これまでの大坂の陣の描き方を変える、兵の士気は豊臣が勝っていたというポジティブさ
真田丸第42話「味方」を視聴しました。今回はついに大坂城五人衆が揃い踏みし、一堂に会したファイブショットが披露されましたね。
さらにその五人衆を中心とした浪人衆と、その浪人衆たちに振り回される大野修理治長(今井朋彦)、困惑する豊臣秀頼(中川大志)を描くことで複雑な大坂城内の力関係を示す事に成功していたと思います。
最も大きな見どころとしては、大坂城内に集まった浪人衆たちの反目を見た真田幸村(堺雅人)が最後の場面で高梨内記(中原丈雄)に対して勝算ありとほほ笑む場面。
普通の大坂の陣を扱った作品では、大坂城内の対立を悲劇的に描きがちです。大坂城内でのまとまりの無さが豊臣家の敗因であるという論調に結論付けることが多いのですが、今回の幸村の見立ては全く正反対でしたね。
普通は寄せ集めの軍勢である大坂城内の兵士たちの方が、正規軍の集まりである徳川軍よりも兵の質的に劣っていると思われがちですが、戦の勝敗において最も大事な要素の一つとも言われている「兵の士気」に関しては圧倒的に豊臣家の方が勝っているという幸村の戦力分析です。
確かにこの見方は当たっています。徳川軍は幸村のいうようにほとんどは徳川幕府の命令によって仕方なく上京している大名家の軍です。中には秀吉時代からの豊臣家恩顧の大名たちも数多くいますし、徳川家による強引な豊臣家潰しを苦々しく思っていた大名家も少なくありません。
後藤又兵衛基次(哀川翔)や毛利勝永(岡本健一)、長宗我部盛親(阿南健治)、明石全登(小林顕作)ら、実力も実績もある実力派武将達は元大名や大大名家の家老格であり、関ヶ原の戦いまでは豊臣秀吉政権下で中枢を担った大物ばかり。在野に追いやった徳川家に対する憎しみは大きく、さらにこの戦いを機に家名を復興させようという人間ばかりです。モチベーションの高さは徳川家とは比較になりません。そしてそれは大坂城五人衆だけではなく、下っ端の浪人衆に至ってもそうでしょう。もちろん報奨金目当ての食いっぱぐれ浪人たちもいたでしょうが、大きな手柄を立てて仕官しようという大望を抱いていた浪人たちも数多かったはずです。
わたしたちは歴史の結果を知っているだけに、大坂の陣の豊臣方を見る目にある種のバイアスがかかっているのかもしれませんが、実際にはこの真田丸での描き方も真実といえるのではないでしょうか。
家康は豊臣家を大名家として存続させるつもりだった?
第42回「味方」で注目すべき点がもう一つ。
徳川家康(内野聖陽)が阿茶局(斉藤由貴)に対して豊臣家の処遇を語るシーンです。大坂の陣後に豊臣家を大坂から別の場所へと移して一大名家として存続させると構想する家康に対し、阿茶局は禍根を残さないように滅ぼしてしまえとアドバイスします。
実際に家康が豊臣家をどうしようとしていたのかは諸説あります。最初から自分の目の黒いうちに完全に葬り去るつもりであるという説もあれば、豊臣家が一大名として恭順の意を示せば大名家として存続させるつもりであったという説もあります。
しかし個人的にはわたしは家康は自分の命があるうちに豊臣家を滅亡させるつもりであったと思っています。
全国には豊臣家を慕う大名は多く、上方では庶民にも豊臣は圧倒的な人気を誇っていたと言われています。さらに資産も莫大であったというのは有名ですし、徳川家を脅かす存在があるとすればこの豊臣家以外にあり得ないであろうという事は誰の目にも明らかです。
真田丸では阿茶の献策によって豊臣家潰しを決断するという描き方ですが、その真偽はどうあれ、徳川が最初から豊臣家を滅亡させるつもりであったことは間違いないと思いますね。
夜討ちの大将・塙団右衛門とキックボクサー王者・武田幸三が演じる大野治房
今回初登場した人物たちの中で個人的に一番ニヤリとさせられたのが塙団右衛門(ばんだんえもん/演:小手伸也)。
幸村との初対面ではいきなり「塙団右衛門参上」と書かれた木札を渡していましたね。これは歴史ファンの間ではけっこう有名な逸話です。
塙団右衛門は徳川家に夜襲をかけた際に、敵陣に「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばらまきました。その派手ないでたちや行動から、彼は「傾奇者(かぶきもの)」と呼ばれる一面も持っている華のある武将です。今回の塙団右衛門の初登場はつかみとしてはこれ以上ないものですね(笑)。
大野修理の弟の一人、大野治房も初登場しました。演じていたのは何とあの武田幸三。格闘技ファンにはあまりにも有名なキックボクサーですね。セリフは一言も発しませんでしたが(笑)、これからに期待しましょう。出来ればあのローキックを炸裂させる場面があればなおうれしいですね(笑)。
治房が出てきたという事は、その弟の大野道犬治胤の登場にも期待したいですね。大野三兄弟の中では一番の武闘派。こう考えると大野兄弟はなかなか個性派ですな(笑)。
出来れば薄田兼相(すすきだかねすけ)や、大谷刑部吉継(片岡愛之助)の息子とも弟とも言われている大谷吉治らも出してほしいのですが、さすがにこの辺りは厳しいかもしれませんね。
とにかく大坂城内の武将達は本当に個性派揃いであり、群像劇として描いてもこれほど面白い人たちはいない程です。これからも、この辺りは定期的に描いてくれると嬉しいですね。
「味方」のMVP 相変わらずはまり役の今井朋彦、まさに小物界の大物(笑)
うーん、今回も難しい・・毎回言ってるような気もしますが気にしないでください(苦笑)
今回は大野修理治長に一票を投じたいと思います。
このサイトでも何度か書いたのですが、今井朋彦さんという俳優は、まさに大野治長にピッタリな俳優さんですね。三谷作品では常連ともいえる名脇役なのですが、恐らく三谷幸喜の中では早くから大野修理=今井朋彦という図式は早くから決まっていたのではないでしょうか。
とにかく「新選組!」の時の徳川慶喜役や「風林火山」での小笠原長時役など、大河ドラマにおける今井朋彦さんの活躍は特筆ものです。出演シーンはさほど多くないにも関わらず、その数倍くらいの爪痕をきっちりと残していく俳優さんですね。そして今回の真田丸でもそれは間違いないでしょう。
官僚ならではの悪く言えば少し小物感を漂わせる(笑)、こういった人物を演じさせればこの俳優の右に出る人物はいないでしょう。今回の名演はそれをしっかり証明するものであったと思いますね。
キリシタン大名である明石掃部頭全登も良かったですね。今回はようやくキリシタンっぽい描写が描かれました。これまではあの衣装はなんなんだろうと思っている視聴者も多かったのではないでしょうか(笑)。高山右近や大友宗麟、小西行長らと並ぶ戦国時代を代表する切支丹武将である明石全登。「オフロスキー」でお馴染みの小林顕作さんの熱演にこれからも期待ですね。
初登場組では織田信長の弟であり、茶々の叔父でもある大坂城の重鎮・織田有楽斎(井上順)も良かったですね。豊臣家に殉じた大野治長に対するスタンスの違いが何となく予見されるような初登場でした。これからの大坂方のキーパーソンの一人となるでしょう。
そういえば少し前に、ドラマにおける満足度の第一位にこの「真田丸」が輝いたというニュースが出ていました。
わたし的にはまあ、「何を当たり前のことを」という感じだったのですが(笑)、だからこそあと8話でこのドラマが終わってしまう事に対する「マリッジブルー」ならぬ「真田丸ブルー」に苛まれている事も事実です。
次にこんな面白い大河ドラマに巡り合えるのがいつになるのか・・いや、次回作に期待してないわけではないんですけどね(笑)
第43話「軍議」のストーリー 籠城か野戦か?対立する大坂城内
徳川家康が駿府城から、徳川秀忠(星野源)が江戸城から、そして全国各地から大名たちが続々大阪目指して進軍する中、大坂城では茶々(竹内結子)がひそかに真田幸村を城内の武器庫へと連れて行く。
そこで茶々は幸村にある願いを打ち明けるのであった。それは一人息子であり豊臣家の総大将でもある秀頼を想う茶々の切なる願いでもあった。
城内では総大将である秀頼の見守る中、幸村、又兵衛、勝永、盛親、全登ら大坂城牢人五人衆を中心とした軍議が始まった。
軍議では多くの武将たちが難攻不落の名城・大坂城に籠って徳川軍を迎え撃つ「籠城戦」が提案される。しかしそんな中、幸村だけは城を討って出て家康のいる京へと進軍することを提案。この幸村の策を巡って軍議は紛糾することとなる。
幸村の積極策に対し、最初は難色を示していた毛利勝永は次第に幸村を認め、幸村の策に同調していくが、後藤又兵衛は頑なに籠城戦を主張する。
そんな中、ついに総大将である秀頼が豊臣家の命運を左右する決断を下す時が訪れる・・
史実から見た「軍議」ネタバレと考察 家康の考え方をどう捉えるかが戦い方のポイント
真田丸第42話「味方」の視聴率が発表されましたね。過去最低となる13.0%であったという事です。裏番組にプロ野球日本シリーズ中継やフィギュアスケートGPアメリカ大会があったという事を考えれば致し方ない気もしますが、クライマックスに向けてのこの時期にしてはやはり低すぎると言わざるを得ないかもしれません。これからの上昇に期待したいですね。
次週の「軍議」は、大坂冬の陣における豊臣家の戦い方を決める重要な回となります。タイトル通り、豊臣家の運命を決める「軍議」となるはずです。
史実に照らし合わせてみると、まず大坂城内には難攻不落とまでいわれた日本一の城・大坂城に籠城して戦うという案と、城を出て徳川軍の領土を奪いながら勢力を広げ、前線にて迎え撃って徳川軍を足止めするという案がありました。
籠城戦を主張したのが大野修理治長や織田有楽斎長益などの大坂城の重鎮たち。野戦を主張したのが幸村、又兵衛、勝永らの牢人衆だといわれています。
大野修理や織田有楽斎らの頭の中には徳川家との和睦がありました。徹底的に戦って勝つというよりも、戦いを有利に進めて豊臣家にとって少しでも有利な条件で和睦したいという腹です。
対して幸村ら牢人衆は徹底抗戦の構えです。狙うは徳川家康の首であり、豊臣家による軍事的大勝利。そのためには豊臣家に味方してくれる大名をふやさなければならないという思いがありました。城に閉じこもって戦っても味方する大名などいるわけがない。それならば討って出て相手を打ち破り、戦局を打破する。そうすることで豊臣方に寝返る大名たちも出てくるという腹ですね。
どちらの考え方にも一理あるのは間違いありません。この考え方の答え合わせのカギは徳川家康の考え方一つなのです。
家康に豊臣家を存続させる意図があったのであれば、籠城が正解です。少しでも有利な条件で和睦すれば豊臣家が今のままで存続する可能性ももちろんあったでしょう。
しかし家康が最初から豊臣家を滅亡させるつもりであったのならば、幸村らの言うとおりに戦うしか道はなかったでしょう。豊臣方は一人でも多くの大名を味方に付けなければなりません。そのためには籠城では勝ち目無しです。味方を増やして徳川に対抗するか、一か八かで家康の首をとる、これ以外の方法はなかったでしょう。
前述したように、わたしは家康には豊臣家を生き永らえさせる気など毛頭なかったと考えています。よって、わたしの考えでは幸村らのいうように野戦に討って出る他なかったと思っています。
援軍が期待できない籠城戦はただの延命措置?
結論から言いますと、大坂城は迫りくる徳川の大軍に対して籠城戦という手段にうって出ます。
徳川三十万に対して豊臣は十万といわれており、相手の軍勢は3倍にも達する巨大戦力です。兵に劣る軍勢が籠城戦に持ち込むのは、戦国時代ではある意味常套手段ともいえるものなのですが、この大坂の陣の場合は少し勝手が違います。
籠城戦と言うのは、あくまで援軍が来ることを期待してのものです。真田丸で言えば、北条氏政(高嶋政伸)が籠城して豊臣秀吉(小日向文世)と戦った小田原征伐を思い出してください。氏政は最後の最後まで、東北の独眼竜・伊達政宗(長谷川朝晴)の援軍を期待していました。籠城戦で持ちこたえれば、必ずや東北を制した政宗がやってくると信じていたから籠城したのです。援軍が来れば一気に戦況をひっくり返す可能性もあるのです。
しかしこの大坂の陣ではどうでしょう。いくら豊臣が大坂城に籠って戦っても援軍は来ません。当然です。同盟相手がいないのですから。援軍が期待できない籠城戦と言うのは、延命措置に過ぎません。援軍が現れて戦況を打破できない以上、いつかは力尽きる運命なのです。
ここでは詳しく述べませんが、徳川家康はこの後巧みな外交戦術によって豊臣家を弱体化させることに成功します。恐らくこの時には大野修理を始めとする籠城派たちは、野戦策を採用すべきだったと後悔した事でしょう。
しかし大野治長らを攻めるのも酷かもしれません。彼にとって最優先すべきは豊臣家の存続。そのためには野戦という博打を冒したくないというのは当然でしょう。全ては徳川家康の本心を見抜けなかったことが招いた悲劇と言えるのかもしれませんね。
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