大坂の陣で豊臣方の主力武将としてその名を馳せた大坂城五人衆と呼ばれた男たちがいました。
真田丸の主人公である真田信繁、黒田家重臣・後藤又兵衛、宇喜多秀家腹心のキリシタン・明石全登(あかしてるずみ)、四国の覇者、長曾我部元親の子・長曾我部盛親、そして信繁とともに徳川家康を切腹寸前まで追い詰めた猛将・毛利勝永の5人です。
ここではその中から毛利勝永をご紹介したいと思います。
毛利勝永(もうりかつなが) 演:岡本健一
略歴:秀吉家臣時代~豊前大名時代
毛利勝永(もうりかつなが)またの名を毛利吉政とも。出家後は一斎。官位は従五位下・豊前守。通称毛利豊前(もうりぶぜん)とも言われる。
天正六年(1578年)、羽柴秀吉家臣の森吉成の子として産まれる。生誕地は尾張とも近江長浜とも言われている。
父・森吉成も出陣した豊臣秀吉の九州平定事業で吉成は豊前6万石の大名へと出世し、勝永にも知行が与えられた。この時に森家は森姓から毛利姓へと名を変えたと言われている。
慶長の役では蔚山倭城攻略などで戦功を立てるが、慶長三年(1598年)の豊臣秀吉死去により、日本軍は大陸から撤退、慶長の役は終わる。秀吉死去による形見分けでは、さださねの刀を拝領した。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては石田三成率いる西軍につき、父・吉成が豊前を守り、勝永は上方で指揮を執った。西軍が徳川家康の重臣・鳥居元忠の籠城する伏見城を攻めた伏見城の戦いでは、伏見落城に大きな働きをしたとして感状と3千石の加増を受けた。
関ヶ原本戦では安国寺恵瓊の指揮下に置かれたが、目だった働きは出来ずに西軍は敗戦し、恵瓊は捕縛され斬首。戦場を離脱した勝永であったが、すでに父・吉成の守る豊前小倉城は同じく豊前の大名であった東軍の黒田官兵衛によって奪われており、吉成・勝永親子は西軍に味方したとして改易処分となってしまう。
山内家臣時代~大坂夏の陣 真田信繁とともに家康を追い詰める
豊臣恩顧の大名であった加藤清正の下に身を寄せた後、父や弟など一族と一緒に、東軍について土佐一国の大名となった山内一豊の家臣となった。
慶長十九年(1614年)に徳川家と豊臣家の関係が悪化して武力衝突が避けられなくなると、豊臣家は全国の名だたる武将たちに味方するよう書状を出す。豊臣秀頼からの誘いを受けた勝永は、主君山内家から出奔し、土佐を脱出。海路で大阪へと上陸し大坂城入城を果たした。豊臣秀吉以来の豊臣恩顧であり、天下にもその名の知れ渡った毛利勝永の大阪入城に大阪勢は大いに盛り上がったと言われている。
同年の大坂冬の陣では目立った活躍が無かったものの、翌慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣で勝永は後世に語り継がれるほどの獅子奮迅の活躍を見せる。
5月6日の道明寺の戦いで、真田信繁とともに後藤又兵衛の後詰をする予定であったのが、濃霧により真田・毛利隊の着陣が遅れ、戦場で孤立した後藤又兵衛隊は壊滅、大阪五人衆の一人、後藤又兵衛は相手陣地に突撃をかけ壮絶な討ち死にを果たした。この時に責任を感じて自刃しようとした信繁を勝永が諫めたという逸話が残っている。
後藤又兵衛の率いた敗残兵は毛利勝永の軍に組み込まれ、翌7日の天王寺口の戦いで勝永は4千の兵を率いて徳川家康本陣前に布陣。
戦火がきられると、勝永は電光石火の攻撃で本多平八郎忠勝の子・本多忠朝や小笠原秀政親子らを瞬く間に討ち取って徳川軍を撃破。さらに居並ぶ諸将の中を駆け抜け、ついに真田信繁とともに徳川家康本陣へと突撃をかけた。大混乱に陥って一時は死を覚悟したともいわれる家康であったが、圧倒的な兵力に物を言わせて盛り返す。
真田信繁隊が壊滅状態に陥ると、毛利勝永隊も四方を敵に囲まれ絶体絶命の危機に陥り、退却を開始する。笠にかかって追撃してくる徳川軍に対し、勝永は見事な殿戦(しんがりせん)を決行。数倍の徳川軍を背に受けながら見事に大坂城撤退を成功させる。
翌5月8日、大坂城は徳川軍によって包囲され、遂に豊臣秀頼や淀の方は自害する。秀頼の介錯を務めたのは勝永であったと言われている。
秀頼を解釈した後、嫡男の毛利勝家、弟の山内吉近とともに切腹して果てた。享年37。
真田信繁を上回る程の活躍を見せた男・毛利豊前守勝永
真田丸は言うまでもなく真田信繁が主人公のドラマであり、その真田信繁の名を後世まで残したのは大坂の陣での活躍です。冬の陣では真田丸を築いて徳川軍を寄せ付けず、夏の陣では乾坤一擲の突撃で家康を切腹寸前まで追い込んだと言われています。
しかし大坂夏の陣だけに限れば、この毛利勝永が信繁と並ぶMVPだったと言ってもいいでしょう。それほど勝永の働きは信繁と並んで傑出していました。
毛利勝永と真田信繁が徳川本陣に決死の突撃をかけた天王寺口の戦いでの称賛は、今でも様々な資料で確認する事が出来、外国人宣教師の伝える資料にもある程だったのです。
信繁はその後、江戸時代の講談などで真田十勇士などの脚色もあって人気を博して今に至ります。もしも江戸時代の講談師が真田信繁ではなく、毛利勝永を選んで毛利十勇士などを登場させていれば、現在の人気はそのまま信繁と勝永全く正反対となっていたことでしょう。
その意味では非常に不運な武将と言えるかもしれません。勝永の大坂夏の陣での働きはもっと評価されてしかるべきだと思いますね。
さらに日本人受けしそうなのは、大坂城入城エピソードです。
真田信繁、長曾我部盛親、後藤又兵衛、明石全登の四人は豊臣家からの誘いを受けた時には浪人の身でした。つまり失うものがほぼ何もない状態だったのです。
しかし勝永は土佐山内家から1千石を与えられており、食うには困らない身分でした。勝永は自分を大名へと取り立ててくれた豊臣秀吉の嫡男・秀頼の誘いを受け、その座を捨てて大阪へ馳せ参じたのです。次男を人質として土佐に残し、現在の主君を欺いてまでも(次男は大坂の陣後に死罪)。まさに豊臣家に殉じた男なのです。
この真田丸で少しでもこの名将・毛利勝永の名が知られる事を切に祈りたいですね。
男闘呼組として一世を風靡したスーパースター、岡本健一が20年ぶりに大河に帰ってきた!
歴史好きには知られているが、一般的な知名度はイマイチである悲運の名将・毛利勝永。
この勝永を真田丸で演じるのが岡本健一さん。大河ドラマは1987年の「独眼竜政宗」、1996年の「秀吉」に続いて20年ぶり3度目の出演となります。
岡本健一さんと言えば、現在の若い人たちにとってはジャニーズ事務所のアイドルグループ、Hey! Say! JUMP(ヘイセイジャンプ)のメンバーである岡本圭人さんの父親というイメージが強いのかもしれません。
しかしわたしのような40代の人間にとっては紛れもなく80年代から90年代を彩ったスーパースターなのです。ジャニーズ事務所の異端児扱いされていたロックバンド・男闘呼組(おとこぐみ)のギタリスト&ヴォーカリストであり、多くのドラマにも出演する売れっ子でした。
ルックスも恐らく歴代のジャニーズのタレントの中でも恐らく一・二を争う美形であり、わたしの周りではメチャクチャ人気がありましたね。
ちなみに、同じく男闘呼組のメンバーでベース&ヴォーカルだった高橋和也さんも宇喜多秀家役としてこの真田丸に出演しています。男闘呼組を知っている世代にとっては堪えられない配役なのではないでしょうか。
二十年ぶりに大河ドラマ出演を果たした岡本健一さんが演じる役どころがこの毛利勝永であるという事は、非常に期待してしまいますね。
近年は舞台俳優として確固たる地位を築いている実力派であり、ルックスも抜群の岡本健一が演じる事によって、間違いなくこの毛利勝永という不遇の武将にはスポットライトが当たるはずです。
名将毛利勝永が大坂の陣でどんな活躍を見せてくれるのか、岡本健一さんがどんな毛利勝永像を作り上げるのか、また一つ大きな楽しみがやってきそうですね。
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