NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」における、主人公サイド・井伊氏の前半の最大の敵は今川家。
その今川家において比類なき実力で君臨した名軍師・太原雪斎。僧侶としも戦国武将としても超一流と呼ばれたその名将の素顔に迫ってみましょう。
太原雪斎(たいげんせっさい)の略歴
臨済宗の僧侶であり戦国大名・今川氏の重臣。戦国大名今川家の最盛期を築いた今川義元の片腕であり、軍師的役割も受け持っていた名将であるといわれている。別名を太原崇孚(そうふ/すうふ)。
明応五年(1496年)、父・庵原政盛と母・興津正信の娘との間に生まれる。父方の庵原氏は駿河国庵原城城主であり、母型の興津氏は駿河国・横山城主であり水軍も率いていたという、両家ともに今川譜代の家臣の家に生まれた、生まれながらの今川家のエリートである。
永正六年(1509年)、雪斎が14歳の時に駿河国の善得寺(現在の臨済寺)に入寺、名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)とし、その後は京都五山の建仁寺で修業を積んだといわれている。
若くからその才能は秀でていたといい、その才を聞きつけた今川家太守・今川氏親は駿河へ帰国して今川家臣となるよう雪斎に要請したが、雪斎はその要請を二度までも断ったという。
大永二年(1522年)、今川氏親の五男・今川義元が善得寺に入寺すると雪斎はその教育係となる。
大永六年(1526年)に今川家では義元の父である氏親が死去し、後継者が義元の兄である今川氏輝に決まった。しかし天文五年(1536年)にはその氏輝と、その弟である今川彦五郎が同時に死去。出家して栴岳承芳と名乗っていた今川義元が次期今川家当主として一躍クローズアップされる事となった。
今川家の家督は義元と、義元の兄弟である玄広恵探(げんこうえたん)の争いとなり、家臣も巻き込んだお家騒動が勃発した(花倉の乱)。この時雪斎は義元側につき、最側近として玄広恵探を追い詰め自刃に追い込む活躍を見せ、無事に今川家当主となった義元の信頼を得て軍事・政治・調略の要として今川家のナンバー2となる。
義元側近となった雪斎の今川家での勲功は数知れず、その功は今川家において比類なきものといわれている。
軍事面では北条氏綱に占領された駿河東部を取り返し、尾張の織田家との戦いにおいても、第二次小豆坂の戦いでの勝利や三河田原城の陥落などの戦功を挙げている。
政治・外交面では宿敵・武田家との同盟を締結させ、さらには東と北の脅威を取り除くために、事実上不可能であろうと思われた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい/今川・武田・北条の三国同盟)を締結させる立役者となったと言われている。
さらに、織田家にとらわれていた松平家の後継者・竹千代(後の松平元康・徳川家康)を人質交換で取り返すことで、今川家の三河国支配を決定的としたという実績も持つ。
今川家の重臣・軍師的立場での戦国武将としての能力ももちろん高く評価されている雪斎であるが、僧侶としても超一流の評価を得ている。三河の太平寺、さらに駿河の清見寺(せいけんじ)や善徳寺、遠江の定光寺などの新興や中興などにも大きな貢献を果たしていることでも有名である。
このように、今川義元が「海道一の弓取り」と呼ばれ、上洛に一番近い存在とまで言われた陰には太原雪斎の活躍が大きかったというのが定説となっている。
弘治元年(1555年)、駿河長慶寺にて死去。享年60。
雪斎が長命だったら桶狭間での義元討死も、信長躍進、家康天下取りもなかった?
うーん、戦国時代の歴史ファンにとってはあまりにも有名な今川家の名軍師・太原雪斎。しかし、一般的な知名度はその功績から考えると信じられない程低いといわざるを得ませんね。
今川家は、当主の義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後に急速に崩壊していきます。最終的には大名家としての今川家は徳川家康と武田信玄によって滅ぼされ、戦国時代の今川家というと、どちらかといえば織田や徳川、武田の当て馬のように描かれる事がこれまでのドラマなどでは多かったのが実情です。そんな今川家の不運がこの太原雪斎の不当なまでに低い知名度にも影響があるのかもしれません。
しかしこの雪斎が軍師として君臨していた頃の今川家は、疑う余地もないほどの強大な勢力でした。それこそ尾張統一も出来ていない織田家や、今川の勢力下にあった徳川家(松平家)などは比較の対象にもならないほどです。関東甲信越の覇権を争った武田家、北条家、上杉家(長尾家)などをも凌ぐほどの、まさに天下に最も近い位置にいたのです。
今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれるほどの器量を持つ傑物でしたし、その義元を支える雪斎は戦国時代有数の名軍師でした。まさにこの時代最強のツートップでしょう。
考えてみると、今川義元の名声はただ一度の油断によって天地ほどの差がついてしまったともいえますね。そのただ一度の油断、それこそが今川家の致命傷となった桶狭間の戦いであり、まあそのただ一度の油断を逃さなかったからこそ織田信長は凄いともいえるのですが・・。逆にいえば、もしこの桶狭間の時に太原雪斎が存命であったなら・・今川家の滅亡も織田信長の台頭も、もちろんその後の徳川家康の天下取りもなかったのではないかと思えますね。雪斎の死によって今川家の命運が傾いたといっても過言ではない、それだけの人物であったことは確かです。
過去幾多の名優が演じた「黒衣の宰相」。おんな城主 直虎では佐野史郎さん
太原雪斎という人物は、僧侶としても戦国武将としても非常に優れた人物であったことは間違いありません。
今川家の人質となっていた徳川家康がこの太原雪斎によって学問や兵法を学んだというのも実に有名な逸話です(真偽には諸説あり)。
学識豊かで政道・軍略にも通じていたこの太原雪斎という人物、味方であればこれほど心強い存在はいませんが、一番敵には回したくないタイプでもあります。
その意味で、井伊氏にとっては非常に大きな立ちはだかる壁として描かれる事は間違いないでしょう。この「おんな城主 直虎」の前半のカギとなるのはもちろん今川氏ですが、中でも一番の切れ者であるこの雪斎の存在が井伊氏の中でどう描かれるか?歴史ファンならば非常に興味深いところですよね。
ちなみに、これまでの大河ドラマで演じられてきた雪斎というと、2007年「風林火山」での伊武雅刀さん、1988年「武田信玄」での財津一郎さん、そして1983年「徳川家康」での小林桂樹さんなどが有名ですよね。いかにも「「黒衣の宰相」といった雰囲気を持っていた伊武さん、財津さんも良かったですし、重厚感溢れる小林桂樹さんの雪斎禅師も実によかったですね。
そんな歴代の太原雪斎に続けとばかりに今回も実力派俳優の佐野史郎さんがキャスティング。我が山陰地方出身の個性派名優です。佐野さんは1987年「独眼竜政宗」、1990年「翔ぶが如く」、そして1994年「花の乱」に続いて23年振り4度目の大河出演となります。
23年振り・・そんなになりますかねえ。最後に出演した花の乱の足利義視(よしみ)役も良かったですよねえ。あのドラマはあの時代のドロドロ感を醸しだすようなひとくせもふた癖もある登場人物が多かったのですが、その中でも佐野さんの存在感は抜群でしたね。登場回数は多く無かったですが、非常に印象に残る役どころでした。
今回は今川家最盛期の名軍師役。「黒衣の宰相」「執権」とまで呼ばれた凄腕の名策略家の魅力を余すことなく伝えてくれるはずです。非常に楽しみですね。でも・・すぐ死んじゃうんですよね・・残念(涙)。
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