徳川歴代征夷大将軍の死因(病名)と享年 11代将軍・家斉から家慶、家定、家茂、15代・慶喜まで

医療の進化した現代では簡単に病名が確定できますが、昔は偉人であってもその人がどんな病気で亡くなったかも確定することが困難な時代であり、資料も少ないためにどのような病気だったのか手がかりさえないこともしばしばです。

そんな中、徳川幕府の全十五代将軍はある程度資料が多く残されており、亡くなる前の病状などから死因となった病名などが絞れるパターンが多いです。

というわけで、ここでは徳川幕府の初代から十五代までの征夷大将軍の死亡の原因となった病名などを見ていきたいと思います。当然のことながらあくまで残された資料などによる推測の域を出ませんし、ここにご紹介する以外にも通説に近いものから俗説まで大小様々な説があります。全てをご紹介しているわけではありませんのでご了承ください。

徳川幕府初代家康から五代綱吉まではこちらの記事をご覧ください。

徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 初代家康から秀忠、家光、家綱、五代将軍・綱吉まで

六代家宣から十代家治まではこちらを。

徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 6代将軍・家宣から家継、吉宗、家重、10代将軍・家治まで

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江戸幕府第11代征夷大将軍 徳川家斉(とくがわいえなり)

10代将軍の徳川家治には嫡男の家基がおり、いずれはこの家基が次期将軍と目されていましたが、18歳で急逝し、徳川宗家、御三家に続く家柄となる御三卿のうちの一つである一橋家から家治の養子となり将軍となったのがこの徳川家斉です。様々な意味で記録ずくめの将軍といっていいでしょう。最近取り上げられる機会の多い将軍であり、どんどん知名度が上がってきている偉人です。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第十一代将軍 徳川家斉 天保十二年(1841年) 69 腹膜炎

まず家斉の記録その1が将軍在位期間。家斉の将軍職就任が天明七年(1787年)で15歳の時でした。そこから死の4年前、65歳まで将軍としてあり続け、その征夷大将軍在位期間は約50年。この在位期間は徳川将軍全15人の中ではもちろんの事、それ以前の全ての征夷大将軍の中でも最長となる記録です。

そしてもう一つ凄いのがその妻と子供の数。正室・側室合計すると16人の愛妾を持ち、その間に男子26人、女子27人の計53人の子を設けました。

しかし一方では酒を好み大奥に入り浸って政務は側近たちに任せっきりだったともいわれており、その意味で後世の能力評価的にはあまり高くない将軍であるといえるかもしれません。

16人の女性との間に53人の子を作ったというその絶倫ぶりから推測されるように、幼少より病弱だった人物の多い歴代将軍の中では非常に健康だったといわれており、病気らしい病気も晩年まではなかったといわれています。

そして亡くなった年に疝痛を発症して医者にかかり、医師も気づかぬうちにひっそりと息を引き取っていたといわれています。疝痛が原因だといわれていますが、その疝痛の原因が癌なのかそれ以外のものなのかは未だに謎であり、直接的には急性の腹膜炎などではないかといわれています。

江戸幕府第12代征夷大将軍 徳川家慶(とくがわいえよし)

十一代将軍・家斉の53人の子のうちの次男として生まれ、十二代将軍となった徳川家慶。実父である家斉との折り合いは悪く、将軍になっても大御所として最高権力を握った父に実権を握られていたという忍耐の人生を歩んだ将軍といってもいいでしょう。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第十二代将軍 徳川家慶 嘉永六年(1853年) 61 熱中症

53人の子を作った父であり先代将軍でもある徳川家斉でしたが、この家慶もさすがは実の子というべきか、14人の男子と13人の女子を正室・側室に生ませています。しかし残念ながらこれらの子どもたちの中で無事成人できたのは側室のお美津の方が産んだ四男・家定のみ。子どもの死亡率が今よりけた違いに高かったこの時代といってもさすがにこれはちょっと・・という数字ですね。ただ一人成人できた家定も病弱で子どもが無く、その後の将軍後継に大きな影響を与える事となりました。

表向きは比較的平安だった先代の家斉の治世と違い、この家慶になってからは幕末の動乱の足音が聞こえてくることとなりました。家斉の治世でかなり幕府の財政が悪化した事が有名ですが、この家慶の治世で水野忠邦を重用し「天保の改革」を行ったものの立て直す事は出来ず、明治維新を迎えるに当たっての大きな要因となりました。

さらに「蛮社の獄」で渡辺崋山や高野長英らを弾圧せざるを得なくなるなど幕府の基盤は確実に揺らぎ、極めつけは嘉永六年(1853年)のペリー率いる米艦隊が浦賀へとやって来た黒船来航です。

黒船来航の動乱の中、十二代将軍の家慶は亡くなります。季節は夏、家慶の死因は熱中症によるものだといわれています。現代でも酷暑の中での熱中症被害は毎年話題となると同時に注意喚起されている恐ろしいものですよね。

江戸幕府第13代征夷大将軍 徳川家定(とくがわいえさだ)

十一代将軍・家斉の53人の子のうちの次男として生まれ、十二代将軍となった徳川家慶。実父である家斉との折り合いは悪く、将軍になっても大御所として最高権力を握った父に実権を握られていたという忍耐の人生を歩んだ将軍といってもいいでしょう。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第十三代将軍 徳川家定 安政五年(1858年) 35  コレラ・脚気  毒殺の噂も

生来病弱だったといわれる13代将軍の徳川家定。一説によると脳性麻痺のアテトーゼ型に顕著な症状が見られたといわれており、脳性麻痺の後遺症が残っていたという可能性が指摘されている他、幼少時に患った天然痘によって顔に大きな痣が残っていたといい、そのためか極度に人前に出る事を嫌い、乳母の歌橋以外には決して気を許さなかったといわれています。ちなみに2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」では堺雅人さんが演じられたのがこの徳川家定ですね。

時は黒船来航による日米の外交問題、更に吹き荒れる尊王攘夷と幕府の外交姿勢に対して噴出する不満、まさに激動の時代でしたが、このように病弱であったために最高権力者としてのリーダーシップは発揮できたと言い難い面があるのは否定できないでしょう。

幕府では赤鬼ともいわれた剛腕・井伊直弼が大老となって舵を取り始めた安政五年、元来病弱だった家定は薨去。死の直前に家定の養子として次期将軍に決定していた、紀州藩13代藩主の徳川慶福が家茂と改名して14代将軍となりました。

ちなみに家定の死因ですが、当時天然痘とともに「コロリ」と呼ばれて恐れられていたコレラか、持病としていた脚気によるものではないかといわれています。将軍後継で南紀派と争って破れた一橋派による毒殺ではという噂も流布されましたが、裏付けがなくあくまで噂の域を出ないものですね。

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江戸幕府第14代征夷大将軍 徳川家茂(とくがわいえもち)

家定が病弱で後継者となる子どもがいなかったため、家定の晩年には将軍後継者選定でかなりもめ、遺恨を残す事となったのですが、その結果わずか13歳で将軍職に就いたのが、井伊直弼や松平容保らが推した紀州藩主・徳川慶福(よしとみ/家茂に改名)でした。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第十四代将軍 徳川家茂 慶応二年(1866年) 21  脚気・リウマチ

13歳という若さで攘夷開国の世論真っ二つで揺れ動く日本の舵取りを委ねられた14代将軍の徳川家茂。早世したために将軍としての大きな実績は残せませんでしたが、あの勝海舟が「武勇に優れた将軍」「長生きしていれば名を残していたかもしれない」と評したその風格やオーラを身に纏った人物像はやはりただの若者ではなく、あの井伊直弼や松平容保らが推挙しただけの事はあるといえるものだったようです。

この家茂の甘いもの好きは有名で、羊かんやカステラ、最中、金平糖、氷砂糖など洋の東西を問わない生粋のスイーツ好きだったようです。それがたたってか、遺骨調査の際には残っていた31本の歯のうち実に30本が虫歯に冒されていた事実が判明しています。さらに家茂の歯は通常よりもエナメル質がかなり薄く、大の甘党であったことがそれに輪をかけて虫歯となったといわれています。

そして虫歯以外にも脚気も患っており、脚気からくる心不全によって21歳という若さで死去したといわれています。ただし、幕府お抱えの西洋医師の見解は脚気ではなくリウマチという見立てであり、幕府内でも東洋医学と西洋医学で病名に関しては割れていたようです。どちらにせよ21歳というあまりに若い死が幕府に与えた影響は大きく、この家茂の死が維新回天に繋がる大きな要因となった事は間違いないでしょう。

江戸幕府第15代征夷大将軍 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

徳川家茂が21歳という若さで逝去し、後継として15代将軍となったのが、一橋徳川家当主であり、14代将軍徳川家茂の養子となった徳川慶喜です。徳川最後の将軍として大河ドラマの主人公にもなった大変有名な将軍ですよね。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第十五代将軍 徳川家慶喜 大正二年(1913年) 77  急性肺炎

島津斉彬や徳川斉昭といった賢君たちが推して13代家定の次の第14代将軍候補にもなった一橋慶喜でしたから、15代将軍となったのはある意味当然といってもいいかもしれません。大政奉還、王政復古、戊辰戦争、江戸城無血開城・・とにかく激動の幕末はこの人を抜いては語れないという程のキーパーソンです。評価は真っ二つに分かれていますが、明治維新がこれだけの流血の少なさで済んだのはこの慶喜が将軍であったからであるのは間違いない部分だというのは大方の見方でしょう。

世界でも類を見ない無血の国体転換を成し遂げた立役者ともいえる最後の将軍・徳川慶喜ですが、明治以降は静岡で趣味に生きる悠々自適の生活を送り、晩年は貴族院議員となって再び日本国の国政に関与する事となりました。そして明治天皇が崩御して元号が大正となった1913年、風邪をこじらせて肺炎を併発し、77歳の生涯を閉じました。徳川15代将軍の中でも最高齢の将軍でした。そして、日本で最初に征夷大将軍となった奈良時代末期(791年)の大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)以来、1000年以上にわたる歴代征夷大将軍の歴史において、まさに日本国最後の征夷大将軍となったのです。

 

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