NHK大河ドラマ「真田丸」第47話「反撃」史実から見たネタバレ予想と第46話「砲弾」視聴感想とMVP

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真田六文銭 真田丸

真田左衛門佐(さなださえもんのすけ/演:堺雅人)が「真田丸の戦い」において徳川軍を散々に打ち破ったものの、その後は徳川と豊臣、互いに膠着状態へと陥ってしまった感のある大坂冬の陣。

真田丸第46話「砲弾」では、そんな徳川家康(内野聖陽)と豊臣秀頼(中川大志)のお互いのジレンマがヒリヒリと伝わってくるような内容でしたね。

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史実における真田信尹(のぶただ)による左衛門佐調略の真実とは?

今回の一番の見どころは、膠着状態に陥った大坂冬の陣において狸親父の本領を発揮して策を練った家康であり、その中でも真田幸村を徳川に寝返らせる調略を指示した事でしょう。徳川家の使者として幸村説得に向かったのが、真田安房守(草刈正雄)の弟であり、幸村の叔父である真田信尹(さなだのぶただ/演:栗原英雄)。

この事(幸村調略)を記した本多正純(伊東孝明)の書状がはっきりと残っていますので、これはほぼ史実として捉えても良いでしょう。

本多正純が書状を送った相手は、加賀前田家に仕える本多政重。本多正信(近藤正臣)の次男であり正純の弟という人物です。正純のこの政重宛の書状は、幸村の調略に当たって真田隠岐守(信尹)を遣わすので、真田隠岐守と相談のうえでお願いします~という内容の文面となっています。

本多正純と言えば、この時代には徳川家康の片腕として徳川家内では並ぶものはいないと言われたほどの実力者です。そして、書状の中で正純は、徳川に寝返った後の幸村の身柄については自分が責任を持つとまで言い切っています。それほどまでに徳川は真田幸村を評価し、そして恐れていた事が伺える書状ですね。徳川家の実質ナンバー2が保証したのですから、もしも幸村が徳川に寝返れば相当のポジションが保証されたことは間違いないでしょう。

しかしこの調略は失敗に終わります。失敗の顛末についてはハッキリと分かっていません。失敗の記録を徳川家が残すわけもありません。しかし幸村のその後の人生を考えれば失敗した事は明らかですね。信尹が最初から失敗を見越していたのか否か?それも今となっては想像によるしかありません。ありませんが、叔父の信尹はやはり最初から幸村が徳川に寝返るとは思ってなかったような気がしますね。

ちなみに真田丸の中では豊臣を離反して徳川に味方すれば10万石とされていましたが、この報酬については諸説あります。仮に10万石だとしたらどれほどのものなのでしょうか。

ちょうどいい物差しがあります。兄である真田信之(大泉洋)が関ヶ原の戦い後に上田に賜った所領が9万5千石です(うち3万石は沼田)。つまり、上田と沼田の真田信之領とほぼ同じだけを与えると約束されたのです。この事実だけ見ても、どれ程の好条件だったかお分かりいただけるでしょう。そしてそれを断った幸村。まさに叔父・信尹が言ったように、「我ら兄弟(昌幸と信尹)とは違って律義者」だという事を裏付けるエピソードですよね。まあだからこそ現代でもこれほどの人気を博しているんですけどね。

「夜討ちの大将 塙団右衛門参上」エピソードの史実とは?

「夜討ちの大将」としてこれもまた人気の高い塙団右衛門(ばんだんえもん/演:小手伸也)の大きな見せ場である、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)軍への夜襲も描かれましたね。

史実によると、この塙団右衛門による蜂須賀隊への夜討ちは、塙団右衛門自身が率いる20人ほどの少数部隊によって行われたと言われています。そしてこの夜討ちによって蜂須賀軍の大将・中村右近を初めとして二十もの敵兵の首を挙げたと言われています。

真田丸の中では、塙団右衛門とともに、大坂浪人五人衆である幸村、毛利勝永(岡本健一)、後藤又兵衛(哀川翔)、そして大坂城譜代の家臣である木村長門守重成(白石準也)が加わった事となっていました。しかしこれはあくまでフィクションだと思われます。

幸村、勝永、又兵衛、重成と団右衛門では身分が違います。幸村らは一軍を率いる大将であるのに対して、団右衛門は大将である大野治房(武田幸三)に仕える侍大将に過ぎないのです。

しかし、団右衛門とともに夜襲をかけた二十人が誰なのかはわかっていません。というわけで、その中に左衛門佐や勝永、又兵衛、重成が混ざってなかったとも言い切れません。だからわたしはドラマとしては全然いいと思います。

しっかりと有名なエピソードである、「塙団右衛門参上」の木札をばら撒く場面もやってくれましたしね。塙団右衛門好きなのでこの団右衛門の夜討ちシーンを描いてくれただけで三谷幸喜には感謝感謝ですね。

大坂冬の陣での内通者は織田有楽斎(おだうらくさい) 大角与左衛門は無罪放免?

そして今週の「砲弾」では、先週、先々週とドラマ内で匂わせていた徳川家への内通者がはっきりと描写されました。

やはり織田有楽斎(おだうらくさい/演:井上順)でしたね。

結論から先に言いますと、織田有楽斎が豊臣家にいながら徳川家に情報を流していた、つまり徳川家のスパイであったという証拠は何一つ見つかってはいません。しかし織田有楽斎が徳川家のスパイとして大坂城内の情報を流していたという説は根強くあります。

その根拠は、状況証拠です。織田有楽斎は真田丸に描かれている大坂城内の豊臣家臣たちの中では、ただ一人だけ悠々自適の生涯を送り、天寿を全うすることのできた人物なのです。他の牢人衆や譜代の家臣たちは豊臣家のために命をかけたのですが、この有楽斎だけはまた別の人生を歩むこととなります。有楽斎の人生についてはまた後の記事で詳述したいと思いますが、わたしはこれだけで十分な証拠だと思いますね。

「限りなく黒に近いグレーでも、あくまでグレーゾーンならば無罪」という現代の法に照らし合わせれば、現在の基準では間違いなくこの織田有楽斎は無実なのでしょう。しかし、個人的には限りなく黒に近いグレーソーンにいる人物であると思いますね。

この織田有楽斎の内通発覚によって、もう一人の徳川への内通者の最重要容疑者と見られていた、大坂城の料理人であり台所番の長でもある大角与左衛門(おおすみよざえもん/演:樋浦勉)の容疑は晴れたという事になるのでしょうか。これもまた後に明らかになるでしょうから、ここでは割愛しておきます。皆さん大角与左衛門の動きには注視しておいてください(笑)。

「砲弾」のMVP 真田幸隆、昌幸、幸村に劣らぬ信尹という男

真田幸村の名を大いに天下に轟かせた真田丸の戦いでのカタルシスから一転して、今週はヒリヒリとした膠着状態を現した回でしたね。

先週、先々週と連続MVPに輝いた真田幸村ですが、今週も素晴らしかったですね。特に個人的には豊臣秀頼と、大坂の陣での勝利の間で葛藤しながらも冷徹なまでに勝利のために働く幸村の苦悩が上手く描かれていたと思います。当たり前の話かもしれませんが、大坂の陣に入って以降、幸村は別人になりましたね。まさに「日本一の兵」に相応しいオーラです。

そして何といっても髭が似合う!武将役においては、ヒゲを蓄える事で普通はワイルドで武将然とした雰囲気になるのですが、この堺雅人版真田幸村の場合は知略に優れた名将の雰囲気が漂っています。これは誰にでも出せるものではありません。やはり役者の力でしょうね。

というわけで幸村の三週連続MVP。

ではなくって、今週のMVPはその幸村の叔父である真田信尹です。

本当に久々の登場となった信尹でしたが、相変わらず美味しいとこ持っていっちゃいますよね(笑)。この真田丸における信尹は本当にカッコいいです。劇中では幸村が尊敬してやまない人物として描かれているのですが、それも頷けるような武将として描かれ、栗原英雄さんの熱演によって完全にキャラ立ちしていますね。

大御所である家康に向かってハッキリと「お断りいたす」と幸村調略を断る場面。そして幸村に会って家康の書状を「読まんでもいい」と言ってしまう場面。最後に家康の御前で堂々と「調略、不首尾に終わりました」とぬけぬけと言ってのける場面。

まさに真田幸隆の息子、真田昌幸の弟、真田幸村の叔父な人物だけの事はあります。やはりこの男も只者ではありません。個人的には文句なしのMVPですね。

久々の登場となった出浦昌相(いでうらまさすけ/演:寺島進)も嬉しかったですね。史実ではこの出浦昌相は関ヶ原の戦い以降は信之に仕えて真田家を支えていく人物です。もっと出番を見たかったのですが、これからの再登場に期待しましょう。でも寺島さん忙しいですからね(苦笑)。

個人的には賤ヶ岳七本槍として豊臣秀吉に仕えた平野長泰(近藤芳正)と片桐且元(小林隆)も捨てがたいですね。

太閤秀吉の恩顧と、現実の狭間で葛藤する悲哀が上手く描かれていたと思います。近藤芳正さんも小林隆さんもバリバリの三谷組の俳優さんだけあって、さすがという他有りません。出番はあまり多くないですが、しっかりと記憶に残るキャラクターに仕上げてくれていますね。



第47話「反撃」のストーリー 阿茶局(あちゃのつぼね)の術中にはまる豊臣家・・

大坂城本丸にある茶々(竹内結子)の本丸を目がけて発射された徳川軍のイギリス製カルバリン砲の着弾によって、茶々の侍女たちが犠牲になった。

この一件によって大坂城内は徳川との和議に向けて大きく傾いた。

真田幸村は和睦に反対するが、大坂城の主である茶々はそんな幸村の反対を押し切って和睦に舵を切る事となる。

豊臣家と徳川家との和睦交渉での徳川方の中心役となった阿茶局(あちゃのつぼね/演:斉藤由貴)は、豊臣家に対して異例なほど寛大ともいえる条件を提示する。しかし、そんな阿茶の態度に対して茶々の侍女であるきり(長澤まさみ)は大きな不安を覚えるのであった。

和平交渉の結果、和睦は決定したのだが、その条件として大坂城の外堀を埋め立てる事となり、真田丸砦の取り壊しも決まってしまう。

豊臣家の決定に激しい衝撃を受ける幸村。そして、徳川家のいいようにされるがままの豊臣家に対して、後藤又兵衛や毛利勝永らの怒りや不満も頂点に達していくのであった・・

史実から見た「反撃」ネタバレと考察 太閤が語った大坂城攻略法とは?

次週の真田丸「反撃」では、徳川家と豊臣家との間に和議が結ばれる事となります。つまり、大坂冬の陣の終局という事になります。

豊臣家が和睦へと向かった一番の要因は、やはり徳川軍の放ったイギリス製の最新鋭武器であるカルバリン砲を始めとする大砲の威力でしょう。昼夜を問わず大砲で攻撃したために、その轟音によって大坂城内の兵たちは眠る事も出来なかったと言われています。そしてとどめが茶々の侍女8名の命を奪った着弾です。

「大阪城にいる限り10年でも持ちこたえられる」

と淀殿(茶々)は息巻いていたという言い伝えもあるように、豊臣方は大坂城に絶対の自信を持っていました。しかしイソップ寓話にある「北風と太陽」の話ではないですが、強引な力による城攻めではなく、敢えて遠回りと思える策によって豊臣家を和議の場に引っ張り出した徳川家康の策略はさすがと言わざるを得ませんね。やはり大坂城の重鎮の面々よりも二枚も三枚も上手であることは間違いありません。

逸話によると、かつて難攻不落の大坂城を築いた豊臣秀吉が、大坂城を攻略する方法を周囲に話したことがあったと伝わっています。その方法とはこうです。

「大軍で幾重にも包囲して兵糧攻めを行うのは時がかかりすぎる。そこでいったんは和を講じ、和睦条件として堀を埋め立てて塀を壊してしまう。そうして城を丸裸にしたうえで、再び攻めるのよ」

と。

そして実際に豊臣方と徳川方で交わされた和睦の条件がこれです。

  • 大坂城は本丸だけを残し、二の丸、三の丸は取り壊し外堀も埋める
  • 大坂方から人質を出す。淀殿は望まず、大野修理か織田有楽とする
  • 城中の者には何の罪もなし。本座(譜代衆)・新座(新規に召し抱えられた牢人衆たち)いずれを問わず

そうです。豊臣家は外堀を埋めて二の丸、三の丸まで破壊してしまうという条件を呑んでしまいました。まさに大坂城は裸城。もはや城としての戦闘力を喪失してしまったという事です(二の丸の取り壊しは和議内容に無かったという説もあり)。

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豊臣家は徳川との再戦を考えていなかった?徳川家康の真意を測れなかった悲劇

豊臣家と徳川家の交渉は、徳川家康が本陣を構えていた茶臼山(ちゃうすやま)の西にある京極忠髙の陣で行われたといわれています。京極忠高は豊臣方の和睦交渉使者となった初(常高院/演:はいだしょうこ)の嫁いだ京極家の当主です。

京極忠高の陣で、徳川方の使者となった阿茶局と本多正純と豊臣家の使者である常高院が豊臣と徳川、お互いの案を提案しました。そしてその案をお互いに持ち帰って協議したうえで、翌日再び会って和議が成立したと言われています。

つまり、この和睦内容は使者同士が勝手に決めたものではなく、双方がいったん持ち帰り、しっかりとトップが決裁して決定した和睦内容であったという事です。つまり豊臣方は大坂城を裸城にすることに完全に同意していたという事ですね。しかも驚くことにこの二の丸と三の丸と外堀の破壊条件は豊臣方が出した条件であったといわれています。豊臣方からしてみれば、二度と籠城戦などする必要もなしという風に考えていたとも受け取れます。つまり、この和睦によって豊臣と徳川は完全に和平となったという認識だったのでしょう。

しかし現在伝えられている当時の資料などによると、この和睦が永遠に続くなどとは誰も見ておらず、必ずや再び戦火が巻き起こるという見立てが大勢を占めていたともいわれていますね。

まあ徳川家康が再び豊臣家を攻撃しようとしていた事はまず間違いないでしょう。豊臣家が今の勢力のまま大坂城に居座る状態だけは絶対に容認できない事でしたから。

しかし豊臣家のこの和睦条件を決めたトップたちにとっては再び徳川と事を構える気はなかったのではないでしょうか。もしも再び徳川と一戦交える可能性を考えていたのならば、外堀と二の丸三の丸の破壊、埋め戻しなどとても条件として吞めたとは思えません。

この事実だけ見てもどれ程豊臣家の重鎮達の考え方がズレていたかわかると思います。少しいい方はきついかもしれませんが、「平和ボケ」といってもいいかもしれません。家康の真意を全く理解していなかったともいえるでしょう。

この和睦条件を見た大坂城浪人衆たちの落胆や怒りは想像に難くないですよね・・

和睦条件から見える徳川家康の真の狙いとは?

大阪城の豊臣方が和睦に応じるにあたって、絶対に曲げる事の出来なかった条件はおおよそ3つであったと言われています(諸説あり)。

  1. 淀殿を人質として徳川家に差し出す事
  2. 大阪から他の領地への蔵替え
  3. 牢人衆を大坂城から退去させる事

通説ではこの3つは大阪方としては譲る事の出来ないものであったと言われています。

そしてこの3つの条件を徳川方は全て呑む形で和睦となったのです。

逆に徳川の狙いはただ一つ。大坂城の堀や塀を破壊して、大坂城の防御力を限りなく0に近い形にする事。そうしておけば、戦になった時に籠城策は使えずに野戦にならざるを得ず、野戦での力勝負となれば、必然的に兵力で圧倒的に勝る徳川軍の勝利となるという事です。戦の口実などはいかようにもなると徳川家康は思っていたことでしょう。史実では実際にそうなりますしね。

逆にいえば、豊臣方が上に挙げた3つの条件を全て受け入れる事が出来ていれば、この後起きる大坂夏の陣は避けられたかもしれません。

淀殿が人質として江戸に赴き、豊臣家が大坂城を退去して他の土地へ移封し、大量に雇った浪人衆を解雇して武装解除すれば、徳川家康は一大名としての豊臣家の存続を許した可能性はかなりあったと思います。

豊臣軍と徳川軍双方に手詰まり状態となっていた大坂冬の陣の戦況を考えれば、この和睦は必然だったと個人的には思います。ただし、守りたいもののために一番重要なものを放棄した豊臣家と、それを見越して一番の目的を達成した徳川家康との和睦を見る限り、先見の明や交渉能力ではやはり徳川家の方が一枚も二枚も上だったと言わざるを得ません。そしてその狡猾さの差が両家の今後の運命を分けていったと思いますね。

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