田太平記」にも上杉景勝が出て来ますが、この上杉景勝がカッコよすぎるのです。
劇団民藝のベテラン俳優・伊藤孝雄さんが演じていらっしゃるのですが、見た事の無い人には是非視聴する事をおススメします。惚れてしまうこと間違いないです(笑)。ちなみにわたしの景勝好きは多分にこの作品の影響下にありますのであしからず(苦笑)。
「民王」「湯けむりスナイパー」等で人気の遠藤憲一で新しい景勝像を
上杉景勝と言えば、若い人なら2009年の大河ドラマ「天地人」のイメージが強いのではないでしょうか。わたしは1年間視聴しましたが、どうにもあの作品の景勝はしっくりきませんでした。直江兼続が主人公なので仕方ない部分もあるのですが、どう見ても景勝が凡将にしか見えなかったのです。兼続上げ、景勝下げ、って感じですかね(涙)。
確かに景勝は父・謙信に比べれば見劣りしてしまいます。しかし、決して凡庸な男ではありません。その一本気な生き方ゆえに実力通りの地位を得られなかったとも言えます。謙信の影と戦いながら戦国の世を生き抜いていく、そんな苦悩もこの「真田丸」では描いてほしいですね。
そんな上杉景勝を演じるのは、今や売れっ子俳優の「エンケン」こと遠藤憲一。大河ドラマは2012年「平清盛」以来、4年ぶり6作目。
うーん、イメージピッタリじゃありませんか、エンケン景勝。滅多に笑わない強面の硬骨漢(笑)。最近は「民王」を始めとしてコメディが多い遠藤憲一さんですが、もともとは硬派な役どころが多い役者さんですからね。
硬派で武骨な部分とともに遠藤さんの持つコミカルな演技もプラスして、新たな上杉景勝像を作って欲しいですね。
最後、大坂の陣で景勝と信繁が再開するシーンは果たしてあるのでしょうか。もしあったなら泣いてしまうだろうな、間違いなく・・
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