大坂城浪人衆の中でも最も日本中にその武勇を轟かせた5人の武将たちを大坂城5人衆と呼びました。
真田幸村(信繁)、後藤又兵衛基次、毛利勝永、明石全登とともに大坂城五人衆に数えられたのが、四国・土佐の元大名、長宗我部盛親です。
一方、大野治長らとともに豊臣の生え抜きのエリートとして豊臣に殉じた若武者・木村重成や怪力の豪傑として徳川を震え上がらせた塙団右衛門も大坂の陣では欠かせない有名人です。
ここでは彼らの略歴などをご紹介します。
長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか) 演:阿南健治(あなんけんじ)
長宗我部盛親の略歴
土佐の長宗我部家第二十二代当主。官位は宮内少輔・土佐守。幼名を千熊丸(ちくままる)。
天正三年(1575年)、土佐の戦国大名である父・長宗我部元親と明智光秀の重臣・斉藤利三の妹である母との間に、元親の四男として生まれる。
天正十四年(1586年)の島津家との戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)において、長宗我部家の嫡男である長宗我部信親が戦死。すると、長宗我部家では跡目争いがおこるが、次男の香川親和や三男の津野親忠が既に他家へ養子に入っていたこと、さらに父である長宗我部元親が盛親を擁立したこともあり、四男である盛親が長宗我部家の後継者となる。
以降は父・元親と後継・盛親の二人が長宗我部家のトップに立ち、盛親は豊臣家臣として北条家への小田原征伐や朝鮮出兵に従軍する。慶長四年(1599年)に父・元親が死去。正式に盛親が当主となると、翌年の慶長五年(1600年)には関ヶ原の戦いが起きる。
盛親は豊臣五奉行の一人であり、元親の時代から親交の深かった増田長盛らとの縁から西軍に味方し、関ヶ原本戦にも参陣するが、西軍は惨敗を喫し、盛親は戦うことなく退却。
土佐に逃げ帰った盛親は、東軍の徳川家康に謝罪し、長宗我部家の存続を願う事を決めるが、腹心であった久武親直(ひさたけちかなお)の讒言によって、兄である津野親忠を謀反の疑いで謀殺。結局このことを徳川家康に咎められ、長宗我部家は改易。ここに土佐の大名家・長宗我部家は滅亡する。
長宗我部家滅亡後、当主であった盛親は京都で生活を送る。旧家臣からの仕送りや寺子屋で子供を教えたりして生計を立てたといわれているが、徳川家からの監視の目は厳しかったといわれている。
慶長十九年(1614年)には豊臣方の招きを受けて大坂城へ入城。大坂冬の陣での真田丸の戦いの際には、井伊直孝隊や松平忠直隊を撃退するなどの活躍を見せる。
翌年の大坂夏の陣では激戦となった八尾・若江の戦いに参戦し、藤堂高虎隊を壊滅寸前まで追い詰めるなどの活躍を見せるが、豊臣方は敗戦して大坂城は落城。盛親は城を脱出し、潜伏生活を送る事となる。
大坂落城から約3日後に潜伏先の京都八幡付近で豊臣方の浪人たちの探索にあたっていた蜂須賀家の家臣に発見されて捕縛。
伏見に送られた盛親は、京都市中を引き回されたのちに六条河原で斬首。享年は41。盛親の5人の男子も全て処刑され、長宗我部宗家の血統は途絶える事となった。
兄を謀殺しなければ長宗我部家は存続できたのか??
この長宗我部盛親という人物は、父の元親に比べるとそれ程人気のある武将ではありません。兄の津野親忠を謀殺させた久武親直とともに、長宗我部家を滅亡に導いた元凶と見る向きもあります。
性格はかなり粗暴であったらしく、家臣からの信頼は父の元親に比べて劣っていたとみる向きもありますが、風貌は父同様に当時としては大柄な180cmはあろうかという美丈夫であったという説が残されています。
仮に久武親直の言葉に乗せられずに津野親忠を殺す事が無ければ、長宗我部家は存続を許されたのでしょうか。その可能性は確かにあったかもしれません。同じく関ヶ原本戦で西軍についた島津家は本領を安堵されていますから。
しかし、恐らくは取り潰されていたでしょう。島津家が所領安堵されたのは徹底抗戦を主張し、さらに徳川家の明との貿易にまで害が及ぶことを徳川家が恐れての事であり、島津家の高度な外交戦術が功を奏したからであり、地形的にも土佐の長宗我部家が同じことを出来たかと言われれば甚だ疑問だと言わざるを得ません。関ヶ原で前代未聞の敵中突破をはかった島津の恐ろしさを徳川家康は身をもって体験していましたが、長宗我部盛親はそれほどの脅威を家康に与える事も出来ていません。
大坂の陣での盛親の奮戦は素晴らしく、関ヶ原での汚名を雪ぐことに成功したといえます。豊臣滅亡後に自害せず逃亡した事については、身を隠して再起の軍を起こすつもりであったという説や、街道沿いに潜伏して家康を暗殺するつもりであったという説もありますが、ハッキリした事はわかっていません。
しかし自分が取り潰す事となった長宗我部家を再興するという願いを最後まで諦めなかったという事だけは確実だと思いますね。
盛親を演じるのは新選組にも出演した三谷作品常連の阿南健治さん
大坂城浪人五人衆の一人として奮戦した長宗我部盛親を真田丸の中で演じるのが阿南健治さん。大河ドラマは2000年の「葵徳川三代」、2004年の「新選組!」に続いて12年ぶり三度目の出演となります。
新選組!では主人公の近藤勇の実兄である宮川音五郎役でしたね。近藤勇の愛刀であり代名詞でもある「虎徹」を授ける重要な役どころでした。三谷作品には欠かせない名脇役ですよね。
三谷幸喜さんとの出会いは既に四半世紀にも及ぶ、この阿南健治さん。
三谷幸喜作品の時代劇では近藤勇役を任される事が多いのですが、史実では近藤勇が子供を喜ばせるために拳骨を口に入れていたという特技を、この阿南さんも出来る事が大きな理由の様です。
未だにカルト的な人気を誇っているダウンタウンの浜田雅功主演のテレビドラマ「竜馬におまかせ」でも近藤勇役でしたよね。現在恐らく日本一の近藤勇俳優と言えるかもしれませんね(笑)。
今回の真田丸では主人公・真田幸村と共に豊臣家のために徳川と戦う猛将を演じます。大坂城五人衆としてどんな活躍を見せるのか楽しみですね。
木村重成(きむらしげなり) 演:白石準也(しらいしじゅんや)
木村重成の略歴
父は豊臣秀吉の家臣である木村重茲(きむらしげこれ)、母は豊臣秀頼の乳母である宮内卿局(くないきょうのつぼね)と言われている。官位は正四位下・長門守。
文禄二年(1593年)に生まれたと言われている(異説あり)。慶長四年(1599年)には豊臣精を賜るほどに豊臣家内では重用されていたと伝えられている。
大坂の陣前には、方広寺鐘銘事件によって豊臣家の重鎮である片桐且元と対立。徳川家への恭順を図る且元に対して、重成は大野修理や渡辺糺らとともに強硬派を形成し、且元を大坂城退去へと追い込んだといわれる。
慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣では今福の戦いにおいて徳川軍を苦しめ、真田丸の戦いでも戦果を挙げるなど、若輩の身ながら敵味方に称賛される活躍を見せた。
翌慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣では、夏の陣最大の激戦のひとつである、八尾・若江の戦いに出陣。長宗我部盛親とともに陣を張り、井伊直孝軍・藤堂高虎軍と対峙。戦端が開かれると、藤堂高虎軍の右翼を撃破し、井伊直孝軍へと突撃をかけるが、数に圧倒的に勝る井伊軍によって壊滅へと追い込まれ、重成は討ち死にする。
重成は死の4か月前に、茶々の乳母であった大蔵卿局の姪を妻として迎えていたばかりであった。妻の名は青柳と言い、重成の子を身ごもっていた青柳は、重成の死後は親族によって匿われ、密かに男児を出産したといわれている。
無事重成の子を出産した青柳は、重成の一周忌を終えると自害して果てたといわれている。わずか20歳の若さであったと伝わる。
戦国屈指のイケメン・木村重成を演じるのは彼岸島主演でお馴染みの白石準也さん
長宗我部盛親の家臣であった毛利安左衛門という人物が、この木村重成の事を後年述懐したことを記した資料によると、重成は身長は高くて色白、眉は際立って目は細く切れ上がった大変な美男子であったとされています。
重成が大坂夏の陣の八尾・若江の戦いで井伊隊によって討ち取られた後、重成の首は徳川家によって首実検がされたのですが、その時に重成の髪からはほのかに香の香りが立ち込めていたそうです。
この二つからわかるように、当時の武将たちの中ではかなりオシャレな美男子というイメージが現在の木村重成という人物となっています。妻である青柳のエピソードなどみても、いかにも女子受けしそうな武将ですよね。
戦国を代表するイケメン、木村重成を演じるのが若手俳優の白石準也さん。大河ドラマは初出演となります。
NHK作品では朝ドラの「花子とアン」に出演されていますね。個人的には、毎日放送で制作された連続ドラマ「彼岸島」シリーズの主役・宮本明役が一番印象に残っています。人気漫画の実写版ですね。映画化もされています。
とにかく今注目の若手俳優ですね。ルックス的にも年齢的にもまさに戦国を代表する美男子である木村重成にピッタリな人選と言えるでしょう。熱演によって木村重成という武将がもっと注目されるよう期待したいですね。
塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき) 演:小手伸也(こてしんや)
塙団右衛門直之の略歴
生年や出身、父母などの詳しい出自は不明である。
天正十八年から二十年の間に、賤ヶ岳七本槍の一人で豊臣家の大名であった加藤嘉明に家臣として登用されたといわれている。
秀吉による朝鮮出兵には加藤家家臣として従軍。足軽に過ぎなかった団右衛門は、青地に日の丸の描かれた目立つ旗を背中にさして数々の武功を挙げて出世したといわれている。
関ヶ原の合戦では東軍についた加藤嘉明軍の鉄砲大将を任されたが、主君嘉明の命に背いて勝手に足軽を前進させたため、その罪を咎められ、加藤家を出奔したといわれている。
出奔の際に「小さきところにとどまらずにカモメは天高く飛び立つ」との意味を込めた詩を残して出ていったといわれており、この詩を見た加藤嘉明は激怒し、団右衛門を仕官させないよう奉公構を出したといわれている。
その後は小早川秀秋、松平忠吉に仕えるが、どちらも当主が早逝して家が断絶、その後は福島正則に召し抱えられるが、旧君である加藤嘉明の横やりによって再び浪人の身となる。
その後は頭を丸めて仏門に入ったとも言われているが定かではない。
慶長十九年(1614年)に豊臣家の大坂城へ入城。冬の陣では蜂須賀至鎮隊に奇襲をかけて敵将を討ち取るなど勇名をとどろかせる。蜂須賀軍への夜討ちの際に敵軍へばらまいた木札にはこう書かれていたという。
「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」
慶長二十年(1600年)の大坂夏の陣では大野治房の部隊に配属され、樫井の戦いに参加して浅野長晟軍と戦った。
折り合いが悪かったとされる岡部大学との一番槍を焦りすぎて団右衛門の隊は孤立し、混戦となった中で浅野隊の弓矢を額に受けて落馬し首を取られたといわれている。
戦国の傾奇者、塙団右衛門直之を演じるのはルックスハマりすぎの小手伸也さん
塙団右衛門は、戦国武将らしい戦国武将と言っていいかもしれません。いや、戦国武将というよりも、「傾奇者(かぶきもの)」に近いといってもいいかもしれませんね。派手ないでたちを好み、特異な行動を好む人たちの事ですね。戦国時代で有名な傾き者といえば、「花の慶次」で有名な前田慶次郎ですが、彼らと似たようなものをこの団右衛門にも感じます。
巨漢で酒好き、全てにおいて豪快で目立つことを好んだこの豪傑にとって、大坂の陣とは加藤家で受けた屈辱を晴らすための物であったような気がしますね。
そんな戦国時代の傾奇者、塙団右衛門を演じるのは小手伸也さん。大河ドラマは初出演です。俳優だけでなく、作家や演出家、声優など幅広く活躍するマルチなクリエイターですね。
小手さんが率いる自身の劇団、innerchild(インナーチャイルド)での活躍の他にも、古事記を中心とした日本の神話の研究など、一俳優にとどまらない活動をしている事でも有名な人物です。
外見は、もうはっきり言って塙団右衛門そのまま!!って感じです。NHKさん、ナイス!!って思わず声をかけたくなるほどに(笑
ド派手で豪快な戦国に咲いた豪傑・塙団右衛門。演じる小手伸也さんに要注目です。
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