NHK大河ドラマ「真田丸」第39話「歳月」史実から見たネタバレ予想と第38話「昌幸」視聴感想とMVP

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真田六文銭 真田丸
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昌幸に対する怒りが大きかったのは「大御所」徳川家康よりもむしろ将軍・徳川秀忠?

ついに戦国史にその名を残した名将・真田昌幸(草刈正雄)がその人生に幕を下ろした真田丸題38話「昌幸」。

劇中では日々徳川家康(内野聖陽)から赦免されて上田へと戻る日々を待ちわびる昌幸の姿を中心として描いていましたね。

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事実、昌幸は信州上田の嫡男・真田信之(大泉洋)に再三赦免を願う書状を送っており、信之もそんな父・昌幸のために赦免運動を展開したと言われていますが、結局昌幸が赦免されて上田へ戻る事は終生ありませんでした。

真田丸の中では、徳川家康が頑として真田親子の罪を許さなかったという事になっていましたが、別の説もあります。ドラマの中にもあったように、慶長十年(1605年)には家康は征夷大将軍の地位を息子の徳川秀忠(星野源)に譲って駿府へと隠居し、大御所(おおごしょ)と呼ばれるようになります。もちろん隠居したとは言ってもまだ絶大な権力を誇っており、秀忠以上の影響力は持っていました。

しかし徳川幕府の実務面は秀忠とその側近・本多正信(近藤正臣)にかなり分割されたと言われており、かなり実権の秀忠への委譲は進んでいたともいわれています。となると、昌幸が赦免されなかったのは第二次上田合戦で煮え湯を飲まされた秀忠の意向も大きく影響しているという説も信ぴょう性を帯びて来ますね。

家康以上に秀忠の怒りが大きかったという説です。わたしもこの説はかなり核心をついていると思いますね。昌幸と信繁は将軍が家康から秀忠に代わった事で、罪を許されて上田へと帰る望みが一段と少なくなってしまったと考えます。

加藤清正の死は病死?それとも暗殺?真偽は別として清正の死で整った豊臣家潰しの条件

昌幸は流人としての生活を許されて上田へ帰る事を望みながら九度山で死去したと言われています。

しかし昌幸らしい逸話も残されています。死去する直前に豊臣と徳川の手切れを予言し、息子・信繁に豊臣勝利の秘策を授けたと言われています。これは真田丸でも同じでしたね。

これはあくまで逸話ですので、後世の創作である可能性が高いですが、やはり我々としては真田安房守にはかくあって欲しいという理想でもあります。そしてその安房守の無念を大坂の陣で晴らそうとした左衛門佐信繁。まさに戦国屈指の親子ですよね。

「昌幸」では昌幸の他にも重要人物が退場する事となりました。

まずは徳川四天王と呼ばれた戦国最強の呼び声高い本多平八郎忠勝(藤岡弘、)。昌幸と信繁の命の恩人であり、信之の舅(しゅうと)です。関ヶ原の戦い以降は病がちとなって幕府の役職からは遠のいており、彼が徳川幕府の中枢として鎮座していたら、ひょっとして昌幸の赦免は成っていたかもしれません。それほど徳川家では重鎮ともいうべき存在でした。

忠勝の死は昌幸の死の前年の慶長十五年(1610年)、享年は63。

そして石田三成(山本耕史)死去後に豊臣秀頼(中川大志)の後見人とさえ言われた豊臣派の加藤清正(新井浩文)も死去しました。

真田丸では徳川家康の命を受けた服部半蔵(浜谷健司)によって毒殺されたという説を採用していましたね。

この加藤清正の死因については諸説あり、病死(梅毒、ハンセン病など)という説もあれば、徳川方による毒殺(実行者は平岩親吉など諸説あり)という説もあり、現在でも謎に包まれています。しかし秀頼と家康の会見の帰途で発病、しかも同じく秀頼派であった浅野幸長と同時期に急死したという絶妙のタイミングから、わたしも毒殺の可能性は極めて高かったと思っています。

結果的に加藤清正、浅野幸長という豊臣恩顧の大大名の死によって徳川家康の豊臣家潰しの条件はすべて整ったといってもいいのですから。

才女・小野お通が初登場。板部岡江雪斎、服部半蔵のその後・・

そして小野お通(八木亜希子)が初登場しましたね。真田信之を語るうえでは欠かせない女性と言ってもいいかもしれません。当時を代表する才女です。一説では信之とは思いを寄せあった中であったとも言われていますね。今回は顔見世程度でしたが、これから見せ場はやってくるはずです。

懐かしい面々も再登場していました。

北条家の外交僧であり、北条家滅亡後は秀吉、家康と仕えた板部岡江雪斎(山西惇)もその一人です。江雪斎は忠勝の死の1年前、昌幸の死の2年前の慶長十四年(1609年)に伏見にて73歳で病死したと言われています。

伊賀越えでは家康とゆかいな仲間たち(笑)の一員として家康の生還を助けた服部半蔵も久々の登場でしたね。とはいえ今回登場した服部半蔵は伊賀越えの時の半蔵とは別人。伊賀越えの時の半蔵は史実では慶長元年(1596年)に55歳で亡くなっています。

半蔵という名は服部家の当主が代々名乗っていた別名というべき呼び名であり、伊賀越えの時の服部半蔵は本名を服部正成(はっとりまさなり・或いはまさしげ)といい、今回登場した二代目は服部正就(はっとりまさなり)といいます。この二代目は清正暗殺の四年後の大坂の陣で戦死したと言われています(異説あり)。

加藤清正暗殺の実行犯が服部半蔵であるという説はわたしの知る限りでは聞いた事がありません。これは三谷幸喜氏の創作であると思われますね。

「昌幸」のMVP 昌幸で文句なし!江雪斎と高梨内記もMVP級の名演

真田丸第38話「昌幸」のMVPへと参りましょう。

今回はここまで真田丸を引っ張ってきた裏主人公ともいえる真田昌幸をおいて他にはないでしょう。

本当に素晴らしい真田昌幸でしたね。真田太平記で真田幸村(信繁)を演じた草刈正雄さんの演技はまさに神懸っていました。このサイトのMVPではすでに徳川家康とともに殿堂入りしていましたが(笑)、最後の今回は再登場願いましょう。

似ても焼いても食えないその策略家ぶり、鬼神の如き戦略家であり、亡き主君・武田信玄の旧領回復と真田家の存続のために戦い続けた、まさに戦国時代が生み出した天才武将の生き様は紛れもなくここまでの真田丸の核といってもいい存在でした。草刈さんには本当にお疲れ様でした、そしてありがとうございましたと言いたいですね。

次点は板部岡江雪斎を演じた山西惇さんを挙げたいですね。

恐らく今回で退場と思われる山西さんですが、最後も素晴らしい演技でしたね。信繁の瞳の奥にまだ残っている炎を指摘し、最後は大阪時代の呼び名である

「真田左衛門佐(さなださえもんのすけ)!」

と呼んだ場面は思わず鳥肌が立つほどでした。この真田丸で大きく知名度と株を挙げた武将の一人として間違いなくこの板部岡江雪斎が挙げられるでしょう。そしてその功績は三谷幸喜の脚本と山西惇さんの名演によるものであると断言できますね。

あまり出番は多くなかったのですが、昌幸の腹心・高梨内記(中原丈雄)も良かったです。常に昌幸のそばにあり、昌幸の大ばくちの決断に一番目を輝かせていたのがこの高梨内記です。そんな内記の昌幸の最期を看取る表情にはグッとくるものがありました。真田丸ファンならこの気持ちを共有してもらえると確信しています。

恐らくこの後、信繁とともに昌幸の無念を晴らすために大坂城で徳川と一戦交える事になるであろう高梨内記。内記の最後の戦いからも目が離せません。

ネットでは何かと批判の対象となっている感もあるきり(長澤まさみ)。わたしは嫌いじゃありません。むしろ、いいアクセントになっていると思います。今回も良かったです。時代劇っぽくないといえばそうなのですが、このきりの存在は真田丸では欠かせない要素であるとわたしは思いますし、うざいけど憎めない・・もう存在しなくてはならない存在であると思いますね。確かにうざいですけどね(笑)。

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第39話「歳月」のストーリー

父・昌幸が死去した後、息子である信繁と家族、そして家臣たちは流罪先の紀州九度山で変わらぬ流人生活を送っていた。

父の死後の信繁は妻や子供、そして慕ってくれる者たちとの生活に満足し、幽閉生活とはいえ満喫した日々であった。

信繁は、昌幸存命時には再三にわたって懇願していた徳川家に対する赦免運動も無用であると上田にいる兄・信之に伝える。

しかし長じた嫡男・真田大助(浦上晟周)をどう育てていくべきかに葛藤している信繁なのであった。

そんなある日、豊臣秀次(新納慎也)の娘で処刑間近のところを信繁の機転によって救われ、信繁の側室として呂栄(ルソン)へと渡ったたか(岸井ゆきの)が突然九度山の信繁の元へと現れる。

日々の暮らしにも困窮していた信繁は、たかが持っていた珍しい南蛮の紐を見てある考えを思いつく。

そしてある夜の日、信繁を訪ねて一人の男が九度山を訪れる。

大阪からの使者というその男は、信繁を迎えに来たという。一人の男の来訪によって信繁の運命の歯車がいよいよ動き出すのであった・・


史実から見た「歳月」ネタバレと考察 真田紐にまつわるエピソードに注目

巨星堕つ!真田家を大名にまで引き上げた巨星・昌幸亡き後どのように展開していくのか?大坂の陣待ったなし!の展開となってきた真田丸ですが、次週の「歳月」は中休みの回となりそうな印象ですね。

もちろん大阪からの使者の来訪という急展開はあるのですが、それ以外は信繁の九度山での生活の様子が詳細に描かれそうです。

一番のポイントは、久々の登場となるたか。史実では関ヶ原の戦い後に信繁とともに九度山で生活していたと言われているたかですが、真田丸では秀吉からの追及を逃れるためにルソンへ渡った事になっています。実際には信繁の側にいて、出羽亀田藩主・岩城宣隆の側室となったなほ(お田の方・顕性院)と、出羽亀田藩に仕えた三好幸信という信繁の子を産んだと言われています。

このたかがどのように真田丸に絡んでくるのでしょうか。

どうやら、たかが持ち帰った南蛮の珍しい紐に着目するという展開となりそうです。真田家に詳しい人は「紐」と聞いただけでピンと来るのではないでしょうか。

そうです、真田家が開発したと言われている(諸説あり)「真田紐(さなだひも)」です。

真田紐とはこの時代に重宝されていた丈夫な紐で、帯締めや荷物紐、刀下げや鎧兜など多岐にわたって使用されていた紐です。一説ではこの真田紐の考案者こそ九度山に蟄居していた真田家であり、九度山での幽閉中の真田家はこの真田紐を売って生計を立てていたともいわれています。

真田紐のルーツについては諸説ありますが、わたしは三谷幸喜は必ず真田紐のエピソードは入れてくると思っていました。だってこういうエピソード絶対に好きですから(笑)。

次週の一番の注目ポイントは「真田紐」。うん、これですね。

平和で穏やかな九度山での生活を捨てて大坂からの招きに応じた真田信繁の動機とは?

次週の真田丸ではついに大阪からの使者が信繁の元へ訪れるという展開になるようです。

しかし信繁は九度山での生活に満足しているという設定にもなっています。実際にはどうだったのでしょうか。

実は昌幸死後の信繁の九度山での詳細はほとんどわかっていません。しかし恐らくわたしも九度山に骨を埋めるつもりでいたのではないかと想像します。

幽閉生活も10年を過ぎ、赦免に関してほぼ諦めていたであろうことは間違いないでしょう。同時に正室の(竹林院/演:松岡茉優)、そしてその他側室(きりとたかと言われている)との間に大助、ら十人前後(人数については諸説あり)の子どもを九度山で設けたと言われています。

子どもや妻たちに囲まれて平穏な日々を過ごしていたであろうことは容易に想像がつきますよね。

しかし豊臣家と徳川家は断絶状態に陥って、開戦間違いなしという状況へと時代は動き始めます。豊臣家は全国の名のある浪人たちに豊臣家に味方してくれるよう使者をおくります。真田安房守の息子として、上田合戦で徳川を打ち破った信繁に白羽の矢が立ったのは当然と言えるでしょう。

「駿府記」という史書によれば、大阪の豊臣家は信繁に黄金二百枚と銀三十貫を贈ったと言われています。

九度山で父と同じく人生を全うしようとしていた信繁を突き動かしたものは何だったのでしょうか。彼の中に流れる真田の血が目覚めたのでしょうか。父の無念を果たしたいという想いなのでしょうか。それとも真田家の悲願である、武田家の旧領回復のためなのでしょうか。

三谷幸喜が信繁の大阪入城の動機を何に求めるか?ここも大きな見どころだと思いますね。

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