真田丸キャスト 徳川四天王最強の男・本多平八郎忠勝、信之の正室・稲姫(小松殿)と側室・おこう

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真田六文銭 真田丸

その天賦の才で真田家を大名家に押し上げ、幾多の大名家と渡り合った父・真田昌幸と、雌伏の時を経て大坂の陣で武勇を轟かせ、その名を後世まで残した弟・真田信繁

そんな天才を父と兄に持つ真田信幸(信之)もまた、十分に凄い人物です。

真田家が家名を現在まで残す事が出来たのは、この信幸の功績と言ってもいいでしょう。

そしてこの信幸にも昌幸や信繁と同じく、彼を支え力になってくれた人たちがいました。

今回はそんな信幸にまつわる人たちを紹介させていただきます。

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本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)演:藤岡弘、

読みはほんだただかつ。通称・平八郎。官位は従五位下・中務大輔。天文17年(1548年)、徳川家譜代の家臣である本多忠髙の嫡男として三河国(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。

14歳で初陣を飾る。その時に早くも自力で敵陣に攻め入り、敵将の首を挙げる戦功を立てたと言われる。

「桶狭間の戦い」での今川義元の敗死に伴う徳川家康の独立後は家康麾下として「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」で大いに戦功を挙げる。同族である本多正信ら、本多氏の多くが一揆衆側について家康と戦った「三河一向一揆」においても忠勝は家康とともに戦い、家康の信頼を得る。

武田軍との「一言坂の戦い」では猛追する武田四名臣の一人、馬場信春を相手に大久保忠佐とともに殿(しんがり)を務め、これを撃退し家康を退却させる。家康の生涯で最大の惨敗と言われている武田信玄との「三方が原の戦い」では総崩れとなった徳川軍の中で、これも武田四名臣の一人、山県昌景(やまがたまさかげ)隊を撃退する。武田軍を相手には「長篠の戦い」や「髙天神城攻め」にも徳川軍の主力として参戦している。

「本能寺の変」において家康が堺で危機に陥った時には側におり、家康に「伊賀超え」を進言したと言われている。「伊賀超え」によって明智光秀による絶体絶命の危機を逃れた家康と対照的に、別ルートを選択した穴山梅雪は武装農民に襲われ命を落としている。

天正12年(1584年)に家康と豊臣秀吉が争った「小牧長久手の戦い」では小牧で留守居役を務めていたが、本隊が16万の豊臣軍によって苦戦していると聞き、わずか500の兵で救援に駆けつけ、豊臣軍の進撃を食い止めた。

その後、娘である稲姫(小松殿)を家康の養女とした後に真田家の嫡男・信幸に娶らせ、真田家と婚姻関係を結ぶ。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには東軍として関ヶ原本戦で活躍。手勢は少数ながらも90の首を挙げたという。この戦功により、伊勢・桑名に10万石を賜った(嫡男・忠政はこれとは別に大多喜5万石を受領)。

慶長15年(1610年)桑名にて死去。享年63。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国三傑全てからその武勇を称賛された戦国屈指の猛将であった。

 

この戦績を見るだけでも凄い武将である事が一目瞭然ですね。あの信長や秀吉さえも恐れを抱かせたほどの武将であり、まさに家康の天下取りの立役者といえる存在でしょう。

そんな忠勝の代名詞と言っても良いのが、彼が愛用した槍「蜻蛉切(とんぼきり)」。槍の先端に止まったトンボが真っ二つになったという逸話から名付けられた名槍です。柄の長さが通常より約1.5mも長かったとされ、扱えるのは忠勝しかいなかったともいわれています。この「蜻蛉切」を手に縦横無尽に暴れまわる忠勝を見ただけで相手は戦意を失くしてしまうほどだったそうです。

そんな名将・本多忠勝ですが、家康に対する忠義は誰よりも強く、その武力も併せて「徳川四天王」と呼ばれています(他は酒井忠次、榊原康政、井伊直政)。

同族であり、家康の参謀でもある本多正信とは仲が悪く、「佐渡(正信の通称)の腰抜け」とか「同じ一族でもあやつとは無関係」と言ってはばからなかったといいます。戦場での槍働きで家康を支えてきた武闘派の忠勝からして見れば、策略・謀略を用いるのが得意なインドア派(笑)の正信は相いれない存在だったのかもしれませんね。

そんな本多忠勝を演じるのが、男の中の男・藤岡弘、。大河ドラマは1994年「花の乱」以来22年ぶり7度目の出演。いやあ、藤岡さんと言えば大河ドラマ常連俳優さんってイメージなんですが20年以上遠ざかってたんですね。「おんな太閤記」と「春日局」で演じた織田信長役や、西国の雄・大内政弘役を演じた「花の乱」がとても印象的でした。

この作品での本多忠勝は首に大きな数珠を巻いて戦っているそうです。それは敵も味方も亡くなった者は全てが仏であり、その供養のためであったという事です。うーん、カッコよすぎるんですけど(涙)。

公私ともに武士道を重んじる事で知られる藤岡弘、さんにはうってつけの役ではないでしょうか。ルックスも内面もまさに「はまり役」って感じですね。

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稲姫(小松姫/大蓮院) 演:吉田羊

読みはいな。天正元年(1573年)生まれ。父は徳川家の重臣・本多忠勝であり、徳川家康は義父である。稲姫は幼名であり、長じて小松姫(小松殿)、また別の幼名として於小亥(おねい)とも呼ばれる。院号は大蓮院(だいれんいん)。

諸説あるが、天正14年から18年(1586年~1590年)の間に徳川家康の養女となって真田信幸に嫁いだといわれている。

信幸の7歳年下であったが、元和6年(1620年)に湯治療養へ向かう途中の武蔵国にて死去。享年48。信之の死去に先立つこと、何と38年であった。

 

真田家を描くうえで欠かせない人物の一人、真田信幸(信之)の正室・稲姫です。

この稲の最も大きな逸話と言えば、何といっても関ヶ原の戦いの際に父・昌幸を追い返したというものでしょう。

犬伏で西軍に味方する事に決めた昌幸と信繁に対して稲の夫・信幸は東軍に味方する事となり、親兄弟で別れる事となります。犬伏から本拠地・上田城に戻る昌幸・信繁は途中にあった信幸の居城・沼田城へと立ち寄ります(単に休憩して孫の顔を見たかったためとも、あわよくば沼田を落として手柄にするためだったともいわれています)。

しかし、夫からの知らせで敵として東西両軍に別れたと知らされていた稲は、一歩も城へ入る事を許さず敢然と昌幸を追い返し、昌幸から称賛されたのです。

まあこの有名な逸話は、稲が当時人質として西国にいた可能性も示唆されているなど、後世の創作という説もあるのですが、この稲の見せ場を三谷幸喜がどう描くのか非常に興味深いところですね。

それ以外にも、自身が病に倒れた晩年には、京の才女・小野お通に想いを寄せる夫・信之に対して、「そろそろ京のお人をこちらに迎えられてはどうですか」と自身亡き後の信之を案じるなど、信之の身を常に案じたと言われています(結局信之はお通を側室として迎える事はなかった)。

「真田丸」と何かと比較対象とされる「真田太平記」では若き日の紺野美沙子さんが演じられていましたね(いやぁ、ホント綺麗だったなあ・・)。最初はプライドの高いわがままお嬢さん、真田に嫁に来てからは信之を支える内助の妻、という難しい役柄でしたが、美しくも可愛い稲を見事に演じ切っていました。

今回は今を時めく旬な女優、年齢非公表ながらも先日発表された「日本ジュエリーベストドレッサー賞」の40代部門を受賞した事で40代である事が判明してしまった(笑)、吉田羊(よしだよう)さん。大河ドラマ出演は2011年の「江~姫たちの戦国~」、2012年の「平清盛」に続いて4年ぶり3度目。とは言っても前2作はほんの数回の出演に過ぎないので、実質これが大河デビューのようなものかもしれませんね。

ここ数年のうちに、脇役から主演級の女優として、さらにCMや司会に次々と起用されるなどあっという間に時の人となった吉田羊さん。女優としてはキャリアウーマン系や意識高い系、強い女系の役が多い吉田さんですが、今回は強い面と信之を陰ながら助ける良妻賢母の面を併せ持つ吉田羊さんを見られるかと思うと非常に楽しみですね。


こう(静音院) 演:長野里美

真田幸綱(幸隆)の嫡男・真田信綱の娘。昌幸は叔父であり、信幸・信繁はいとこにあたる。いとこである信幸の側室となる。別名は静音院。

父は「長篠の戦い」で壮絶な討ち死にを遂げた真田家当主・信綱。信綱亡き後真田家を継いだ昌幸の嫡男・信幸に嫁ぎ、側室になったと言われている。生没年は不明。

 

このこうの詳しい経歴は不明ですが、真田信綱の娘で信幸の側室であったことは間違いない、実在した歴史上の人物です。

このドラマの中では真田を想う気持ちの強い、病弱な女性として描かれるとの事です。詳しい経歴はわかっていないので三谷幸喜がどう描くのか全く読めませんが、逆に楽しみであるとも言えますね。

こうを演じるのが長野里美さん。大河ドラマは初出演ですが、大学時代からあの鴻上尚史率いる劇団「第三舞台」で活躍しており、ドラマも舞台も経験豊富な女優さんです。夫はこれまた舞台にテレビに映画に欠かせない名脇役・上杉祥三さん。上杉さんは「風林火山」や「毛利元就」など大河8作品に出演している大河ドラマ常連さんでもあります。

こういう実力派の女優さんが脇でしっかり演技してくれるからドラマが安心して見られるんですよね

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