真田丸 キャスト 石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり) 大一大万大吉を旗印に戦った義の武将

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真田六文銭 真田丸

石田治部少輔三成(いしだじぶのしょうみつなり)。

最近でこそ人気の高いこの豊臣家五奉行の一人、三成ですが、少し前までは「器の小さいいけすかない嫌な奴」という評価も多い武将でしたね。

まあその評価はあながち間違いなわけでもないのですが、わたしは戦国時代の中でも最も好きな武将の一人です。

なぜか?それは彼が私利私欲を全く持たず、人生の全てを豊臣家に捧げたからです。

戦国武将の中でも最も誤解を招きやすい人物の一人、それが石田三成という男であり、だからこそ石田三成は魅力的なのです。

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石田治部少輔三成(いしだじぶのしょう)の生涯

いしだみつなり。幼名は佐吉。官位は従五位下・治部少輔。通称・石田治部少(いしだじぶ・いしだじぶのしょう)。

永禄三年(1560年)、石田正継の次男として近江国石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて生まれる。兄は石田正澄。

天正二年(1574年)から天正五年(1577年)頃に父・正継、兄・正澄とともに羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となったと言われている(時期については諸説あり)。秀吉の出世とともにその才覚を発揮。秀吉の「中国攻め」、「賤ヶ岳の戦い」、「小牧長久手の戦い」などにも参戦する。天正十三年(1587年)に秀吉が関白となって豊臣姓を賜ると、三成も従五位下・治部少輔に任官。

その後は豊臣秀吉の下、その卓越した行政手腕を発揮。特に太閤検地では中心的な役割を果たし、荘園制度以来残っていた中間搾取層を廃して税収を直接耕作人から徴収する制度を作った功労者である。

秀吉による北条家の討伐戦である「小田原の役」では忍城攻めに参加。文禄元年(1592年)の文禄の役では総奉行を務める。慶長二年(1597年)の慶長の役においては日本に残留して遠征軍の後方支援に努めた。慶長三年(1598年)に主君・秀吉が没すると、朝鮮へ渡っていた遠征軍の帰国、敵軍との和平工作などの戦後処理を行い、無事に出兵していた日本軍を帰還させている。

秀吉の死後は遺児である豊臣秀頼が後を継いだが、年少の秀頼に対して徳川家康が台頭し、禁じられていた大名との婚姻関係を結んでいくなど、勢力の拡大を図っていく。これに対抗すべく豊臣家の重鎮・前田利家を旗頭に立てて家康の野望阻止に奔放する三成であったが、そのさ中の慶長四年(1599年)、三成との対立が決定的となっていた豊臣家の武断派である加藤清正福島正則、黒田長政などの七武将が石田三成の大阪屋敷を襲撃するという事件が起きる。事前に襲撃を察知した三成は京都の伏見城へと逃げ延びる。この対立解消のために動いたのが三成の政敵であった徳川家康。家康の仲裁によって、三成は豊臣家五奉行を辞し、居城である佐和山城で蟄居謹慎となってしまう。

慶長五年(1600年)には徳川家康が上洛命令に従わない上杉景勝を討伐するために「会津討伐」の軍を起こし、東へと軍を向かわせる。この機に三成は家康討伐軍を決起し、西国の大大名・毛利輝元を総大将とする。伏見城を落とした三成率いる西軍は、会津から引き返してきた家康の東軍と美濃国・関ヶ原で天下分け目の戦いで雌雄を決する事となった(関ヶ原の戦い)。

勇猛に戦った三成であったが、味方主力であるはずの毛利・吉川軍は全く戦わず、同じく主力である小早川秀秋の裏切りによって戦局は一変、西軍は総崩れとなり三成も敗走、戦は東軍の大勝利に終わる。

関ヶ原から逃避行の末、近江国に潜伏しているところを東軍の田中吉政に捕まり、家康の下に連行される。捕縛から10日後に京都・六条河原にて斬首。享年41。

以前に比べると好意的に描かれる事が多くなった石田三成

とかく賛否両論が別れる武将ですね。好きな人と嫌いな人にはっきりと分かれる人物です。

以前は否定的に語られる事の多かった人物だと記憶しています。家康サイドを描く物語では当然悪役として描かれますが、秀吉サイドを描く場合にも、秀吉の負の部分(例えば甥の秀次粛清など)を三成に背負わせて悪く描く事も多々あったような気がします。一番印象深いのは、関口宏さんが司会を務めていた日本テレビの看板番組でもあった歴史上の偉人・有名人の生涯を紹介する「知ってるつもり?!」で石田三成が取り上げられた回です。

この放送回はたまたまオンタイムで見ていたのですが、それはそれはもう恐ろしいほどの三成叩き(笑)。恐らく自分は20代前半くらいだったと思うのですが、どちらかというと家康よりも秀吉好き、東軍武将よりも西軍武将好き(裏切者や傍観者除くw)な自分にとってはかなりショッキングな内容でしたね。誰だかははっきり覚えていませんが、著名な歴史作家の先生はもう三成をボロクソ(笑)。再現VTRも三成に対して悪意に満ちた作りであり、最後は司会の関口宏を初めとした出演者一同の「嫌なやつだねー」で幕を閉じたのを覚えていますね。あれはあまりにも偏りすぎでしたね。あの放送を見てますます三成擁護派になりましたからね(苦笑)。とはいえ、わずか二十数年前でも三成という男はそういう負のイメージの多い男でもありました。

今でも嫌いな人は嫌いなのでしょうが、昔とは比較にならない程三成ファンが増えているのもまた事実です。何故か?それは三成が「義」に生きた武将だったからに他ならないからだと思います。

三成のパブリックイメージとは?

三成の負のイメージというと、

  1. 人望が無く器が小さい
  2. 官僚的でプライドが高い
  3. 秀吉の威光を笠に着た腰巾着

というようなものが代表的なんだと思います。

1と2については概ね当たっているのではないでしょうか。関ヶ原で徳川家康との決戦のために決起した三成が親友である大谷吉継に助勢を頼んだ時に吉継はこういったと言われています。

「お主には人望がない。横柄で傲慢な人間だと皆が言っている。お主が豊臣のためを思えば思うほど、お主に反感を持つ者が徳川に流れてしまう。故に徳川との決戦ではお主は影に徹して、総大将には豊臣家五大老の毛利輝元をたてるが好いだろう」

まあもの逸話が真実かどうかはともかくとして、三成が嫌われものであった事はその他の資料などでもいくらでも残っています。仕事は出来るが、鼻持ちならない嫌な奴という感じのものですね。

しかし3に関してはちょっと待ってくれ!と言いたくなってしまいますね。

私利私欲無く、全てを主君・豊臣家のために捧げた石田三成

三成という男は、秀吉によって取り立てられ、秀吉によって城持ち大名にしてもらいました。そのことに対する恩義は凄まじいほどのものでした。

三成という男は、主君から貰ったものは全て主君のために使うべきであって、私利私欲のために使うものではないという信念がありました。他大名のように居城に豪華な庭を作ったり豪華な食事を摂ったりすることもなかったと言います。秀吉の片腕であり、五奉行の筆頭という天下を動かす地位にありながらその暮らしは質素極まりないものであったと言われています。

三成は優秀な官僚ではあったのですが、戦は苦手と言われていました。そこでその弱点を補うために天下にその名が轟いていた島左近清興という名将を家臣として招くことにしました。左近は浪人中の身であったのですが、三成は当時としては考えられない程破格の待遇で左近を家臣に引き入れたと言われています。ある武将が三成に対して、「これほど主君と家臣の知行(領地)の差がないなどとは聞いた事がない」というと、三成は「主君から貰ったものを主君のために使うのは当たり前だ」と答えたと言われています。

三成の考え方はこういったものでした。ただし、三成はこれが全ての豊臣家家臣、いや武士にとって当たり前のものであると考えていたのです。当然三成のこういった清廉潔白で融通の利かない性格を疎ましく思っていた人間がたくさんいたであろうことは想像に難くありません。

全てにおいて、主君である豊臣家のためにという行動原理で動いていた三成の行動や言動は、三成のそういった信条を知らない人たちにとってみれば、秀吉の歓心を買うためのおべっか使い、腰巾着に見えていたのかもしれませんね。

大谷吉継との友情エピソード、そして三成のために死を賭して戦った家臣たち

三成という男は基本的におべっかなどは使わず、人に媚びを売るような人間ではなかったのですが、親しい人間にはとことん尽くす武将でした。豊臣秀吉はもちろんそうなのですが、彼が最も中野よかった武将に大谷吉継がいます。吉継と三成の友情を示す有名な逸話をご紹介しましょう。

吉継は秀吉によって大名に取り立てられた有能な武将だったのですが、ハンセン病(梅毒説もあり)を患っていました。顔は崩れて白頭巾をかぶっていたと言われています。

ある日、豊臣家の大名たちで茶会が催され、三成と吉継も出席しました。一つの茶碗に入れられたお茶を並んだ大名たちが回し飲みしていくのですが、吉継が飲むときに吉継の鼻水がお茶の中に入ってしまったと言います。それを見ていた大名たちはひどく驚き、吉継の後にお茶が回ってきた大名たちはみな、お茶を飲むふりをしてお茶を次の人に回していたといいます。もちろんそんな状況に吉継も気付いていました。そして三成の順番が来ます。三成は誰も口をつけようとしなかったお茶を全て飲み干してしまったのです。

大谷吉継は関ヶ原の戦いで真っ先に石田三成とともに徳川家康と戦う事を決めます。しかし吉継は三成が家康に勝てないことを悟っていたとも言われています。しかしこれほどまでに強い友情で結ばれていた友のために死を覚悟のうえで西軍についたのです。

三成の家臣であった島左近、蒲生郷舎(がもうさといえ)、渡辺勘兵衛なども関ヶ原では獅子奮迅の戦いを見せてその命を散らせます。その鬼気迫る戦いぶりは徳川軍を震え上がらせたと言われています。それは何よりも三成がそれほど家臣に慕われていたという何よりの証だと思います。主君のために命がけで戦ったのです。

これらは三成が身近な人を大切にしていたというこれ以上ないエピソードではないでしょうか。

旗印である「大一大万大吉」に込めた三成の思い

わたしは真田の六文銭と同じくらい、石田三成の旗印が好きです。

三成が戦の際に使用した旗印が「大一大万大吉」というものです。

大一大万大吉2

大一大万大吉の意味とは、「天下万民は一人のために、一人は天下万民のために、それぞれ尽くす事で天下泰平は成る」という意味であると言われています。

私心がこれっぽっちも無かった如何にも三成らしい旗印だと思います。

実際に三成が治めていた近江国・佐和山では三成処刑で領主が変わった後も三成を慕う領民が多かったと聞きます。三成が善政を敷いていたからに他なりません。これも豊臣の世を守るためには民が最も大切なのだという三成の明確な信念によるものであったのだと思われます。

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関ヶ原で東軍西軍に別れた豊臣家・・果たしてどちらが正しかったのか?

三成はこのようにあまりにも己の信念を貫きすぎ、さらにそれは当たり前のことだという意識が強すぎたが故に、その清廉潔白さで自身の首を絞めたとも言えるのかもしれません。関ヶ原の戦いでは三成と同じく秀吉によって取り立てられ、大名にまで出世した子飼いの武将達、加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明らが徳川家康について東軍として戦いました。

彼らが家康側についたのは、家康がうまく彼らの三成に対する反発心を利用したためと言われています。三成は徳川家康の存在が豊臣家の存在を脅かすものであると危惧して挙兵しました。一方、家康側についた秀吉子飼いの武将たちも、三成の存在こそが豊臣家の禍を招くとして東軍に参加したと言います。

結果はどうであったか・・

歴史が証明しています。関ヶ原で勝利を収めた家康は幕府を開いて天下人に。一方の豊臣家は一大名へと成り下がり、挙句の果てには大坂の陣で滅亡させられます。加藤清正や福島正則、浅野幸長らは関ヶ原の戦い後は徳川家と豊臣家の仲裁に尽力しますが、時すでに遅し。豊臣家の御為を本当に思ったのであれば、関ヶ原では豊臣家のためにという大義名分のもとに三成と力を合わせて家康を排除すべきだったのです。

もう一度言わせてください。どちらに先見の明があったのかははっきりと歴史が証明しているのです。


土方歳三を演じた山本耕史(こうじ)が義に生きた男を演じる

こんな不器用な男(笑)、石田三成を「真田丸」の中で演じるのが山本耕史。大河ドラマは「新選組!」、「平清盛」らに続いて4年ぶり4作目の登場となります。

その自他を問わない厳しさ故に周りから疎まれる。しかし心底自らが信頼した人間のためには自らが悪役となる事を全く厭わずに尽くす・・三谷幸喜の大河ドラマ「新選組!」での鬼の副長・土方歳三役を彷彿とさせますよね。

個人的には山本耕史の石田三成と片岡愛之助の大谷吉継はわたしが真田丸のキャストの中でも最も楽しみにしていた部分です。過去にも様々な名優が大河ドラマで石田三成を演じて来ました。わたしが観てきた大河ドラマで言うと、宅麻伸、鹿賀丈史、奥田瑛二、伊武雅刀、真田広之、江守徹、原田龍二、中村橋之助、小栗旬、萩原聖人、田中圭・・

良き人に描かれたものもあれば嫌な奴に描かれていたものもありましたね。特に一昨年の「軍師官兵衛」における三成は本当に嫌な奴でした(笑)。まさに「小物!」って感じでしたね。まあそれは黒田官兵衛が主人公である以上は仕方のない部分かもしれません。秀吉か三成、どちらかは確実に泥をかぶらなければならないと思います(官兵衛の行動を正当化するためには)。

今回は豊臣家に尽くした忠臣としての三成が描かれるのではないでしょうか。己を厳しく律し、周囲にも決して妥協を許さない三成。周囲の誤解を恐れずにひたすら豊臣家のために尽くす三成が。

多分に三成びいきなわたしにとっては理想的な石田三成が登場するのではないかという期待しかありません。

山本耕史の演技力は何も心配ありません。三谷幸喜も石田三成という男は絶対に好きな武将のはずです、これは自信があります(笑)。こういう偏った人間は三谷幸喜は基本的に好きだと思います(笑)。

三成と吉継の友情、豊臣秀吉への、豊臣家への義、そして悲劇の関が原・・見どころは山ほどありますね。ただ心配なのは、関ヶ原の戦いをどれくらい詳細に描いてくれるのかという部分ですが・・こればかりは分かりません(笑)。ただ言えることは史上最高の石田三成が見れるであろうという事だけですね(ハードル上げすぎですか?w)

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