NHK大河ドラマ「真田丸」第49話「前夜」史実から見たネタバレ予想と第48話「引鉄(ひきがね)」視聴感想とMVP

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真田六文銭 真田丸
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大野修理(おおのしゅり)の弟・大野治房(おおのはるふさ)の暴走が夏の陣の原因?

大阪冬の陣の和議がなり、束の間の和平が描かれたNHK大河ドラマ真田丸の第48回「引鉄」。

しかし大坂城牢人衆の暴走によって再び徳川家との戦の「引鉄(ひきがね)」が引かれたというお話でしたね。

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山ほど書くべきことがあるので何から書こうか迷ってしまうのですが(苦笑)、まずは大坂夏の陣の引き金となった浪人衆の暴走からいきましょう。

通説によれば、徳川との和睦に浪人たちを中心に根強い反感があったのは間違いないところですが、大坂城内の牢人たちが放火や略奪といった乱暴狼藉を働いたりしているという事を京都所司代(今でいえば京都府警トップ)の板倉勝重が徳川家康に報告したことだといわれています。

この報告によって両者間は再び緊張状態に陥り、徳川は豊臣家に大阪を退去しての国替えや牢人衆解雇を要求し、それを豊臣が拒絶して堀を掘り返し始めたとされています。

真田丸では大野修理治長(おおのしゅりはるなが/演:今井朋彦)の弟、大野治房(おおのはるふさ/演:武田幸三)が先走ったとなっていましたが、大野治房は確かに大坂城内でも屈指の強硬派であり、兄の大野修理とは正反対の主戦派でした。この兄弟間の対立も大坂城内の混乱の大きな原因の一つだったといわれています。

大野修理が城内で襲撃されたのも史実通りであり、これも真田丸では大野治房によるものとなっていましたが、襲撃した実行犯はハッキリとわかっていません。もちろん大野治房であった可能性も大いにあり得ます。

大阪城の不用意な行動が徳川家康に大坂夏の陣の口実を与えてしまったというのが大勢の見方なのですが、徳川家の言いがかりであったという説もあります。些細な問題(そもそもその些細な問題もでっち上げであるという説も)でいちゃもんをつけて無理難題を要求し、豊臣がそれを断ったために開戦したという説ですね。個人的にはこちらの方が真実に近いような気もしますがみなさんはいかがでしょうか。

馬上筒(ばじょうつつ)で家康暗殺を狙ったという紀州徳川家の話は史実なのか?

続いて気になったのが、大坂城内で偶然発見された「馬上筒(ばじょうづつ)」。

この馬上筒を使って真田幸村(堺雅人)は大坂夏の陣で徳川家康の首を狙ったというのは、紀州徳川家の「南紀徳川史」に書かれています。

ドラマの中で毛利勝永(岡本健一)が言っていたように、この馬上筒は火縄がなく、火打石で発火するために銃弾の発射間隔が飛躍的に短くなっており、しかも短く軽量であるために馬上でも取り扱いやすいという利点がありました。まさに暗殺にはもってこいの当時最新鋭のハイテク武器です。

どうやって幸村がこの馬上筒を手に入れたのかは定かではありませんし、この元ネタとなっている「南紀徳川史」という資料自体が大坂の陣から286年後に完成したものであり、この幸村の馬上筒での家康襲撃については懐疑的に見る向きもあります。

まあ個人的には江戸時代にスーパーヒーローとして英雄化された真田幸村であるがゆえの物語かなあとも思いますが(笑)、夢のある話しで個人的には嫌いじゃないですね。ドラマだから全然ありだと思います。第一、しっかりと資料に残っている話ですしね。

毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登それぞれの子や妻たちのその後の運命

大阪城内の牢人衆が和睦の間を利用して家族たちと団欒の時を過ごす場面が描かれましたね。ここで少しドラマの中で出ていた牢人衆の家族たちについて触れておきましょう。

まずは毛利勝永の妻子。成人していた長男の毛利勝家は大坂夏の陣で自刃して果てました。夏の陣では敵将の首を挙げるなどし、父の勝家もその武勇を大いに惜しむほどの人物であったといわれています。妻は土佐の山内家で保護され、命を助けられたといわれていますね。

次に長宗我部盛親(阿南健治)の四人の息子たち。彼らにはこの後過酷な運命が待っています。

長男の長宗我部盛恒は伏見にて斬首。次男長宗我部盛高と三男・盛信は土佐で処刑され、四男の盛定も京都八幡で処刑されたといわれています。本来であれば土佐の名門・長曾我部家を継いでいたかもしれない御曹司にはあまりに残酷なけつまつとなってしまいました。

真田丸には出て来ませんでしたが、明石掃部介全登(あかしかもんのすけてるずみ/演:小林顕作)の子・明石景行は大坂の陣後生き残り、武元と姓を改めて家名を保ったといわれています。

こうして見てみると、あのほのぼのシーンが悲しくなってきますよね。戦国時代の習わしとはいえ、現代の我々には想像もつかない時代だったという事を思い知らされます。

徳川家のスパイ・織田有楽斎(おだうらくさい)が大阪城を去り、信之が大阪へ??

ラストシーンで信繁の手紙を読んだ兄・真田信之(大泉洋)が、弟・幸村の覚悟を知って大阪へ向かう事を決意する場面がありました。あの場面も気になりましたよね。

しかし史実において信之が大坂の陣の最中に大阪で信繁に会ったという事実はありません。信之は信吉・信政を現地へ向かわせて自身は病気療養という事で大坂の陣には参加しませんでした。ということで、信之の大坂行きは叶わないと予想します。もしもそのようなことが徳川幕府に知れれば、真田家は取りつぶしにされても文句の言えない事実であり、信之がそんなリスクを冒すとは思えません。

徳川家康(内野聖陽)を佐助(藤井隆)が暗殺しようとした場面についてですが、これも史実にはありませんが、真田が多くの素破(すっぱ)を雇っていた事は事実であり、徳川家康が影武者を置いていたという事もよく知られています。さらに真田幸村は戦局を打開するために徳川家康の首を狙っていたという事も有名ですね。

従って、幸村が暗殺を試みたという可能性は大いにあると思いますね。未だに家康は大坂の陣で死んでいたという説がまことしやかに囁かれているのはその何よりの証拠でしょう。

あそこで本物の家康が暗殺されてしまって、この後の家康は「影武者」でした、とすればある意味伝説のドラマになっていたかもしれませんね(笑)。

そして遂に織田有楽斎(おだうらくさい/演:井上順)が徳川への内通者として大阪城を出ていきました。これについては、有楽斎がスパイであったという確たる証拠はありません。あくまで状況証拠ですが、その後有楽斎が余生をのんびり過ごした事からも内通を疑われても致し方ないと思いますね。しかも大坂夏の陣直前ですから。状況書庫的には黒に限りなく近いグレーといったところでしょう。

そして大坂城の台所を預かる大角与左衛門(樋浦勉)・・。まあ彼についてはここでは割愛しましょう。それこそその先のネタバレになっていまいますので(苦笑)。

「引鉄(ひきがね)」のMVP 敵役の演技がドラマの肝?

今回は非常に難しかったですね、MVP・・。実は未だに決めかねています(汗)。

(考え中)・・決めました。今回は本当に久々の内府・徳川家康で行きましょう。

あの憎々しげな表情や仕草、そして完全にラスボス感を備えてしまったそのオーラは、まさに天下取りレースの最終勝利者に相応しいものでした。やはり真田主役ドラマの家康はああでないと面白くないですよね(伊賀越えの頃の家康はあれはあれで大好きでしたが笑)。

それにしてもこのドラマでは内野聖陽という俳優の凄さをまざまざと見せつけられましたね。最初配役を聞いた時には正直、「若すぎるんじゃないの?」と思いましたが、とんでもない勘違いでしたね。面白いドラマは素晴らしい敵役がいてこそ成り立つという基本を改めて思い知りました。小心者→天下への野心の萌芽→ラスボス。この流れをここまで見事に演じ切る俳優さんはなかなかいないでしょう。

幸村の成長物語が基本なのは間違いありませんが、同時に天下人・家康の成長物語でもあったとつくづく思いますね。そしてそれは内野さんの名演あったればこそでしょう。

次点は織田有楽斎を演じた井上順さんで。

これもまた素晴らしい演技でした。特に声の使い分けが秀逸でしたね。時折見せるブラック有楽斎の時のトーンと普段の善人の時のトーンとの使い分けはお見事でしたよね。真田ファンにとっては憎々しい存在でしたが、それも井上順さんの演技があってのものでしょう。家康同様、やはり敵役の演技の重要性もこの井上順さんが証明しましたよね。

佐助ときりの場面は不覚にも大爆笑してしまいました(笑)。

佐助渾身の告白に対して食い気味に断るきり(長澤まさみ)。そしてマッハで消える佐助(笑)。

「あの場面いらんやろ」と心中ちょっとだけ思いつつも(苦笑)、佐助のほのかな恋心を描いた伏線がまさかあんなに光速で消化されるとは(笑)。三谷幸喜の喜劇のセンスを感じさせる場面でしたね。


第49話「前夜」のストーリー 幸村と春との別れ、そしてきりにも・・

大阪冬の陣の和議によって休戦状態となった徳川家と豊臣家。いつまで続くか分からぬ和平に幸村が兄・信之へ送った書状。それを読んだ信之は幸村の覚悟を知り、大坂へ向かう事を決意する。

大阪では豊臣家と徳川家の和睦が破綻、いよいよ大坂夏の陣へと突入することとなっていた。

どうやって徳川家を迎え撃つかを毛利勝永、後藤又兵衛らと思案する幸村。

堀が埋められて裸城となった大阪城を出て戦う策を立てた幸村が選んだ戦場は道明寺。そこで徳川の大軍を食い止めるという案である。

道明寺を二手に分かれて進軍する豊臣軍。そして豊臣家の大阪五人衆の一人、後藤又兵衛は奥羽の独眼竜・伊達政宗(長谷川朝晴)の大軍と死闘を繰り広げる事となる。

しかし豊臣家の策は全て何らかの理由によって徳川家に漏れていたのであった。

戦況の深刻さを悟った幸村は、大坂城内にいた(松岡茉優)を大阪城外へ脱出させることを決意する。

そして幸村の生涯に陰ひなたとなってなって付き添ってきたきり。そのきりにも最後の使命が待っていたのである・・

史実から見た「前夜」ネタバレと考察 徳川の大軍の前に散りゆく豊臣の武将達・・

次週の真田丸ではいよいよ大坂夏の陣の火蓋が切って落とされる事となります。

本格的な夏の陣の初戦ともいえる道明寺の戦いの様子が描かれる事となりそうですね。道明寺の戦いが描かれるという事は、同日にあった八尾・若江の戦いも描かれる事となるでしょう。さらには道明寺の戦いよりも前に行われた前哨戦、樫井の戦いも。

そうなると、いよいよ豊臣の武将達もその命を戦場に散らす事となってきます。

まずは樫井の戦い。

慶長二十年(1615年)4月29日、大野治房を大将として、紀伊・大和の制圧を目指した豊臣軍と浅野長晟軍とが和泉国樫井で激突したこの戦いで、大野治房隊に属していた侍大将の塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき/演:小手伸也)が壮絶な討ち死にを果たします。

そして大坂に迫りくる徳川本隊を迎え撃った5月6日には、豊臣家は真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登ら約18,000の兵を道明寺に向かわせます。

一方で、長曾我部盛親、木村長門守重成(白石準也)らも八尾・若江方面に約11,000の兵で出陣。二手に分かれて徳川を迎撃することとなったのです。

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猛将後藤又兵衛、貴公子木村重成の壮絶な死

道明寺の戦いにおいては、進軍してくる徳川の大軍を河内平野で迎え撃つという戦法でしたが、後藤又兵衛が道明寺に到着した時には徳川軍がすでに布陣していました。作戦の根底が崩れた豊臣軍の後藤又兵衛は味方が到着する前に小松山に布陣し、それを察知した徳川軍に取り囲まれます。

10倍ともいわれる徳川軍と激戦を繰り広げた後藤又兵衛でしたが、圧倒的兵力の前に後藤隊は壊滅。又兵衛も戦死します。

そして同時刻に行われた若江の戦いでも、井伊直孝隊を戦闘不能に陥れる奮闘を見せたものの、木村重成が討ち死にして木村隊は壊滅。八尾で戦っていた長宗我部隊も退却を余儀なくされてしまったのです。

道明寺では又兵衛の討ち死に後に各隊が誉田へと後退し、真田幸村らが到着。先に戦っていた明石全登らと合流し、勢いに乗る伊達政宗らを食い止め、道明寺まで押し戻す戦いを見せます。そして毛利勝永とも合流しますが、八尾・若江での豊臣軍の敗北の報を聞いて大坂城へと撤退することとなるのです。

こうして5月6日の戦いで豊臣軍は大きな傷を負う事となったのです。

ちなみに、この日の豊臣家の大阪城退却戦の殿(しんがり)は真田幸村が務めました。

見事に大坂城への退却を成功させた真田幸村がこの時に徳川の大軍に向かって叫んだといわれている言葉は、現在でも語り草になるほど有名なものです。

「関東勢百万も候え、男は一人もなく候!!」(関東(徳川)には百万もの兵がいるがその中に男は一人もいないのか!)

豊臣家の真の裏切者は織田有楽斎ではなかった?徳川の間者は大角与左衛門?

次週のストーリーで気になるのが、道明寺の戦いで大坂方の策が徳川に漏れていたという部分です。

これを読み解けば、今週の「引鉄」の中で徳川家に内通していた織田有楽斎が大坂城を退去する場面が描かれていましたが、有楽斎以外にまだ豊臣家の仲に裏切者がいるという事になりますよね。

史実で確実に豊臣家を裏切った人物というと、真っ先に出てくるのが大坂城牢人衆の南条元忠。しかしこの人物は大坂夏の陣の折に裏切りがばれて切腹させられています(真田丸では登場せず)。

そしてもう一人資料に名を残す豊臣家中の裏切者、それが大坂城の台所番の長である大角与左衛門なのです。

彼がどの時期から徳川家に内通していたのかは定かではありませんが、大坂の陣後に徳川家に仕官を求めたという記述がはっきりと残っているのです。そしてその中で徳川に寝返ったとも記してあります。

大坂夏の陣での大坂城炎上の際の大阪城調理場からの出火はこの大角与左衛門が配下のものに指示したものといわれています。

思えば、大坂城の牢人衆たちはしばしば大坂城の厨で大事な話をする場面が真田丸では描かれています。そしてその時には大角与左衛門が必ずと言っていいほどその場にいますよね。

織田有楽斎は幸村に徳川家への内通を詰め寄られた際に、「大阪に不利な情報は流していない」といいましたが、これは真実ではないでしょうか。大阪に不利な情報を徳川に流している間者がまだ大坂城内にいるという事を示唆する場面なのかもしれません。

もちろんそれが与左衛門なのかは今の時点ではわかりません。最新の研究では、大坂城落城の際に逃げようとした裏切者を豊臣秀頼(中川大志)が天守閣から突き落としたという事実も明らかになっています。思えば用心深い徳川家康ほどの人間が大阪城に潜ませるスパイが一人や二人のわけがありませんよね。複数いると考えるのが普通です。

真田丸でのスパイが誰を指すのかはわかりませんが、史実では大角与左衛門が豊臣家を裏切った人物である事だけは間違いありません。

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