徳川秀忠(とくがわひでただ) 演:星野源
徳川秀忠の略歴
江戸徳川幕府の第二代征夷大将軍。生名は長丸(長松)。幼名を竹千代成。長じて徳川秀忠と名乗る。
天正七年(1579年)4月7日、三河・遠江・駿河を領する戦国大名、徳川家康の三男として浜松に生を受ける。母は家康の側室・西郷局。同母弟に後の清州藩藩主・松平忠吉がいる。
幼少期は今川家家臣・岡部貞綱の娘、大姥局(おおうばのつぼね)が乳母となり養育される。
天正十八年(1591年)、豊臣秀吉による小田原攻めに父・徳川家康も参戦。数え年13歳であった竹千代成は人質として大坂に上洛、大坂で元服した。その際に秀吉の「秀」の字を一字もらい、秀忠と名乗る事となった。
そして秀吉の命によって織田信長の次男・織田信雄の娘であり、秀吉の養女となっていた小姫(春昌院)を妻として迎えた。小姫はまだわずか7~8歳であったと言われている。
しかしその後、小姫の義父である秀吉と実父である信雄の仲が険悪となり、信雄は改易され流罪となる。秀忠と小姫は離縁という事になり、その後秀忠は文禄四年(1595年)に織田信長の姪であり、茶々(淀殿)の妹でもある江と再婚する事となる。
慶長五年(1600年)に父・徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との天下分け目の戦い、「関ヶ原の合戦」が起こる。徳川家の嫡男であった秀忠は中山道を西上する徳川家別動隊を率いる事となった。
家康率いる徳川家本隊は東海道を順調に西上していたのに対し、秀忠軍は天候悪化などにより進軍が思うようにままならず、信州上田では真田昌幸の籠る上田城を攻めあぐねたりもして、結局関ヶ原での本戦には参戦する事が出来なかった。
慶長八年(1603年)二月に家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開くと、四月には徳川家嫡男・秀忠も右近衛大将に叙任される。
慶長十年(1605年)には家康より将軍職を譲り受け、江戸幕府二代将軍となる。とはいえ、駿府城にて隠居となった家康が未だに大きな影響力を持っている中での将軍世襲であった。
慶長十九年(1614年)に勃発した大坂の陣では総大将として指揮を執り、翌慶長二十年(1615年)には豊臣家を滅亡させる。
元和二年(1616年)に大御所であった父・家康が死去。秀忠は家康の路線を受け継ぎ、大名の改易などで諸大名の統制を強化、尾張・水戸・紀州の徳川御三家を弟で固め、幕藩体制をより堅固なものとした。
元和九年(1623年)には嫡男・家光を三代将軍につけ、自身は表向き隠居となったが、父・家康と同様に将軍家に対する影響力を保持しての隠居であった。
寛永九年(1632年)一月、死去。享年54。
徳川秀忠の私的考察 影は薄いが理想的な二代目・徳川秀忠
徳川家康の嫡男であり、江戸幕府二代将軍として徳川泰平の礎を築いた徳川秀忠。
先代の初代・家康は言うまでもなく戦国三傑に数えられる程の名将であり、息子の家光は徳川幕藩体制を完成させた人物として、わたしの中学生の頃の社会の教科書では名前が踊っていました。しかし秀忠の名は教科書にはほとんど載っていなかったですね(今の教科書は分かりませんが)。
という訳で、非常に地味な印象がわたしにはあります。
ですが、歴史が好きになるにつれて、秀忠の重要性を段々と認識するようになってきました。初代が偉大であった家や組織が栄えるか滅ぶかというのは、二代目が重要だという事はよく言われていますね。
そういう意味ではこの秀忠は理想的な二代目だと思われます。初代の意思を受け継ぎ、それをしっかりと継続・発展させて次代に繋げる。必要以上の野心や欲望は持たず、ただひたすらリスク管理をしながら慎重に経営していく・・。うん、理想的な二代目です(笑)。
この秀忠と真田家といって真っ先に思いつくのが、「第二次上田合戦」ではないでしょうか。関ヶ原に向かう途中で真田家の信濃・上田城を攻めた秀忠は、結局上田城の真田昌幸に翻弄されて関ヶ原の戦いに参加できなかったというあの有名な戦です。この結果、秀忠は家康にはしばらく会ってももらえなかったと言われています。
しばし秀忠が凡庸であった事の象徴のように語られてきたこの「第二次上田合戦」ですが、家康からの関ヶ原着陣の急使が遅れるなどの秀忠には不運な事も重なったうえでの関ヶ原遅参であったと現在では言われていますので、一概に秀忠の資質を攻めるのも可愛そうな気がしますね。まあ相手が真田昌幸というのを考えたら、多少は甘く見過ぎていたのかもしれませんが。
ドラマなどでも結構地味な感じに描かれる事が多いように感じますね。2000年の「葵~徳川三代」のように主役で描かれたこともありますが、やはり偉大過ぎる家康の影に苦悩する二代目という描き方でしたね。
まあ、隆慶一郎原作の「影武者徳川家康」などのようにとんでもない悪役として描かれる例もありますが、やはり功績の割に影の薄い人物という印象は免れません。ただし、徳川家が十五代、260年続いた大きな原動力は二代目の秀忠であったとわたしは思っています。
天下泰平260年の基礎を築いた徳川秀忠を演じるのは星野源さん
偉大なる初代の後の二代目としての役割をしっかり果たした名将・徳川秀忠。そんな秀忠を演じるのが星野源さん。大河ドラマはこの真田丸が初出演となります。
とにかくマルチな才能を持った人物ですね。俳優としては勿論の事、ミュージシャンとして、映像ディレクターとして、そして同じNHKの内村光良のコント番組「LIFE!~人生に捧げるコント~」ではお笑いにも挑戦して、その抜群のセンスをいかんなく発揮しています。
俳優としてはNHKの仕事が多い(「ゲゲゲの女房」「紅白が生まれた日」「ゴーストフレンズ」など)イメージがあったので、大河初出演というのは少し意外でしたね。
ミュージシャンとしてもNHKとの関わりは深いですね。昨年2015年に念願の紅白歌合戦初出場を果たしたのは記憶に新しいところですが、楽曲提供も積極的に行っています。個人的に一番思い入れがあるのが、NHKの子供向け人気番組「みいつけた!」の中で各キャラクターが歌っている曲。「おっす、イスのおうえんだん」や「なんかいっすー」、これらの曲は全て星野さんが手掛けているのです。小さいお子さんがいらっしゃる親御さんだったら恐らく聞いた事があると思います。ちなみにわたしはほとんどフルで歌えます(笑)。
そんな星野さんが演じる徳川秀忠。秀忠役が星野源と聞いた時のわたしの印象は、
「おぉ、おおおおぉ、合ってる合ってる!」
うーん、見事なキャスティングだと思いましたね。家康とともに真田家の前に立ちはだかる徳川秀忠。果たして星野秀忠の出来やいかに?楽しみですよね。
本多正純(ほんだまさずみ) 演:伊東孝明
本多正純の略歴
幼名を千穂、通称を弥八郎。官位は従五位下・下野守(じゅごいのげ・しもつけのかみ)。江戸幕府老中であり、宇都宮藩藩主。
永禄八年(1565年)、徳川家の重臣・本多正信の嫡男として誕生する。父正信は三河一向一揆で一揆方に味方したため三河国から追放されていたが、正純は徳川家家臣・大久保忠世の庇護のもと、三河にいたと言われている。
父・正信が家康に許されて徳川家家臣として復籍すると、子である正純も徳川家に仕える事となる。
正純は父・正信譲りの知略政略を家康に見込まれ、徳川家内で異例ともいえる大出世を遂げていく事となる。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦においては総大将・徳川家康の側近として関ヶ原本戦に参戦、家康が江戸に幕府を開くと家康の側にあり、家康が秀忠に将軍職を譲った後も家康に従って駿府へ赴き、家康の手足となって辣腕を振るった。
永禄年間に入り、家康、正信が相次いで死去し、治世が完全に秀忠の物になると、正純は駿府から江戸へ移り、老中として秀忠の幕政の中心となる。
しかし日頃から正純を良しとしなかった秀忠子飼いの側近が急速に力をつけ始め、次第に正純は孤立し、影響力を弱めていった。
そんな元和八年(1622年)、正純に将軍秀忠暗殺計画の嫌疑がかけられる(宇都宮釣天井事件)。そしてこれをきっかけに秀忠の逆鱗に触れた正純は領地を没収され、出羽国へ流罪となり、幽閉生活を送る事となった。正純の失脚によって初代将軍・徳川家康の影響力は完全に排除されたと言われている。ちなみに秀忠暗殺疑惑については全くの濡れ衣であり、秀忠側近たちの策略であったとする説が有力となっている。
その後正純は罪を許される事なく、幽閉から15年後の寛永十四年(1637年)、流刑先の出羽国横手で死去。享年73。家康・秀忠の元で権勢をふるった名参謀の、あまりに寂しすぎる最期であった。
本多正純の私的考察 謀略家、謀略に散る・・
この本多正純、父・本多正信に勝るとも劣らない知恵者、謀略家として有名な武将ですね。謀略、政務のスペシャリストであり、まさに有能な実務型武将ですね。
大坂の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」。徳川家の豊臣家に対する言いがかりともいえるこの難癖は、実は本多正信の立案であったという説があります。正信の謀略ぶりを示すエピソードのひとつですが、正澄にも大坂の陣に関しては重大な働きをしたという説があります。
大坂冬の陣で豊臣と徳川が和睦し、その和睦条件となった大坂城の外堀の埋め立て。外堀を埋めたついでに徳川家が強引に内堀まで埋めてしまい、丸裸になった大坂城は夏の陣で落城してしまいました。実はこの内堀の埋め戻しを指示したのは本田正純であったと言われています。本当に親が親なら子も子ですよね(笑)。
しかし、本多正純への徳川家家臣たちの恨みつらみは相当な物であったと言われています。実際に本多正純自身も政敵を葬り去りながら権勢を築いてきました。最期に謀略によって失脚したのは因果応報だったのかもしれませんね。
本多正純を演じるのは伊東孝明さん
謀略、策略の限りを尽くして成り上がり、徳川幕府初期を支えた名将・本多正純を演じるのが伊東孝明さん。大河ドラマは初出演となります。
伊東孝明さんといえば、お父さんは人気コメディアンであり、名優でもある大物・伊東四朗さん。
この伊東孝明さんも、とにかく俳優として数々の作品に出演しキャリアを積んでいる貴重なバイプレーヤーですね。
お父さんの伊東四朗さんは三谷幸喜の大河ドラマ「新選組!」で八木源之丞(やぎげんのうじょう)役で出演された他、「平清盛」や「北条時宗」などではそれぞれ一癖も二癖もある役をこなしてこられました。
息子の伊東孝明さんもこの真田丸を機に、大河ドラマ常連になるのでしょうか。とにかく演技力は何の心配もありません。後はこの名将・本多正純で鮮烈な記憶を残してほしいですよね。
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