天下人への野心を露わにする家康、豊臣家のために家康を排除しようとする三成
稀代の英雄・豊臣秀吉(小日向文世)が亡くなり、いよいよ本格化する徳川家康(内野聖陽)と石田治部(山本耕史)の対立に主眼を置い真田丸第32話「応酬」でしたね。
北条家滅亡後の関東一円を領し、秀吉亡き後の諸大名の中では抜きんでた勢力を持つ家康と、近江の小大名であくまで豊臣家の官僚の立場であった石田三成との確執。
秀吉亡き後の天下人への野望を胸に秘め、勢力拡大を狙う家康と、豊臣家安泰のために家康を危険視する三成。しかしこの二人の大名としての格には絶望的なほどの差があった事は否めません。
大谷刑部(片岡愛之助)が、家康と三成との対決という図式にせず、あくまで上杉景勝(遠藤憲一)や宇喜多秀家(高橋和也)、毛利輝元らの老衆(おとなしゅう/いわゆる五大老)と家康との対立という図式にせよと三成に命じたのはそのためです。
家康は豊臣家の五大老の中でも最大の実力者であり、人望も格も備えた大人物。対して三成は頭の切れる男でしたが、その性格ゆえに人望はありませんでした。格も豊臣家の中では大大名と言える程ではありません。敢えて例を挙げるのであれば、家康を内閣総理大臣クラスだとすれば、三成は副大臣、政務次官クラスといったところでしょうか。勝負になるわけがありません。
家康が秀吉の死後、奥州の伊達政宗(長谷川朝晴)や福島正則(深水元基)、加藤清正(新井浩文)らと次々と婚姻関係を結んだのは史実の通りです。ただし大名同士の勝手な婚姻を禁じたのは秀吉の遺言ではなく、秀吉が死の3年前にに定めた、無許可縁組禁止の法という法度に背いたためです。
ちなみにこの無許可の縁組を禁じた家康に対して詰問に訪れた豊臣家の使いに対して、家康は一喝して帰らせてしまったと言われています。ちなみに真田左衛門佐信繁(さなださえもんのすけのぶしげ/演:堺雅人)が家康を詰問したという資料は残っていませんので、これは真田丸のオリジナル解釈だと思われます。
どちらにせよ、家康が秀吉の死後に勢力拡大のために確信犯的に秀吉の定めた法を破っていたのは間違いないと言われていますね。
清正と石田治部の対立は制服組と背広組の対立?漁夫の利を得たのは徳川家康
加藤清正と石田三成の決別が決定的になった回でもあったこの「応酬」。宴席を中座しようとした三成に対して吐いた清正の一言が最も大きな対立の核心でしょう。
「われらが命がけで戦っている時、お主らは何をしておったのじゃ!?」
この思いが三成らと清正、正則らの対立の最も根本的な原因と言われていますね。
これはまあ普通の組織などでも結構ある事なんじゃないでしょうか。少し古い例えかもしれませんが、ホワイトカラーとブルーカラーとの対立ですね。制服組と背広組の対立です。
ブルーカラー(制服組)からしてみれば、自分たちが現場で必死に汗水たらしているから組織が成り立っているという自負があり、ホワイトカラー(背広組)にも組織の根幹を成しているという自負があります。その対立を凝縮したような構図ですね。
ましてこの真田丸での清正らの現場組は命を賭けて戦っているのですから、戦場に出ていない者たちへの反発は当然かもしれません。特にこの大陸出兵では命を懸けて戦ったにも関わらず、ほとんど恩賞も貰えなかったのですから。つまり清正たちは命がけで戦ったのにただ働きであったという事です。
そしてその不満は大陸出兵を命じた秀吉ではなく、兵糧や兵の補給などの中心人物であった石田三成に向けられたというのが清正らと三成らとの対立の大きな原因なのです。そしてその対立を最大限に利用して力を増大させたのが家康であったという事です。
返す返すも、秀吉が生きていたら・・秀吉がいなかったとしてもせめて秀吉の弟である豊臣秀長が生きていたら・・いやせめて前田利家が健康体でバリバリの現役であれば・・と思わずにはいられませんね。
やはり普段から健康には人一倍気を使っていたという健康オタクの家康の勝利は必然だったのかもしれませんね。
「応酬」のMVP 策士・家康と義将・三成の政治家としての資質の絶望的なまでの差
今回のMVPは、ようやく現代のわれわれのイメージに近い「たぬき親父」化してきた(笑)、徳川家康に一票を投じたいと思います。
本多佐渡守正信(近藤正臣)や阿茶局(斉藤由貴)の前では天下取りに対して尻込みした姿を見せる家康ですが、思いっきり天下取る気満々ですやん(笑)。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」のエピソード通りの慎重居士ぶりを如何なく発揮していましたね。
宇喜多秀家、上杉景勝らの猛者たちを言いくるめてしまう老獪さと言葉を失わせる胆力はさすがは天下人!!といった大人物ぶりも見せていました。いよいよわたしたちの良く知る家康になってきましたね。内野さんの演技も流石というしかありません。というか、やっぱりうまいですね。ラスボス感が大いに出ていました。伊賀超えで逃げ回っていた「家康とゆかいな仲間たち」は遠い昔の話になってしまったのだと少し寂しくなりましたが(笑)。
次点はやはり治部、石田治部少輔三成でしょう。有能だが官僚的で空気の読めない三成の性分が今回もよく現れていましたね。まあ史実的にもそうなんですが、やはりこの人物は決定的に政治家には向いていない人なのだなというのを実感させられる好演でした。そういう意味では徹頭徹尾政治家気質の家康との対決で負けるのは必然とも言えます。熱き義の心も他者の心に響かなければ人は動きません。そんな三成の偏った面が今回は上手く出ていましたね。
主人公の真田信繁も良かったですね。正直、三成の側に仕える事になったというのはビックリでしたが(笑)。史実では信繁が三成に仕えていたという事実はありませんのでこれはフィクションなのですが、関ヶ原から大坂の陣に至る経緯としてこれはドラマ上必要な設定なのかもしれません。関ヶ原で西軍についたという信繁の決断の動機づけにもなりますしね。石田三成という男の不器用過ぎる人となりや、家康の狡猾な人間性を間近で感じさせることによってこれからの信繁の人生に大きな影響を与えるという重要な設定ですね。魑魅魍魎(ちみもうりょう)のような権力闘争を目の当たりにし、体験していく信繁の苦悩や想いをしっかり仕草や表情で示していた堺雅人さんの演技も素晴らしかったですね。
第33回「動乱(どうらん)」のストーリー
秀吉の遺命を破り、勝手に大名同士の婚姻を結ぶなど、秀吉亡き後の豊臣政権で次第に野心を露わにして来始めた五大老の筆頭格・徳川家康。
大名の歓心を買い、日増しに影響力を強めていく家康に対して、豊臣政権五奉行の石田三成は豊臣家存続のために京都・伏見にある徳川屋敷の襲撃し、家康を排除する事を決意する。
だがこの石田治部の企ては事前に徳川家康の参謀・本多正信に気づかれる事となってしまう。
正信はこの状況を利用する事とした。三成襲撃を諸大名に通達し、徳川屋敷の警護を依頼したのである。これによって、誰が家康派で誰が反家康派であるかの踏み絵にしようとしたのである。
襲撃が露見し、三成は一転危機的状況に陥る事となった。そんな三成を救うため、信繁は父・安房守昌幸(草刈正雄)を訪ね、ある進言を行うのであった・・
史実から見た「動乱」ネタバレと考察
次週の動乱は、実際に史実として残っている、反家康派による家康襲撃未遂事件を基に描かれていると思われます。
家康襲撃未遂事件とは、豊臣秀吉の定めた禁を犯して勢力拡大を図っていく徳川家康に対して、同じく五大老の前田利家が反発。伏見の徳川屋敷を攻めるために大坂の前田屋敷に利家派が続々集結。一方、伏見の徳川邸には親家康派の武将が集結し、武力衝突寸前までいったという秀吉の死後に実際にあった出来事です。
最終的には家康と利家が和解して武力衝突は回避される事となったのですが、この事件の直後に前田利家が病死。これによって家康に対抗出来得る唯一の実力者がいなくなり、家康の天下に大きく近づくこととなっていきます。
真田丸ではこの家康襲撃の影の実行者を石田三成と見立てたストーリーにするという事ですね。
確かに三成は反家康派の筆頭でしたし、明らかな前田利家派でした。影の首謀者であったという説も大いに考えられる事ですし、実際にそうだったであろうという説もあります。根拠は、利家が亡くなった直後に石田三成が家康に近い秀吉配下の武将に襲撃されているからです。そしてこの襲撃は家康も事前に許可を出していたという事実。このことから考えて、流れ的に家康襲撃未遂事件が関与しているのは間違いないであろうという事ですね。
まあ前述したように、実際には未遂で終わっており、武力衝突は避けられたわけですが、恐らくこの真田丸では、武力衝突の回避に信繁が絡んでくることとなりそうですね。
家康派と反家康派 関ヶ原の戦い前の両社の勢力図
次週の「動乱」は実際に合った家康派の大名と反家康派の大名が武力衝突寸前までいった騒動を描く回となりそうなのですが、では実際には家康屋敷には誰が集まって(家康派)、前田屋敷には誰が集まったのでしょうか。史実ではこのようになっています。
徳川邸に集まった主な武将達(親家康)
伊達政宗、福島正則、池田輝政、藤堂高虎、黒田官兵衛(孝髙あるいは如水とも言う)、黒田長政、最上義光、山内一豊、脇坂安治、大谷吉継など
前田邸に集まった主な武将達(反家康派)
上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家、加藤清正、細川忠興、小西行長、長曾我部盛親、立花宗茂、浅野幸長、増田長盛、長束正家、前田玄以、加藤嘉明、鍋島直茂、佐竹義宣など
こうして見てみると、なかなか興味深いと思いませんか?関ヶ原での東軍と西軍が入れ替わっている武将が非常に多いですよね。
例えば徳川邸に集まった大谷吉継は、関ヶ原では反家康として西軍の中心的人物となります。反対に前田邸に集まった加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、細川忠興などは関ヶ原の戦いでは家康派として東軍につくこととなるのです。
この騒動から関ヶ原の戦いまでの2年の間にこれらの武将は敵味方をひっくり返す事となります。大谷吉継は親友でもある石田三成の懇願によって西軍に加担したと言われていますが、清正や忠興ら、反家康から家康派に移った人たちはどうなのでしょう。
理由は大きく二つだと思われます。
まずは家康と対抗し得る唯一無二の存在であった重鎮・前田利家の死。これによって家康は誰もが認める天下一の人物となりました。お家のために徳川になびくのは家名存続を第一に考える当時の大名たちの習性上致し方のない事だと思います。
もうひとつは利家の死によって、反家康派の急先鋒が石田三成となった事でしょう。利家は秀吉でさえ一目置くほどの武将であり、人望も厚い男でした。しかし三成は有能でしたが人望や人気は全くありませんでした。むしろ恨みや誤解を買う事の多い人物でした。そんな三成のキャラクターも多くの武将たちを家康の元へと走らせた原因の大きな要因でしょう。
いやはや、なんとも組織や会社の縮図のような動きですね(苦笑)。
“三成に過ぎたるもの”戦国屈指の勇将・島左近が初登場!
次週の「動乱」では多くの歴史ファンが待っていたであろうあの男が初登場します。
島左近勝猛(しまさこんかつたけ/あるいは清興とも)。
石田三成の家臣であり、三成軍を束ねる戦国有数の猛将です。
昔からよく知られた言葉があります。
「三成に 過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」
三成は身の丈に合わないもったいないほどのものを二つ持っている。名城・佐和山城と名将・島左近である・・という意味です。
天下の堅城として有名な近江の佐和山城は当時天下に響いた名城であり、島左近は天下にその名が轟いていた武勇の士だったのです。
そんな左近がいよいよ真田丸に登場。関ヶ原の戦いまで出番は余り多くないかもしれませんが、非常に楽しみですね。
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