[大河ドラマ直虎]徳川家康と瀬名姫の息子・松平信康(のぶやす) 平埜生成(ひらのきなり)演じる悲劇の若武者の生涯

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おんな城主直虎

本多忠勝榊原康政らとともに後に徳川四天王と呼ばれて徳川家康の天下取りに大きく貢献した井伊直政を輩出した井伊家を描いた「おんな城主直虎」。

その中で大きく注目される事となるのが井伊家と血縁にあった徳川家康の正室・瀬名(築山殿、築山御前、駿河御前とも)。悲しき運命をたどった瀬名と同様、若くしてその命を散らした瀬名の子、松平信康。

ここではそんな松平信康の生涯や謎などについて迫ってみたいと思います。

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松平信康(まつだいらのぶやす)の生涯・略歴

幼名を竹千代、別名を岡崎三郎、次郎三郎といった。徳川幕府第二代将軍の秀忠や結城秀康、松平忠吉らの異母兄。

永禄二年(1559年)三月六日、駿府にて松平元康(後の徳川家康)の嫡男として生まれる。母は元康の正室・築山殿(瀬名)

父が今川家家臣だったために生後間もなく今川家の人質的立場として駿府で育つこととなった。永禄三年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討たれると松平元康は三河にて独立して今川家とは敵対関係となり、駿府にいた築山殿と信康の立場はより微妙なものとなったが、徳川家の捕虜となっていた今川家臣・鵜殿氏長・氏次兄弟との人質交換により徳川家の元へと帰還した。

今川家より独立して徳川家康と改名した父・家康は今川氏真に対抗するために尾張の織田信長と清州同盟を結び、その同盟関係をより強固にするべく織田信長の娘・徳姫(とくひめ/五徳とも)と家康の嫡男・信康との政略結婚が永禄十年(1567年)に成立。時に信康と徳姫わずか9歳の時の事であった。

父・家康が新たに支配界に置いた遠江国・浜松城を本城としてそこへ移ると、元亀元年(1570年)には父祖伝来の地・岡崎城の城主に就任、妻・徳姫と母・築山殿もともに岡崎城にあった。

信康は天正元年(1573年)に初陣を飾ると、徳川家の主な戦で戦功を挙げ、その武勇は竹にも響き渡ることとなった。特に徳川と武田家との数々の合戦、長篠の戦いや遠江横須賀の戦いで名を挙げることとなった。浜松の徳川家康は新世代の家臣団を組織していく中で、信康は徳川家の松平時代以来の譜代衆である岡崎衆を率いて活躍した。

天正七年(1579年)、信康は城主を務めた岡崎城を退去させられて大浜城へ入城。さらに遠江国の堀江城、二俣城と次々に移された挙句に家康により切腹させられた。介錯は服部正成(服部半蔵)が務めたといわれている。享年21。なお、信康の切腹に先立って信康の実母である築山殿も信康の死のおよそ2週間前に家康の手で暗殺されている。

聡明な若武者?それとも短気で残酷な暴君?謎多き信康の性格など人物像

松平信康といえば、今でもその人物像はその死の原因とともに謎に包まれています。

隆慶一郎の人気小説、「影武者徳川家康」など多くの小説などでは人格、能力ともに申し分のない若武者であり、父の家康は泣く泣く切腹を命じたという逸話は有名ですし、後に「ご意見番」と称された徳川譜代の大久保彦左衛門(忠教)も著書の「三河物語」などで信康を絶賛しているなど、信康賢君説は古くから伝えられている説ではありますが、もちろん異説もあります。

武勇は他国に鳴り響く程でしたが、血気盛んな分短気で思慮に欠ける問題行動も多く、無益な殺生など将としての才気を疑わせるような行為もあったという説もあり、実際の所は識者の間でも意見が分かれるところとなっています。

実際には徳川治世に描かれた信康の人物像も様々なものがあって何が本当なのかわからない程に両極端のものもあります。

この大河ドラマ「おんな城主直虎」ではどの説を採用し、どのような松平信康像となるのでしょうか。

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父・徳川家康は信康と築山殿を何故粛清したのか?識者の間でも分かれる諸説

信康の性格など人物像とともに最大の謎とされているのがその死です。

いや、父・家康によって切腹させられて生涯を閉じたというのは間違いない事実なのですが、謎なのはそこ(切腹)に至った経緯です。

通説では、信康の正室である徳姫と信康の母である姑の築山殿との仲が不和となり、徳姫は実父の織田信長に書状を送った。この中には築山殿が織田家の宿敵ともいえる武田家と内通しているというものもあり、この徳姫からの手紙を読んだ信長は徳川家の宿老でもある酒井忠次にその真偽を詰問、忠次は特にその内容を否定もしなかったために信長は家康に対して築山殿とその子・信康を粛清するよう命じた・・という事となっています。

古今東西嫁姑問題は世の男性を困らせる問題ですが、そこに原因を見出すという者ですね。そういわれれば、築山殿とその姑である於大の方(徳川家康の生母)とも不仲であったといわれていますね。

しかしこの通説(徳姫と築山殿の嫁姑不仲説)も近年では疑問を持つ専門家が多く、最近ではこの通説に代わって「父子(家康と信康)の不仲」、「徳川家臣団内における派閥・権力闘争」といった説も台頭してきています。

通説通りに、以前は悪女として描かれる事の多かった築山殿(瀬名)でしたが、近年では悲劇の正室として描かれる作品も多くなってきました。この先もっと研究が進んで信康自刃、築山殿暗殺の真相が明らかになっていく事を願いたいですね。

ドラマでのキャストは大河初出演となる平埜生成(ひらのきなり)

僅か21歳でその生涯を閉じた悲劇の貴公子・松平信康。

その信康をNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で演じるのが平埜生成さん。とても難しい名前ですが“ひらのきなり”と読みます。そのプロフィールを簡単にご紹介しておきましょう。

生年月日:平成5年(1993年)2月17日生まれの24歳
本  名:平埜 生成
出  身:東京都
身  長:173cm
体  重:61kg
血液型 :B型
特  技:ピアノ
趣  味:ギター、サックス、ダンス、ハンドボール
所  属:アミューズ

まだ24歳と若い平埜さんですが、そのキャリアは既に10年選手という豊富なものです。大河ドラマは初出演となります。

これまではあまり大河ドラマでもフィーチャーされる事の少なかった徳川家康の嫡男・松平信康。謎多き徳川家の若武者の生涯を演じるのにピッタリといってもいい実力とフレッシュさを兼ね備えた平埜生成さん。これを機に松平信康という武将の一般的な知名度がもっともっと上がるきっかけとなって欲しいですよね。

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