真田丸キャスト 賤ヶ岳七本槍編 熊本城を築いた“虎退治”加藤清正と家康の策に嵌り大阪城を出た片桐且元

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真田六文銭 真田丸
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加藤清正(かとうきよまさ) 演:新井浩文

かとうきよまさ。別名・虎之助。

永禄五年(1562年)、尾張国にて生まれる。父は刀鍛冶を営んでいた加藤清忠。母は秀吉の母・なか(大政所)の親戚筋だと言われている。

大政所と親せきであった母のつながりで、織田家で頭角を現していた近江長浜城主・羽柴秀吉に仕えることとなる。下級身分出身故に譜代の家臣を持たなかった秀吉は親戚にあたる清正を一門衆として扱い、秀吉の出世に従って清正も頭角を現すようになってくる。

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本能寺の変後の柴田勝家と秀吉の織田家跡目争いであった「賤ヶ岳の戦い」では柴田家家臣・山路正国を討ち取り、賤ヶ岳七本槍の筆頭ともいえる活躍をし、知行3000石を秀吉より与えられた。天正十四年(1586年)の秀吉による九州平定により、肥後国に19万5千石を与えられ、熊本城を居城として肥後半国の統治を任される事となる。肥後のもう半分の統治を任された小西行長とは折り合いが悪かったと言われており、後の関ヶ原の戦いでは東西に分かれて戦う事となる。

文禄元年(1592年)の文禄の役、慶長二年(1597年)の慶長の役ではともに大陸出兵軍の主力として活躍したが、この朝鮮出兵が原因で石田三成や小西行長らとの不仲が浮き彫りになったと言われている。この戦いでの清正の危機迫る戦いぶりは、現地で「鬼上官」という言葉で呼ばれた事実からも窺い知る事が出来る。

慶長三年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に出兵していた清正は帰国。五大老の筆頭である徳川家康が秀吉の遺命に背いて諸大名との政略結婚等により勢力の拡大を図り始めると、清正や福島正則、黒田長政などの秀吉子飼いの武断派武将たちは家康に急接近。反家康の急先鋒である石田三成らとの対立は決定的となる。

清正や正則、長政らの反三成派の七将たちは石田三成を襲撃する事件を起こし、仲裁に入った家康の裁定によって三成は五奉行職を辞して蟄居謹慎、事実上失脚する。

慶長四年(1600年)に三成が家康打倒の挙兵をし、関ヶ原の戦いが起こる。清正は関ヶ原本戦には参加していなかったが、領国熊本にあって東軍に加勢。西軍に属していた小西行長や立花宗茂らの城を次々と落とし、家康側の九州での覇権拡大に大きく尽力した。この功績によって清正には戦後、小西行長が統治していた肥後国半国も与えられ、肥後52万石の太守となった。

その後は家康と豊臣秀頼の二条城での会見を取り持つなど、徳川幕府と豊臣家の融和に尽力するが、慶長十六年(1611年)、熊本にて死去。享年50。死因は梅毒、ハンセン病、毒殺説など様々ある。

 

虎退治の伝説、賤ヶ岳七本槍、そして戦国きっての築城の名手・・数々の異名を持つ加藤清正です。

清正は秀吉子飼いの武将の中でも石田三成とともに現在でも人気の武将です。ですが、個人的には関ヶ原で家康に味方した事が大きなマイナスポイントですね。徳川幕府になって以降は、豊臣家のために徳川とのパイプ役となったと言われていますが、だったら何で関ヶ原で西軍に味方しなかったんだよ?って思ってしまいますね。結果的に豊臣家は徳川家康によって滅ぼされ、清正の死後は加藤家も熊本52万石を召し上げられ、出羽1万石に改易とされてしまいました。清正が真に豊臣家のためを思って家康についたのならばあまりに先見の明がなさすぎですし、三成嫌いから家康の味方をしたのであれば、あまりにも了見が狭いと思ってしまいます。己の出世や加藤家の繁栄を見越して家康についたのであれば、それはそれでいいとは思います。

とまあ、三成が好きなわたしとしてはどうしても清正や正則らの関ヶ原での行動には納得がいかないのです(笑)。清正ファンの方には申し訳ございません。

そんな猛将・加藤清正を演じるのは新井浩文さん。大河ドラマは初登場となります。

近年は映画にドラマにCMにとブレイク中の俳優さんですね。個人的には北野武監督作品「アウトレイジ・ビヨンド」で桐谷健太とともに演じたチンピラ役が印象的でしたね。妻夫木聡と共演している「ロト7」のコマーシャルもいいですね。とにかく硬軟どちらの役も器用にこなせる俳優さんです。個人的にはコメディが好きですね。

今回は豊臣家の体育会系武将(笑)、加藤清正。新たな清正像を作ってくれそうですよね。

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片桐且元(かたぎりかつもと) 演:小林隆

かたぎりかつもと。通称・助作。

弘治二年(1556年)に近江国人の片桐直貞の嫡男として生まれる。浅井家滅亡後は、変わって近江国長浜城主となった羽柴秀吉に仕官し仕える事となる。加藤清正、福島正則らとともに賤ヶ岳七本槍と呼ばれた「賤ヶ岳の戦い」で名を上げ、摂津3千石の大名となる。その後は豊臣家家臣として検地などに活躍。文禄の役でも大陸に渡って前線部隊の後方支援役として黒子に徹していた。秀吉晩年期には大坂城番や秀頼の傅役等を務めた。

慶長四年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成らの西軍に属したが、戦後は大和国に加増移封を受ける。以降は豊臣家の直轄地の奉行を務めるようになるなど、行政手腕に長けていた武将であった。家康と秀頼の会見にも立ち会うなど、徳川幕府と豊臣家をつなぐパイプ役であったが、慶長十九年(1614年)には淀殿や大蔵卿局、豊臣方の武将達から家康への内通を疑われ、暗殺の危機にも陥るなどし、大坂城を退去する。

慶長二十年(1615年)、病により死去。享年60。死去した日は忠誠を誓った豊臣家が大坂夏の陣によって滅亡した僅か20日後であった。



大坂の陣を描いたドラマでは、大概の作品で気の毒な武将役№1の座に収まる事の多いのが、この片桐且元です。

この片桐且元、同じ賤ヶ岳七本槍で名を上げた加藤清正や福島正則と比べると非情に地味で人気もありませんが、よくよく見てみるとなかなか興味深い人物です。賤ヶ岳の戦いでの槍働きによって世に出たのですが、それ以降は戦よりも内政や外交に手腕を発揮します。官僚的な手腕に長けた、石田三成や小西行長タイプの武将と言ってもいいかもしれませんね。

性格も温厚で人望のあった人物であったであろうことは、関ヶ原以降に徳川からも豊臣からも厚遇されたことを見ても想像がつきます。豊臣秀頼や淀殿が秀吉子飼いの武将の中で最も頼ったのはこの且元だったと言ってもいいかもしれません。最後は家康の離間策にはまって豊臣家を出ざるを得なくなってしまうのですが、その顛末も且元の人生の悲哀をよく表していますね。

そんな悲運の中間管理職(笑)、片桐且元を演じるのが、三谷作品では欠かす事の出来ない小林隆さん。大河ドラマは2004年の「新選組!」2011年の「江~姫たちの戦国~」に続いて5年ぶり3作品目の登場となります。まあ、三谷ファンからしてみれば、「いよっ、源さん!!」って感じですかね(笑)。三谷作品は「古畑任三郎」や「竜馬におまかせ」、「振り返れば奴がいる」、「ステキな金縛り」、「オケピ」・・とにかく数え切れないほどの作品に出演しています。

今回も哀愁の小林隆を存分に堪能できそうな役が用意されてしまいました(笑)。天下人・家康と滅びゆく豊臣家の板挟みとなって懸命に豊臣家の存続に奔走する悲運の名将且元に再びスポットライトが当たるのは間違いないでしょう。小林さんの熱演に期待です。

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