「海道一の弓取り」と呼ばれた名将・今川義元の人質として駿府で幼少時代を過ごし、桶狭間の戦いで独立した後は織田信長、豊臣秀吉の下に甘んじて力を蓄え、関ケ原の戦いで天下を取った徳川家康(松平元康)。
そんな徳川家康の天下取りにおいて大きな貢献を果たした四人の徳川家の名将を後世の人たちは「徳川四天王」と呼びました。酒井忠次、本多平八郎忠勝、榊原康政、井伊直政の四人を指したこの徳川四天王という言葉ですが、実は本来であればこの徳川四天王に入っていなければおかしい人物がとある事情で漏れているのも事実です。
そんな徳川家の名将こそが石川数正(いしかわかずまさ)という男なのです。
石川数正(いしかわかずまさ)の略歴
読みはいしわかかずまさ。天文2年(1533年)生まれ。徳川家康が駿河の戦国大名・今川義元の人質であった幼少期から家康に仕える譜代の家臣。
義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討ち取られ、家康が独立した後に信長と同盟した「清州同盟」の成立の立役者と言われている。清州同盟を始めとして外交に活躍する一方、西三河を治めるなど内政面にも才能を発揮、武田家と戦った「三方が原の戦い」や「長篠の戦い」でも戦功を挙げるなど、内政・外交・軍事と全てにおいて高い能力を有する、まさに徳川家の重臣であった。
本能寺において信長が倒れたのちは、信長に代わって台頭した豊臣秀吉との外交交渉の役を任される。「小牧長久手の戦い」において家康軍の重臣として秀吉と戦うが、その翌年、突如として家康を裏切り、豊臣家へと寝返る。
徳川家の重臣であった数正の出奔が徳川家に与えた衝撃は計り知れず、徳川の全てを知る数正の秀吉への寝返りによって、徳川家は軍事戦略を全て変えざるを得なかったという。
秀吉の下での数正は信州・松本に領地を与えられ、名城と謳われる松本城を築城し、城下町や街道の整備などの事業に着手し、現在の松本の基礎を築いた。
文禄2年(1593年)死去(異説もあり)。享年61。
以上は2016年の大河ドラマ「真田丸」における石川数正の紹介記事からの引用です。
この内容を読んでいただけると、何故にこれだけ徳川家にとって重要な人物であった石川数正という人間が四天王に選ばれていないのかは一目瞭然といえますね。
駿府人質時代からの忠臣・石川数正が徳川四天王になれない理由
徳川家康がまだ今川義元の人質として駿府にあった時代から家康の右腕として信頼されていた石川数正という人物。
家康が今川家から独立した後も徳川家の内政、外交、軍事全てにかかわっていた、まさに宿老という位置づけの名将です。徳川家のナンバー2といってもいいでしょう。
そんな石川数正が徳川四天王から漏れている理由、それは略歴にもあるとおり明白です。
突然徳川家を出奔し、徳川家康の宿敵ともいえる豊臣秀吉の家臣となったからです。
この数正の出奔→豊臣家臣は、徳川家に激震をもたらしました。徳川家の重要事項・秘密事項は全て宿敵ともいえる豊臣家に筒抜けとなってしまったからです。徳川家内における数正への反発や恨みがいかに凄かったかというのは察して余りあるでしょう。
この事実を鑑みれば、どれほど家康不遇の時代を支えた忠臣であっても「徳川四天王」に列せられる可能性は皆無であることは歴然たる事実だといえますね。
身長189㎝のイケメン俳優、中村織央(なかむらおずの)さんのワイルドな数正に期待
本来であれば、徳川四天王を超える程に評価されてしかるべき名将、石川数正。「おんな城主直虎」でも徳川家臣として大きな役割をはたすであろう石川数正を演じるのが、中村織央(なかむらおずの)さん。
NHKでは4年前2013年の朝ドラ「ごちそうさん」出演経験がありますが、大河ドラマは初出演となります。
身長189cmという恵まれた体形、その雰囲気たたずまいはまさに時代劇にはピッタリ。それも戦国武将とあればなおさらでしょう。
昨年の真田丸での石川数正役、伊藤正之さんはどちらかというと、文治派タイプの石川数正といった感じでしたが、今年の直虎での数正は、まさに屈強な三河武士といった雰囲気の数正となりそうですね。
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