千利休(千宗易) 演:桂文枝
せんのりきゅう。または千宗易(せんのそうえき)。元の名は田中与四郎、興四郎。安土桃山時代を代表する大茶人である。
大永二年(1522年)、大坂・堺の倉庫業「魚屋(ととや)」の田中与兵衛を父として生まれる。
若年の頃に同じく堺の商人であり大茶人でもあった武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子となり、紹鴎の革新的な茶道に大きな影響を受ける。後の利休の侘茶(わびちゃ)は紹鴎の影響が大きいと言われている。
足利義昭上洛に伴って上洛し、堺を直轄地とした織田信長に接近し、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)とともに信長の茶頭に取り立てられる。なおこの三名は茶湯の天下三宗匠とも呼ばれている。
本能寺の変で信長が討たれ、後に信長にとって代わった豊臣秀吉にも重用される事となる。ただ茶の湯のみだけでなく、政(まつりごと)や人事などの豊臣家の内部の事まで利休に相談していたともいわれているほどに利休は豊臣政権内での秀吉の相談役的立場であったという。
秀吉に仕えてからも千宗易と名乗っていた利休の身分は町人のままであったが、宮中での茶会に参加するために朝廷より居士(こじ)の号を与えられ、千利休と名乗るようになった。天下人秀吉の元で、有名な黄金の茶室の造営に関わったり、大茶会を催すなど秀吉好みの活動の一方で、それらの派手な活動の対極であり、利休の代名詞ともいえる「侘茶」の完成も成し得る事となる。
秀吉の片腕ともいえる存在であった利休だが、天正十九年(1591年)、突如として秀吉より堺での蟄居謹慎を命じられる。利休七哲といわれるほどに有力大名にも大きな影響を及ぼしていたため、利休の助命嘆願のために豊臣家の有力大名たちが活動したが、秀吉の勘気は収まらず、京都・聚楽第(じゅらくだい)にて切腹を命じられて生涯を閉じた。享年70。
茶道のみに収まらず、当時の政道や外交にも大きな影響を及ぼした文化人・千利休。彼の残した茶の湯は400年以上を経た現在でも脈々と受け継がれています。
しかしその最期は壮絶なものでした。彼は最後まで武士ではありません。あくまで商人であり、居士(出家せずに仏道に入った者)であったのです。そんな彼は時の権力者・豊臣秀吉によって切腹させられてしまいました。しかも齢70です。人間50年と言われた時代の70歳といえば今の70歳とは全く違います。そんな人間が切腹させられたのです。
その利休の切腹ですが、なぜ秀吉の逆鱗に触れたのかは今なおハッキリとした理由が分かっていません。有力な説としては、大徳寺三門改修に際して自身の仏像を二階に作ってその足に下駄を履かせ、その真下を天下人である秀吉に通らせたというものがありますが、確証はありません。その他にも理由はいくつか挙げられていますが、全ては推測に過ぎません。どちらにしても戦国時代のミステリーのうちの一つと言われています。
そんな戦国時代の重要人物・千利休を演じるのが上方お笑い界の大御所・桂文枝。大河ドラマは初登場です。
もう説明不要の上方落語・そして吉本興業の重鎮ですね。我々の世代にはやはり「桂三枝」の方がしっくりきますが(笑)。
文枝さんの家系は元々が武士の家系であり、祖父の代に起業して成功した裕福な家庭であったようですが、母と一緒にその家を出て若い頃は苦労したそうです。歴史好きで特に幕末の土佐藩士・坂本龍馬のファンだという文枝さん。ネイティブな大阪弁とその特異なキャラクターで新たな利休像を作り上げてほしいですね。
細川ガラシャ(明智玉) 演:橋本マナミ
明智珠(玉とも)、細川ガラシャ。肥後細川家初段藩主・細川忠興の正室であり、二代目藩主・細川忠利の母。
永禄六年(1563年)、当時足利将軍家に仕えていたとされる明智光秀とその妻である煕子(ひろこ)の間に越前(現在の福井県)にて生まれる。
天正六年(1578年)に足利将軍家の重臣・細川幽斎(細川藤孝)の嫡男・細川忠興に正室として嫁ぐ。
天正十年(1582年)に実の父である明智光秀が主君・織田信長に反旗を翻し、本能寺にて信長を討つ(本能寺の変)。逆賊の娘となった玉は、夫・忠興によって幽閉されてしまうが、信長の跡目争いに勝って実質上の天下人となった羽柴秀吉によって罪を許され、細川家に戻る事となった。
キリシタン大名として有名な高山右近重友の影響を受けてキリスト教に惹かれていった玉であったが、そんなさ中、豊臣秀吉によって伴天連追放令(バテレン追放令)が発布される。玉は自宅で洗礼を受け、洗礼名「ガラシャ(ネイティブな発音ではグラツィア)」と名乗るようになった。
しかし豊臣家臣である夫・細川忠興にはこのことは伏せられていた。
夫である忠興にキリシタンである事を告げたのは、洗礼から約8年後の1595年(文禄四年)頃と言われている。
慶長五年(1600年)に、徳川家康による会津征伐が勃発。夫である忠興は、徳川家康に従って会津へと向かう事となった。細川家の大坂屋敷に残ったガラシャであったが、家康が会津に立った後、石田三成が家康討伐の兵を起こす。これに際して三成は、家康に付き従っていた大名たちの屋敷に残っている親族を人質に取るという作戦に出た。
細川屋敷も三成の軍勢に囲まれたが、ガラシャは屋敷にいた女性たちを全て外に逃がした後、家老に命じて自分の命を絶たせた。キリシタンであったが故に自刃を避けたといわれている。享年38。
戦国時代でも有名な細川ガラシャ。波乱万丈の人生を送った悲劇のキリシタン女性ですね。
最期は夫の足かせになるよりも死を選んだという、良妻の鏡として現在でも人気のある細川ガラシャ。実際にこのガラシャの死は、西軍に味方するどころか、家康の元にいた東軍大名たちの士気を大いに高めたといわれています。
「死せる孔明生ける仲達を走らす」という中国三国志の故事ではないですが、細川ガラシャは死する事によって東軍を勝利に導いた女神ともいえるのかもしれません。
本能寺の変、そして関ヶ原の戦いという、戦国時代屈指の大事件に奔走された非業の人生。そんな彼女ですが、キリスト教に出会う事によって人生が救われたのであれば、それがせめてもの救いなのかもしれません。
そんな強くも儚い女性・細川ガラシャを演じるのは、「日本一の愛人女優(?)」、橋本マナミさん。大河ドラマは2003年の「武蔵 MUSASHI」以来13年ぶり2度目の出演。武蔵の時は、大坂の陣に翻弄された悲劇の女性・千姫役でしたね。
実は橋本マナミさんの本名は細川愛実(ほそかわまなみ)と言います。そう、ガラシャと同じ細川姓なのです。これはもしや?と思ったのですが、肥後細川家とは残念ながら血縁は無さそうですね。
最近ではグラビアやバラエティなどでの活躍が目立つ橋本マナミさんですが、女優としてのキャリアも相当なものです。女優・橋本マナミがこの悲劇のキリシタン・細川ガラシャをどう演じるのか見ものですね。
福島正則(ふくしままさのり) 演:深水元基
ふくしままさのり。豊臣秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳七本槍の一人。幼名・市松。
永禄四年(1561年)に尾張の商人・福島正信の子として生まれる。母は後の天下人・豊臣秀吉の母・なか(大政所)の姉妹であり、秀吉とは母方の従兄弟にあたる。その縁で父とともに城持ち大名となった秀吉に仕える事となり、武士の世界へと入っていった。
羽柴秀吉と柴田勝家が織田家の跡目を巡って争った「賤ヶ岳の戦い」では敵陣に一番乗りを果たした上に敵将の首を取る活躍を見せ、加藤清正や片桐且元、加藤嘉明ら他の七本槍武将の中でも別格の働きを見せた。その功績によって5千石を与えられることとなった。ちなみに他の6人は3千石であった。
秀吉の大陸出兵である文禄の役では朝鮮に渡って諸将を率い、朝鮮水軍と戦うなどの活躍を見せた。
文禄四年(1594年)には故郷である尾張国の清州に二十四万石を与えられ、名実ともに豊臣家の大大名となった。
慶長三年(1598年)に秀吉が死去すると、正則や清正ら豊臣政権の武断派と、石田三成、小西行長らの文治派との対立が激化し、正則らは五奉行の石田三成襲撃事件を起こす。三成は討ち漏らした正則たちであったが、この件を仲裁した徳川家康との距離が急接近する事となる。
上杉景勝を討伐するために会津へ向かっていた家康に対して三成が挙兵した時、正則は家康軍に加わっており、動揺する各武将の中でいち早く家康側につくと明言した正則の態度によって多くの武将たちが家康に味方する事となったと言われている。
関ヶ原の戦いでは東軍主力として活躍。その功により、戦後は安芸広島49万8千石に加増移封された。
慶長十九年から二十年(1614年~1615年)の大坂の陣では豊臣家からの加勢要請を拒否。合戦には参加せず江戸に駐留する。
元和五年(1619年)には幕府に無断で城を改修したとして、広島49万8千石から信濃4万5千石へ大減封となる。
寛永元年(1624年)領国・信濃にて病死。享年64。なお、正則の死後すぐに残りの領地も全て幕府より没収されて大名としての福島家は断絶する事となった。
なんとも・・秀吉子飼いの武将の中では一番の出世頭であった福島正則という武将・・最期は哀れという他ないですね。彼をここまでの身分にした豊臣秀吉。その秀吉が一代で築いた豊臣家の命運が決まったのは関ヶ原で西軍が負けた時です。この時に少なくとも天下人としての豊臣家の命運は尽きました。そしてその関ヶ原の戦いでの福島正則は、黒田長政と並んで東軍勝利の一番の立役者でした。
因果応報という言葉が一番しっくりくるといったら正則には気の毒なのかもしれません。しかし結果的にはそうなってしまいました。三成憎しで家康に取り入って徳川政権でも屈指の大大名にまでなり、豊臣家の滅亡を見届けてから改易され、死後には全ての領地を取り上げられてしまいました。
勇猛な武将であったのは間違いありません。ただ彼に決定的に足りなかったもの、それは時代と人間を見通す目と義の心であったとわたしは思います。少々厳しいかもしれませんが、彼がその功績の割に歴史的評価が低いのは自業自得だと言わざるを得ません。
賤ヶ岳七本槍一番の出世頭である福島正則を演じるのは俳優・深水元基(ふかみもとき)さん。大河ドラマは初出演となりますね。モデルもしていただけあって187㎝の長身を誇ります。秀吉子飼いの中でも屈指の猛将と言われた正則役にはピッタリじゃありませんか。
福島正則という男をどんな風に演じるのか、三成や家康との関係も含めて今から楽しみですね。
平野長泰(ひらのながやす) 演:近藤芳正
ひらのながやす。賤ヶ岳七本槍の武将の一人。官位は従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)。
永禄二年(1559年)に尾張国に生まれる。同郷の羽柴秀吉に若き頃から仕えていたといわれている。
天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正や福島正則、片桐且元らとともに槍働きで戦功を立てて「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる。その功により3千石を賜った。
その後も数多の戦に出陣し、その後は大和国(現在の奈良県)に5千石を与えられた。
慶長五年(1600年)の石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍との戦い、「関ヶ原の戦い」では東軍に味方する。長泰は家康本隊とは別ルートである中山道を進軍した家康の嫡男・徳川秀忠隊に従軍していたために関ヶ原の本戦には参加していない。
慶長十九年(1614年)に勃発した大坂の陣では孤立無援の豊臣家につこうとするが、この動きを危険視した徳川幕府により、江戸駐留を余儀なくされてこれを断念。
寛永五年(1628年)に死去。享年70。
賤ヶ岳七本槍の一人、平野長泰。加藤清正や福島正則に比べると同じ七本槍でもかなり知名度は劣りますね。それもそのはずです、彼は賤ヶ岳七本槍の七人の中で唯一大名となれなかった武将なのです。
大名かそうでないかの基準は、石高が1万石以上あるかないかなのですが、長泰の場合は5千石止まりだったのです。他の六人がみるみる出世していったのと比べるといかにも不遇だったといえるのかもしれませんが、長泰の子孫は江戸時代から明治まで存続し、繁栄しました。
長泰が大名になれなかったのは、長泰のその一本気な性格が災いしたといわれています。終生豊臣秀吉から受けた恩を忘れずに、徳川の世となっても豊臣恩顧の立場を貫いたが故に大名にはなれなかったという事です。ちなみに平野長泰が関ヶ原の戦いで従軍していた徳川秀忠隊は、関ヶ原へ向かう途中で真田昌幸・信繁らが籠る上田城で「第二次上田合戦」を戦います。そういう意味でも真田丸での出番は多くなりそうな武将ですね。
平野長泰を演じるのは三谷幸喜作品の常連、近藤芳正さん。昨年には役者生活40年目で映画初主演を飾るなど、脇役の枠を超えた名優さんですね。大河ドラマは2014年の「軍師官兵衛」以来2年ぶり5作目の登場となります。
「軍師官兵衛」では平野長泰が一躍名を上げた「賤ヶ岳の戦い」で敵方の大将であった柴田勝家役でした。因縁ですよね(笑)。近藤さんの熱演で、賤ヶ岳七本槍の中でも知名度の低い平野長泰という人物にスポットライトが当たるのではないでしょうか。
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