[PV動画有]英国ニューロマンティックス誕生期の名曲集 ヴィサージ、アダム&ジ・アンツにD・ボウイも

スポンサーリンク

私事でなんなのですが、わたしは現在40代半ばという、アラフォーとアラフィフの狭間位に位置する世代です。親友の兄貴や姉貴の影響によって小学生の頃から洋楽を聴いて育ったわたしが洋楽デビューしたころに世界を席巻していたのが、イギリス発祥の「ニューロマンティックス」という音楽ジャンルの一大ブームだったのです。

スポンサーリンク



スポンサーリンク

1970~80年代に英米を中心に世界の音楽界を制覇したニューロマンティックスとは?

まずはかつて世界に一大ムーブメントを巻き起こした「ニュー・ロマンティックス」について簡単にご説明しましょう。

ニューロマンティックスとは、その他の呼び方としては「ニューロマンティック」「ニューロマンティクス」ともいわれます。

発生場所はロンドンといわれており、発生時期は1970年代後半というのが一般的ですね。音楽的にはニューウェイブから発生したといわれている、音楽ジャンルの事をいいます。

音楽的な特徴としては、シンセサイザーを前面に押し出したエレクトリック・ポップミュージック的なミュージシャンが多く、軽くて親しみやすいメロディ、さらにビジュアル的にはメイクを施したり中性的なファッションに身を包んだりして、ユニセックス的な雰囲気を醸し出すアーティストも多かったですね。ミュージックビデオの制作に力を入れていたミュージシャンが多かったというのも特色の一つでしょう。

まあ、多くの音楽ファンにとってのざっくりした「ニューロマンティックス」のイメージは上記のようなものだと思うのですが、もちろんそれらのイメージから逸脱したビジュアル・音楽性のバンドも数多くおり、一概にカテゴライズできるほど一面的なものでも単純なものでもありません。あくまで一般論という意味です。

1970年代最後半にイギリスで発生したニューロマンティックスは、1980年代前半に入ると、アメリカで支持を広げ、アメリカのヒットチャートで猛威を振るうようになります。その様子は「第二次ブリティッシュ・インベージョン(イギリスの侵略)」と呼ばれるほどのムーヴメントとなりました。そして1980年代中盤辺りからは次第に下火となっていき、ブームは終焉を迎えたというところです。

生みの親はヴィサージのスティーヴ・ストレンジ経営のナイトクラブ?

ニューロマンティックスムーブメントを彩ったバンドは数多いですが、そんな一大ムーヴメントの先駆けとなったバンドが彼らだといわれています。

Visage – Fade To Grey

イギリスのシンセポップバンドとして1980年代前半に大活躍したヴィサージですね。彼らがニューロマンティックスの源流だというのは、このヴィサージ最大のヒット曲でもある、1stアルバムの「ヴィサージ」からシングルカットされたこの「フェイド・トゥ・グレイ(Fade to Grey)」のPVを見てもらえればわかってもらえると思います。シンセをフィーチャーしたいかにもなサウンドと妖艶なビジュアル。これこそが多くの人がニューロマンティックスと聞いて連想するひな形といってもいいものだと思います。

しかし、ヴィサージがニューロマンティックスのスタートであるというのにはもう一つ理由があります。

それは、ヴィサージの結成メンバーであり中心メンバーでもある、スティーヴ・ストレンジが音楽活動と並行してナイトクラブも経営していたことと大きく関係があるのです。ストレンジのナイトクラブ、「クラブ・ビリーズ」で開催されていた「デヴィッド・ボウイ・ナイト」というイベントこそが一連のニューロマンティックスブームの火つけ役であったという事なのです。

ヴィサージのスティーヴ・ストレンジこそがニューロマンティックスの生みの親といってもいいのかもしれませんね。

ちなみにこのヴィサージには後のニューロマンティックスの中心的存在となるイギリスのバンド、ウルトラヴォックスに参加することとなるミッジ・ユーロとビリー・カーリーがいたという事も非常に重要ですね。ミッジ・ユーロといえば、ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフとともにアフリカ救済のチャリティ・プロジェクトである「バンド・エイド」の発起人としても有名ですよね。「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス(Do They Know It’s Christmas?)」は世界的スーパーヒットとなるとともに、後のアメリカのプロジェクト、USAフォー・アフリカ(USA for AFRICA)の「ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)」を誕生させる大きなきっかけともなりました。

ニューロマンティックスを語るうえでは絶対に書かす事の出来ないヴィサージ、いやスティーヴ・ストレンジ。しかし残念ながらそのストレンジは2015年2月に心臓発作で55歳の生涯を閉じました。あまりにも早過ぎですよね。まだまだ活躍してほしかったアーティストでしたね。

スポンサーリンク



育ての親、アダム&ジ・アンツの奇抜なファッションの影響はあのジュリー達にも?

スティーヴ・ストレンジは自身の主催するクラブイベントでニューロマンティックスを誕生させた、まさに母親ともいうべき存在でしたが、ニューロマンティックスを語るうえでヴィサージとともに外せないバンドをもう一つご紹介しておきましょう。

1970年代後半にデビューし、1980年代前半にその奇抜で個性的なファッションで一躍大人気を博した、アダム&ジ・アンツ(Adam and the Ants)です。

Adam & The Ants – Antmusic

アダム&ジ・アンツを一躍スターダムに押し上げた、1980年発売のセカンドアルバム「アダムの王国(Kings of The Wild Frontier)」収録の「アントミュージック(Antmusic)」です。

このアダム&ジ・アンツの中心的メンバーであり、フロントマンでもあるアダム・アントの海賊ファッションは、一世を風靡する社会現象にまでなりました。日本の音楽シーンにも大きな影響を与えたといわれています(後のヴィジュアル系バンドや沢田研二、ポケットビスケッツ等)。

ニューロマンティックスブームを産み落とした、生みの親がヴィサージのスティーブ・ストレンジだとすれば、そのニューロマンティックスというムーヴメントを広く世界に知らしめて広めた、まさに育ての親こそがこのアダム&ジ・アンツといってもいいのかもしれません。

アダム&ジ・アンツの代表的な曲をもう1曲ご紹介しておきましょう。

これまたベストセラーアルバムとなった3枚目の「プリンス・チャーミング」からのアダム&ジ・アンツの最大のヒットシングル、「スタンド・アンド・デリバー(Stand and Deliver)」です。

Adam & The Ants – Stand And Deliver (Video)

大ヒットしたにも関わらず、アダム&ジ・アンツはこのアルバムを最後に解散。アダム・アントはソロアーティストとして活動していくこととなり、ニューロマンティックスの育ての親はわずか3枚のアルバムという短い歴史に幕を閉じたのでした。

ニューロマ始祖のデヴィッド・ボウイとヴィサージのストレンジの共演PV

というわけで、後にデュラン・デュランやカルチャー・クラブ、トンプソン・ツインズやスパンダー・バレエといった、第2次ブリティッシュ・インベイジョンの中心メンバーたちを輩出するこのニューロマンティックスブームの起こりをご紹介しました。

ヴィサージ、アダム&ジ・アンツの後に出てくる数多くのイギリス発のニューロマンティックスバンドについては、また別の記事で書くこととするとして、この記事の最後はやはり、ニューロマンティックスの源流となったアーティストをご紹介しましょう。

ヴィサージが生みの親、アダム&ジ・アンツが育ての親なら、この人はニューロマンティックスの始祖というべき存在でしょうか。

そう、スティーヴ・ストレンジのクラブでニューロマンティックス誕生のきっかけとなった「デイヴィッド・ボウイ・ナイト」という名に冠されている、あのロック界のレジェンドです。

David Bowie – Ashes To Ashes

1980年に発売された「スケアリー・モンスターズ(SCARY MONSTERS)」からシングルカットされた「アッシュズ・トゥ・アッシュズ(Ashes To Ashes)」です。次作の「レッツ・ダンス」で全米を制覇する、カルトスターとしての最後のデヴィッド・ボウイといってもいいでしょう。

よく見てもらえれば分かると思いますが、この「アッシュズ・トゥ・アッシュズ(Ashes To Ashes)」のPVには、あのヴィサージのスティーヴ・ストレンジが出ているではありませんんか!!

まさにニューロマンティックスの始祖と生みの親との奇跡の共演といってもいいかもしれませんん。そう、80年代を熱狂させたムーヴメントはここから始まったのです。

ちなみに、その他のニューロマンティックス系バンドたちの記事もご参照ください。

ヒューマン・リーグ、デュラン・デュラン、デペッシュ・モード

スパンダー・バレエ、トンプソン・ツインズ、カルチャー・クラブ

コメント