真田丸キャスト 金吾(きんご)小早川秀秋 関ヶ原の裏切者、寧の甥と太閤秀吉の弟、大和大納言・豊臣秀長

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真田六文銭 真田丸
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小早川秀秋(こばやかわひであき) 演:浅利陽介

こばやかわひであき。幼名を辰之助。通称・金吾(きんご)。官位は従三位・権中納言(ごんのちゅうなごん)。豊臣秀吉の正室・寧の甥にあたる。

天正十年(1582年)、近江長浜城主・羽柴秀吉の正室・寧(おね、ねね、北政所、高台院とも)の兄である木下家定の五男として近江・長浜に生まれる。

天正十三年(1585年)、四歳の時に世継ぎの無かった叔父・秀吉の養子として豊臣家に入る。幼少の秀秋は寧によって育てられていたと伝えられている。

天正十七年(1589年)にはわずか8歳でありながら丹波国・丹波亀山城10万石の大名となり、その後は従三位・権中納言に任官されるなど異例の出世を遂げる。世継ぎの無かった豊臣家にあって、豊臣秀次に次ぐ豊臣家の後継者と目されていたという。

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しかし文禄二年(1592年)に秀吉に待望の跡継ぎである拾(後の豊臣秀頼)が誕生。すると、秀秋には中国地方の雄・毛利輝元への養子縁組の話が持ち上がる。結局、秀秋は毛利家の傍流である小早川隆景の養子となる事になり、名を小早川秀秋と改めた。

慶長二年(1597年)の慶長の役では朝鮮へ渡るもこれといった戦果を挙げられずに帰国。その後、筑前30万石から越前15万石へ移封となった。一説ではこの越前への移封が秀秋の関ヶ原での決断に大いに影響を与えたとも言われている。

慶長三年(1598年)に秀吉が死去すると、秀秋は旧領である筑前30万石を回復。

そして慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを迎える。秀秋は石田三成率いる西軍に参加、1万5千の大部隊を率いて関ヶ原の松尾山に陣を構えた。しかし、既にこの時秀秋は徳川家康により、東軍へ内応していたといわれている。

戦の先陣がきられて間もなく、松尾山の小早川軍は全く動こうとはしなかった。家康は秀秋に動くよう催促の軍令を何度も送ったといわれている。戦況が一進一退で進む中、ついに小早川隊が松尾山を駆け下りた。向かった先は山の下で東軍と戦っていた西軍・大谷吉継の部隊。吉継は予め秀秋の裏切りに備えて兵を割いていたため、寡兵ながらも小早川の大軍を一時押し返す奮戦を見せるが、同じく西軍であった脇坂安治や朽木元網らの裏切りによって大谷隊は壊滅。

この秀秋の裏切りによって均衡を保っていた関ヶ原の軍事バランスは大きく崩れ、一気に東軍が西軍を撃破。長期戦が予想された天下分け目の関ヶ原の戦いはわずか一日で決着する事となった。

戦後、秀秋は関ヶ原での活躍によって岡山藩55万石に大加増される。

しかし秀秋が岡山藩主であったのはわずかに2年に過ぎなかった。慶長七年(1602年)に小早川秀秋は21歳の若さで急逝する。死因としては諸説あるが、最近ではアルコール依存症説が有力となっている。そしてこの秀秋の死によって、跡継ぎのいなかった小早川家は断絶となった。

小早川秀秋。そう、あの小早川秀秋です。

世界的に有名な裏切者の名といえば、旧約聖書に出てくる「ユダ」。イエス・キリストを裏切ったキリストの弟子ですね。その他にはローマ帝国のブルータス。ローマ皇帝ユリウス・カエサルを暗殺した人物です。カエサルの最期の言葉、「ブルータス、お前もか」はあまりにも有名ですね。

これらの人物と並んでこの日本で裏切者の代名詞とされているのが、この小早川秀秋です。

今年の初めに世間を騒がせた日本を代表するスーパーアイドルグループの独立騒動では、その中の一人のメンバーの事を小早川秀秋になぞらえている書き込みなどがネットでも良く見られたのは記憶に新しいところです。

それほどまでにこの小早川秀秋の裏切りというのは日本人にとってあまりにも印象的なのです。何故かというと、小早川秀秋のこの生き方がやはり日本人が本質的に最も嫌うべき、忌むべき生き方だからに他ならないでしょう。

秀秋はこの裏切りによって岡山50万石の大大名へと飛躍を遂げます。一族であった豊臣家への裏切り、仲間たちへの裏切りによって得た報酬です。しかし日本人はこのような出世を最も嫌います。もちろん、織田信長にしても豊臣秀吉にしても、徳川家康にしても汚い事は山ほどしています。していますが、やはりここまで見事で鮮やかで衝撃的な(笑)裏切りはさすがにありません。やはり裏切りの舞台が天下分け目の関が原であったというのが余計にインパクトを与えているともいえます。

彼の裏切りは結果として豊臣家の滅亡の最も大きな原因であったとわたしは今でも思っています。関ヶ原で西軍が負けなければ豊臣家の滅亡はなかったと思うからです。逆に言うと、関ヶ原で負けた事で豊臣家の命運はほぼ決まったともいえますね。

彼の死因はアルコール依存症だといわれていますが、根強く残っている説に、精神を病んで発狂して果てたというものがあります。関ヶ原での裏切りによって精神が崩壊してしまったというのです。彼が裏切って切腹して果てた大谷吉継が夜な夜な亡霊として現れたという異説もあります。真偽は別として、当時の人々の間ではそのような風聞が立てられてもおかしくない程の事をしたと思われていたという事ですね。まあそれは現代においてもほとんど変わっていませんが・・



そんな「裏切者」、金吾小早川秀秋を演じるのは若手実力派俳優・浅利陽介。大河ドラマは2014年「軍師官兵衛」以来2年ぶり8度目の登場となります。

特筆すべきはその「軍師官兵衛」でも小早川秀秋を演じたという事です。もはや日本一の小早川秀秋俳優といってもいいかもしれません。迷惑かもしれませんが(笑)。しかしこの小早川秀秋程演じるのが難しい人物もなかなかいないのではないでしょうか。そういう意味ではやはりこの浅利陽介の実力派恐るべしかもしれません。

ちなみに三谷幸喜の大河ドラマ「新選組!」にも主人公・近藤勇の養子・近藤周平役で出演しています。当時は若干17歳。しかしその演技力は周りの実力派俳優と比べて全く見劣りしないほど見事な物でしたね。

今やテレビに映画に舞台にCMにと、見ない日はないというほどの活躍を見せる浅利陽介。彼が演じる小早川秀秋は果たして、「不忠の裏切者」なのか、それとも「悩める若者」なのか・・楽しみで仕方がないじゃあありませんか。

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羽柴(豊臣)秀長 演:千葉哲也

豊臣秀吉の弟。幼名は小一郎、小竹(こちく)。羽柴秀長より豊臣に改姓。母はなか(大政所)。官位は従二位・権大納言(ごんのだいなごん)。通称・大和大納言。

天文九年(1540年)、尾張国中村に生まれる。母は後の大政所、なか。父はなかの二番目の夫となる竹阿弥(ちくあみ)。兄の豊臣秀吉とは異父兄弟となる。妹は旭姫

織田家家臣として秀吉が頭角を現すと、秀吉の片腕として政に戦にと兄を支えた。近江・長浜時代は兄・秀吉に代わって城代を務める事もあったという。秀吉が中国・毛利攻めの大役に任ぜられると羽柴軍の重鎮として歴戦する。播磨での三木合戦や毛利との「鳥取城攻め」、「高松城水攻め」などでも戦功を挙げている。

織田信長が本能寺の変で横死した後は更に秀長の才能が発揮される事となる。戦のみに関わらず、徳川家康との「小牧長久手の戦い」では講和交渉に尽力し、その後の秀吉の天下平定作業となる紀州攻め、四国攻め、九州平定には最高司令官として辣腕を振るった。名実ともに豊臣家のナンバー2という立場であった。

しかし天正十八年(1590年)の秀吉の天下平定の総仕上げとなった北条家への(小田原征伐)には病のために不参加。この頃にはすでに病で伏せる事が多かったといわれている。

翌天正十九年(1591年)に領国である大和郡山城にて病死。享年52。秀長には実子となる嫡男がいなかったため、家督は甥である豊臣秀保が養子となって継いだが、その秀保も秀長の死から4年後に17歳の若さで病没。大和豊臣家の家系はここで途絶える事となった。

 

豊臣秀長。まさに豊臣家の大黒柱であり、兄秀吉を生涯にわたって支え続けた男です。

よく言われているのが、この秀長がもし家康ほどの長寿であったのならば、豊臣家の滅亡は無かったであろうという事です。それほどまでにこの秀長の52歳での死去はあまりにも豊臣家にとって痛かったのです。

秀吉の晩年の愚行とされているもの、千利休の切腹、甥である豊臣秀次の切腹とその一族の処刑、そして朝鮮出兵・・これらの全ては秀長の死去後の出来事です。これらの事柄も秀長が生きていれば無かったであろうといわれています。それほどまでに秀長の存在というのは、秀吉にとっても大きかったのです。いってみれば、豊臣家の良識の府であり、秀吉の暴走を諫める役割でもあったのがこの秀長なのです。

秀吉亡き後、豊臣家にあってあの似ても焼いても食えない「たぬき親父」徳川家康に対抗できるほどの能力と人望を持った人間はこの秀長以外になかったと言われるほどの男、そんな秀長を演じるのが、舞台で活躍する俳優でもあり演出家でもある千葉哲也さん。大河ドラマは2003年の「武蔵 MUSASHI」以来13年ぶりの登場となります。

これだけの大人物でありながら、秀長という人物は非常に影の薄い存在ともいえます。大河ドラマでもあまりスポットライトが当たらない存在でもあるのですが、そんな中で一番秀長を詳細に描いたのが、1994年の大河ドラマ「秀吉」ではないでしょうか。今回真田丸で北条氏政役の高嶋政伸さんが兄に尽くす弟を見事に演じられましたね。

今回も清濁併せ持つ秀吉に対してどのような秀長となるのか非常に楽しみですね。これだけの人物です。この千葉哲也さんの豊臣秀長を機にもっともっと光が当たる存在となって欲しいものです。

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