伊達政宗(だてまさむね) 演:長谷川朝晴
伊達政宗の略歴
仙台藩初代藩主であり、奥州の戦国大名・伊達家の第十七代当主。幼名は梵天丸。通称・藤次郎、独眼竜。
永禄十年(1567年)八月三日、出羽国米沢城にて、戦国大名・伊達家の十六代当主である伊達輝宗と義姫の間に伊達家嫡男として生まれる。
政宗がまだ幼少の折、当時流行していた高い致死率を誇る伝染病・天然痘にかかり、生死の境を彷徨う。奇跡的に生還したが、後遺症として右目の視力を失い失明する。彼が後に「独眼竜」と呼ばれるようになったのはこのためである。
政宗が十八歳の天正十二年(1584年)、父・輝宗の隠居に伴って伊達家十七代当主となる。
天正十三年(1585年)、政宗は妻・愛姫(めごひめ)の父であり、伊達家の支援を受けていた田村清顕から離反した大内定綱を攻めて城内の女子供に至るまで見せしめのためにことごとく撫で斬りにした。この行為によって定綱と連携して田村氏からの独立を画策していた二本松義継は伊達家への服属を誓う。しかし義継は、隠居していた政宗の父である輝宗を拉致して逃亡を図った。鷹狩から戻った政宗は軍勢を率いて後を追い、輝宗ともどもことごとく鉄砲で殲滅した。
この後、政宗は父・輝宗の弔い合戦と称して当主を失った二本松家の居城である二本松城を大軍で包囲。しかしかねてより対立関係にあった常陸の「鬼義重」こと猛将・佐竹義重率いる援軍が到着、戦となった。名高い「人取橋(ひととりばし)の戦い」である。数的不利の伊達軍は窮地に陥るが、なんとか戦場を離脱し、佐竹軍は撤収して九死に一生を得ることとなった。
その後も大崎氏の内紛に乗じた大崎・最上義光連合軍との戦いである「大崎合戦」や芦名氏・相馬氏との連合軍と戦った「郡山合戦」、さらに芦名氏を滅ぼした「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」などで東北地方を中心に勢力を拡大していった。
しかしその頃日本を実質支配していた豊臣秀吉は、大名が許可なく戦を行うことを禁ずる「惣無事令(そうぶじれい)」を発令。当然伊達家も対象であったが、政宗の合戦の数々はこれを無視しての戦であった。
そんな中、政宗と同じく秀吉の惣無事令に従わなかった伊達家の同盟相手の関東の名門・北条家が秀吉の率いる20万超の大軍勢に攻められた(小田原征伐)。秀吉の強大な力を前に、政宗は悩んだ末に小田原に陣を張っていた秀吉に謁見。その際に政宗が白装束(死に装束)で参上したのはあまりにも有名である。この意表を突かれたパフォーマンスが功を奏したかどうかは定かではないが、伊達家は72万石を安堵される事となった(実質石高は150万石といわれていたため、実際には半減)。
その後、葛西大崎一揆が起きて政宗は隣国の蒲生氏郷とともにこれを鎮圧するが、政宗が一揆の影の首謀者であるとの嫌疑がかけられる。秀吉に弁明して許された政宗だったが、米沢七十二万石から岩手沢五十八万石へと減封となった。
秀吉による朝鮮出兵である文禄二年(1593年)の文禄の役に出陣。慶長二年(1597年)の慶長の役には不参加。文禄四年(1595年)の豊臣秀次切腹事件に関しては、秀次の謀反に加担した疑いで改易されそうになるが、家臣団の必死の直訴により何とかこれを免れている。
慶長五年(1600年)に上杉景勝謀反の疑いによる徳川家康の上杉征伐の軍が整えられると、かねてより上杉とは敵対関係にあった政宗はすぐさま上杉領に侵攻。石田三成が挙兵すると家康率いる東軍について上杉軍と全面対決となった。上杉領となっていた伊達家の旧領を奪い返す絶好の機会であったが、上杉家の家老・直江兼続を初めとする上杉軍の必死の反撃によって奪い返せたのは2万石のみという結果に終わった。関ヶ原の戦いで東軍が勝ったために政宗は家康に恩賞を要求するが、南部家の一揆を扇動して軍を進行させたことを不審がられて、ことごとく却下され、結果的に60万石の領土という仕置となった。
戦後仙台藩主となった政宗は領内整備に努め、さらにスペインに家臣・支倉常長率いる使節団を派遣するなど、独自外交にも積極的であった。
慶長十九年(1614年)に勃発した大坂の陣においては、自ら兵を率いて出陣するが、ここでも同じ徳川勢を味方討ちしたなどのトラブルを起こす。戦後の論功行賞は、政宗の伊達本家ではなく、分家の伊達秀宗に伊予10万石が与えられることとなった。
その後も仙台初代藩主として領内整備に力を入れ、家康死後も二代将軍秀忠、三代将軍家光に忠誠を誓った。
寛永十三年(1636年)、江戸の伊達屋敷にて病没。享年70。死因は食道がんという説が主流となっている。
B型男(笑)、伊達政宗の私的考察
真田丸主人公の真田信繁らと並んで、若者の間で戦国屈指の人気を誇るのが独眼竜・伊達政宗です。
若者のみならず40代以上の方々にも、大河ドラマ史上最高視聴率を記録した「独眼竜政宗」でファンになった人も多いという、まさに戦国を代表する武将ですね。
現在人気の戦国大名の中でもこの政宗は、清廉潔白な義士のイメージが強い信繁や石田三成、直江兼続らとはかなりキャラクターが違います。上の経歴を見てもらえばわかる通り、かなり腹黒いです(笑)。しかしそんなところが彼の人気の部分でもあります。いわゆるダークヒーローというやつですね。
とにかく野望に燃えた武将でした。特に若年期は。秀吉に盾突こうと考えたところなどは若き日の政宗のいい意味での無謀さが出ていますね。とはいえ、若き日からかなりの策謀家であったとも言われています。有名な人質であった父ごと裏切者を皆殺しにした事件に関しては、政宗が合法的に父を葬るための計略であったという説もありますが、真偽は闇の中です。弟の小次郎(伊達政道)も政宗によって誅殺されたと言われていますね。
どちらも真相はわかりませんが、政宗のやり方を考えると、どちらも政宗によって誅されたのだろうとわたしは思います。そう思わせるほどに政宗という人物は真っ黒なのです。彼なら平気でやるだろうと(笑)。とはいえ、そんな政宗がわたしは大好きです。聖人君子として美化された政宗など必要ありませんね。ダークで切れ者だからこそ政宗なのです。そこがいいんですよね。
さらには現在でもおしゃれな人の事を「伊達男」、「伊達者」などと言いますが、これは伊達政宗が非常にオシャレで派手好きであった事から名付けられました。まさに花も実もある武将であったという訳です。
世間でよく言われているのが、政宗があと三十年早く生まれていれば天下を取ったであろうという事です。これはどうでしょうか。結論から言いますと、わたしは三十年早く生まれていても無理だったと思います。
能力的には間違いなくその資格はあります。信長、秀吉、家康に匹敵する程の器量を持った人物です。傑物と言ってもいいでしょう。ですが生まれた場所が悪い。奥州はいかにも都から遠すぎます。奥州を平らげる前に政局の中心である畿内はすでに誰かに抑えられてしまっている事でしょう。そういう意味では都にほど近く、それでいて畿内の騒乱にも巻き込まれなかった尾張・三河(現在の愛知県)に生を受けた戦国三傑(信長、秀吉、家康)は運も持ち合わせていたという事でしょうね。
もしも伊達家が中部地方辺りに存在しており、政宗があと三十年早く生まれていれば天下人になれた可能性は大であったと個人的には思います。
あ、ちなみに伊達政宗の血液型はB型である事が判明しています。発掘調査で墓に残っていた遺髪から鑑定されたものです。うーん、B型かあ。イメージ通りですわ(笑)。いやいい意味でですよ。
真田丸で演じるのは長谷川朝晴さん
そんな戦国きってのダークヒーロー、伊達政宗を真田丸で演じるのが長谷川朝晴(はせがわともはる)さん。大河ドラマは2005年の「義経」、2010年の「龍馬伝」に続いて6年ぶり3作目の登場となります。
今やドラマで見ないクールは無いというほど売れっ子の長谷川朝晴さんですが、元々は演劇集団でコントなども行っていたジョビジョバのメンバーです。ジョビジョバといえば、深夜番組などで数多くのレギュラーを持ち、カルト的な人気を誇っていた人気演劇ユニットでしたが、解散後も長谷川さんは順調に俳優としてステップアップしていきましたね。
いい人からいい人風の悪人、根っからのサイコパスなど・・とにかく色々な役が出来る俳優さんです。腹に一物抱えたダークヒーロー・伊達政宗は適役なのではないでしょうか。
「独眼竜政宗=渡辺謙」という二十年間多くの人の頭に染みついている独眼竜のイメージを一新してくれるような新たな政宗像を期待するのはわたしだけではないはずです。
片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな) 演:ヨシダ朝
片倉景綱の略歴
片倉景綱は伊達家の重臣。通称は小十郎。官位は従五位下・備中守。
弘治三年(1557年)に置賜郡永井庄八幡神社(現在の成島八幡神社)で神職を営む片倉景重の次男として生まれる。
幼少期に両親を亡くした景綱は、年の離れた姉である喜多によって育てられた。景綱が十一歳の時に伊達家の当主・輝宗に嫡男・政宗が誕生。すると、姉の喜多が政宗の乳母となった。青年期の景綱は、その縁もあって輝宗に仕えるようになる。そして景綱の才を見抜いた伊達家の重臣・遠藤基信の推挙によって伊達政宗に仕える事となった。
母・義姫との確執があったとされているほど肉親の情に薄かった政宗にとって、乳兄弟とも言うべき景綱は兄のような存在であったと言われている。
政宗が成人して以降は伊達家の重要な合戦、「人取橋の戦い」や「摺上原の戦い」、「文禄の役」、「上杉征伐」などに全て参加。その武勇と知略で伊達家の大黒柱の働きをしたと言われている。
関ヶ原の戦いで仙台藩主となった伊達政宗であったが、この片倉景綱にも白石城1万3千石が賜られた。徳川政権の鉄則ともいえる一国一城令においては例外ともいえる措置であり、その事実を見ても景綱の器量の程が窺い知れるといえる。
関ヶ原後辺りから体調を崩して病がちであったという景綱であったが、元和元年(1615年)に病没。享年59。長年患っていた病は糖尿病であったと言われている。
片倉景綱の私的考察
この片倉景綱、伊達家においてはまさに政治、外交、合戦と八面六臂の活躍をした、まさに伊達政宗の右腕といっても過言ではない人物です。さしずめ上杉家における直江兼続といったところでしょうか。
主君である政宗は結局最後まで天下人・秀吉からは信頼を得られませんでしたが、この景綱は違います。小田原征伐が終わった後、東北地方の各大名の所領を秀吉が決めた際、秀吉は伊達家は大減封を命じましたが、この景綱には5万石を与えることで自分の直接の家臣にしようとしました。それほどに秀吉はこの景綱という男の器量を評価していたと言われています。
そしてこの片倉景綱が興した片倉家は、真田丸の主人公である真田信繁とも浅からぬ因縁があるのです。
この片倉景綱の嫡男・片倉重長の側室(後に正室)・阿梅(おうめ)は、真田信繁の娘なのです。信繁とともに大坂城に入城した阿梅でしたが、大坂城落城後に片倉重長の妻となったという事です。妻になった経緯には諸説ありますが、側室として迎えられ、やがて正室の指月院が亡くなった後には後妻として正室になりました。片倉重長は、日本一の兵(つわもの)と呼ばれた信繁の娘を大そう大事にしたと言われています。
真田丸で演じるのはヨシダ朝さん。
そんな伊達家の忠臣・片倉景綱を演じるのが、個性派ベテラン俳優・ヨシダ朝(よしだあさひ)さん。
大河ドラマは2009年の「天地人」、2013年の「八重の桜」に続いて3年ぶり3作目の登場となります。スペシャル大河と呼ばれた「坂の上の雲」にも出演されていましたね。
1987年の大河「独眼竜政宗」では大御所・西郷輝彦が演じた片倉小十郎景綱。今回はヨシダさんでどんな小十郎が見られるのでしょうか。これだけ有能な武将であるにも関わらず、意外と片倉景綱の登場するドラマって少ないんですよね。そういう意味ですごく楽しみです。
ビジュアル面では申し分なし。切れ者である事が一目でわかるくらいにヨシダ朝さんとはマッチしているという印象です。主君・政宗役の長谷川朝晴さんとともに新たな伊達家の象徴となるような演技に期待したいですね。
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