真田丸キャスト 徳川家康 真田家のラスボス!狸親父と呼ばれた戦国レース最終勝者の人生とは?

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真田六文銭 真田丸

「真田丸」における真田家のラスボスとは誰でしょうか?

それは信長・秀吉の後を受け継いだ戦国天下取りレースの最期の覇者・徳川家康です。

徳川家康と真田家は「第一次上田合戦」「第二次上田合戦」「大坂の陣」と、3度も対決している因縁の相手です。

とはいえ、真田家が大名として独立したころには家康は既に天下取りも視野に入れられるほどの大物であり、真田家は信濃・上野の一部を有する地方の小大名に過ぎませんでした。先にあげた3度の合戦においても、徳川家と真田家では国力・戦力ともに比較にならない程徳川が圧倒しており、そんな小国真田が大国徳川を相手に互角以上の戦いを繰り広げた事が今日の真田の人気の大きな要因とも言えます。

いわば、真田を描くうえで徳川は不倶戴天の敵という位置づけとともに、真田の引き立て役でもあるという宿命でもあります。

そんな真田家のライバル、徳川家康について見ていきたいと思います。

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江戸幕府初代将軍・徳川家康の生涯

江戸幕府の初代征夷大将軍。それまでの主な官位は内大臣など(通称・内府“ないふ”と呼ばれる事が多い)。

天文11年(1543年)、三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として三河・岡崎で生まれる。

幼少期は人質として織田家・今川家で過ごす。「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、岡崎錠に入城し今川家から独立、隣国・尾張の織田信長と同盟を結ぶ(清州同盟)。同盟を結んだ信長の元で領土を拡大し、三河・遠江を領する大名へと成長する。

天正10年(1582年)の武田家滅亡と信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」に端を発する「天正壬午の乱」で甲斐・信濃にも版図を広げる。

明智光秀と柴田勝家を討った豊臣秀吉との合戦「小牧長久手の戦い」では戦には勝利するものの、秀吉の巧みな外交戦略によって講和を余儀なくされ、その後豊臣家の家臣となる。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が没すると、それまで禁じられていた大名家間の婚姻を他家と結び、勢力拡大を図るようになる。慶長5年(1600年)には会津の上杉景勝に謀反の疑いがかけられ、家康は上杉討伐のために諸将を率いて東へ向かう。まるで何かを待つかのように遅々とした行軍の家康軍に対して、西では石田三成が家康討伐の兵を挙げた。

家康は三成と決戦すべく西へと取って返し、関ヶ原においてたった1日で三成率いる西軍を撃破。

その後家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。これに伴い、豊臣家は一大名家へと成り下がった。

慶長19年(1614年)には徳川家と豊臣家が争う大坂冬の陣が勃発。天下の名城・大阪城に籠城する豊臣軍に対して攻めあぐねた徳川家は講和を結んで堀を埋め、大阪城を丸裸にすることに成功。翌慶長20年(1615年)には再び豊臣と徳川の争いである大坂夏の陣が起こる。大阪城の防御をはぎ取られた豊臣家に勝ち目はなく、城は落城。豊臣秀頼は自害し、豊臣家は滅亡する。

元和2年(1616年)に鷹狩への出先で倒れ、その3か月後に死去。享年75。死因は食中毒と言われてきたが、近年は胃癌説が有力である。

死後は駿河の久能山に葬られたが1年後に日光の東照社へ改葬され、東照神君と呼ばれた。

信長、秀吉に比べて戦国三英傑の中でも不人気の家康

戦国時代の三英傑と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですが、最後に天下人となり250年にも渡る太平の世を築いた徳川家康は先代の2人に比べてあまり人気がありません。

これは何故なのでしょう?尾張のうつけと呼ばれた戦国の革命児・信長と下級の身分から一代で天下人にのし上がった秀吉に比べて華がなく地味だというのも大きいのでしょうが、個人的には陰湿な策略などが多かったことが大きいのかなと思います。

後世この家康を評する言葉で「タヌキ親父」というものがありますが、これが全てを現しているのかもしれません。

最たるものが大坂の陣で豊臣家を滅ぼすきっかけとなった「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」。自身の寿命が残り少ない事を自覚していた家康は、何とか自分の目の黒いうちに災いの種となりかねない豊臣家を滅ぼしたいという思いが強かったと言われています。

そこで家康は、豊臣家が再建した方広寺の鐘に書かれている文字に目をつけます。その鐘には

「国家安康」「君臣豊楽」

という文字がありました。この2つの文言に対して家康は、「国家安康」は家康の家と康を別々に分断しており、「君臣豊楽」は豊臣家の栄華を願っている。つまり、徳川家を呪詛(じゅそ)して没落させ、豊臣家の繁栄を願うものである、と豊臣家に詰め寄ったのです。

どうです?今時、たちの悪い反社会勢力でもこんな酷い言いがかりはつけませんよね(笑)。もはやいちゃもんを超えたレベルなのですが、実際にこの無理矢理な難癖が大坂の陣のきっかけとなるのです。そりゃあ豊臣家が我慢できずに大坂の陣で徳川との戦いを決意するのも無理はありません。

この他にも、太閤秀吉が亡くなるやいなや天下への野望をむき出しにし、秀吉から頼まれた秀頼を無視、五大老の筆頭という地位にありながら、自ら禁を破って大名家と婚姻を結びまくります。さらに、そんな家康の専横に対して反発しているだけで、謀反の心などこれっぽっちも無かった上杉景勝に豊臣家に対する謀反の嫌疑をかけて謀反人に仕立て上げ討伐に向かいます。さらにわざとゆっくり行軍しながら留守になった西で石田三成が挙兵するのを待つというタヌキ親父っぷり。

他にも沢山ありますが、まあこれくらいにしといたろ(笑)。ん?ええ、そうですとも。みなさんの予想通り、わたしは家康が嫌いですwww(静岡や愛知・東京の皆さんすみません!涙)

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三谷幸喜が描く徳川家康は小心者?野心家?それとも・・

真田家に立ちはだかるラスボス・徳川家康の人物像を三谷幸喜はこの「真田丸」でどう描くのでしょうか。

家康が好きか嫌いかは置いといて(笑)、彼が戦乱の世を終わらせ、250年以上にも渡る太平の世を築いた人物であったという事実は高く評価されるべきでしょう。

では、家康は天下泰平の世を築くため、戦乱の時代を終わらせるために敢えて汚い手を使ってでも天下を統一したのか?これまではそういう大河ドラマが多かったですね。特に近年の大河は。「平和の世を作るために(仕方なく)戦をするのだ」、という論法です。

三谷幸喜は敢えてそういう路線では描かない様な気がします。真田昌幸は「表裏比興の者」と揶揄されるほどに主君を変えながら戦国を生き抜こうとしました。それは真田の家を守るため、戦国の世を生き抜くためです。そしてそれは他の戦国大名もきっと同じだったはずです。もちろん家康も。

生き馬の目を抜く様なこの戦国の時代、ひとつ舵取りを間違えば自分はおろか、一族や家臣、その家族も滅ぼされてしまうようなギリギリの中を生きていたこの時代の武将たち。自分や家族の身を守るのに精いっぱいのそんな人たちに「平和な世の中を」などという余裕は無かったと自分は思います。

つまり、一つの理想や思想だけで動くほど単純な世の中ではなかったと思うのです。家康の中には、徳川家を守るという大きな使命がまず第一にありながら、天下人になりたいという野望もどこかにあり、ひょっとすると、関ヶ原で西軍を破って天下人の座を手に入れた後は平和な世をという想いもあったのかもしれません。

三谷幸喜は非常に歴史好きで知られています。恐らく、徳川家康もこんな色々な気持ちがない交ぜになりながら、段階を踏んで色々思考を変えながら天下人まで上り詰めていく、そんな風に描くのではないかとわたしの願望も込めて(苦笑)予想します。


名軍師・山本勘助を演じた内野聖陽(うちのせいよう)が家康役に

この徳川家康を演じるのは内野聖陽。大河ドラマは1998年の「徳川慶喜」、主演を務めた2007年の「風林火山」に続いて9年ぶり3度目の出演になります。

山本勘助を演じた「風林火山」の内野さんは凄かったですね。近年の大河ドラマでは異色なほど硬派な大河ドラマであり、主演の勘助は時には汚い策も使うダークヒーロー的な側面もある、実に魅力的な武将に描かれていました。そしてその勘助の爽やかで純真な青年武将時代から、武田信玄の軍師となって以降の知略・謀略の限りを尽くす老年期までをまるで別人のように演じていました。個人的には間違いなくここ10年の大河ドラマでは脚本・主演ともに一番の作品です(最後、上杉謙信との大一番、「川中島の戦い」において駆けつけた援軍に歓喜しながら討ち取られた最後は感動したなあ・・)。

だからこそ、この内野さんが家康役だと発表があった時には「真田丸」の成功を確信したのです。わたしはこのドラマの肝は家康役だと思っています。この家康役がダメだとドラマ全体がこけてしまう、それほど重要な役だと思っています。

真田家を主役にした時点で、真田家にとってのラスボスであり、憎まれ役である事が決まっているこの徳川家康。

三谷幸喜と内野聖陽によってどんなラスボスが誕生するのか楽しみに見ようではありませんか。

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