徳川歴代15代全征夷大将軍の死因となった病気と享年 6代将軍・家宣から家継、吉宗、家重、10代・家治まで

医療の進化した現代では簡単に病名が確定できますが、昔は偉人であってもその人がどんな病気で亡くなったかも確定することが困難な時代であり、資料も少ないためにどのような病気だったのか手がかりさえないこともしばしばです。

そんな中、徳川幕府の全十五代将軍はある程度資料が多く残されており、亡くなる前の病状などから死因となった病名などが絞れるパターンが多いです。

というわけで、ここでは徳川幕府の初代から十五代までの征夷大将軍の死亡の原因となった病名などを見ていきたいと思います。当然のことながらあくまで残された資料などによる推測の域を出ませんし、ここにご紹介する以外にも通説に近いものから俗説まで大小様々な説があります。全てをご紹介しているわけではありませんのでご了承ください。

徳川幕府初代家康から五代綱吉まではこちらの記事をご覧ください。

徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 初代家康から秀忠、家光、家綱、五代将軍・綱吉まで

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江戸幕府第6代征夷大将軍 徳川家宣(とくがわいえのぶ)

男子のいなかった第五代将軍の綱吉逝去後、第6代将軍に就任したのが、第四代将軍家綱の後継将軍候補にも名が挙がっていた、甲斐甲府藩主・徳川綱重の長男、徳川綱豊改め徳川家宣です。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第六代将軍 徳川家宣 正徳二年(1712年) 51 流行性感冒(インフルエンザ)

三代将軍徳川家光の子で甲斐甲府藩主徳川綱重の子、つまり三代将軍徳川家光の孫として産まれながら、母の身分が低かったために家臣の養子として育てられ、父・綱重の後継者がいなかった事から甲府藩主となり、その後は43歳で五代将軍綱吉の養子となって将軍後継者となり、48歳で第六代将軍となった徳川家宣。まさに忍耐の人生、遅咲きの将軍であります。

忍耐と苦難に耐えた人物らしく、かなり慈悲深い性格であったといわれており、人格者であったことは数々の逸話が示しています。遺骨調査の結果、身長は歴代将軍の中で最長身ではないかといわれる160.0cmであり、顔立ちは細面の鼻筋の通った美丈夫であったといわれています。まさに華も実もある将軍だったといってもいい人物ですね。

そんな忍耐の人生を耐えて将軍となった家宣でしたが、その将軍在任期間はわずか3年程に過ぎませんでした。1709年に将軍となり、1712年には急病を患って死去しました。原因は流行性の感冒、つまりインフルエンザだったのではないかといわれています。今では数多くの薬や発達した医療技術から、成人男性で死亡に至るのは稀な病気ですが、この当時は当然そんなものはありません。重症化すれば命を落とすとても危険な病気でした。まだ数えで4歳と幼かった後継将軍候補の鍋松を残して世を去るのはどれほど無念であった事でしょうか。

江戸幕府第7代征夷大将軍 徳川家継(とくがわいえつぐ)

父であり徳川6代将軍でもあった徳川家宣の急逝を受けて弱冠4歳で第七代将軍宣下を受けたのが徳川家継です。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第七代将軍 徳川家継 正徳六年(1716年) 風邪・急性肺炎

4歳での将軍就任という事で、当然政(まつりごと)は父の代からの最側近であった新井白石や間部詮房(まなべあきふさ)が執り行ったわけですが、18世紀前半に編纂された「徳川実紀」には、「聡明」にして「仁慈」の心ありと記してあり、幼年でありながらも父・家宣譲りの人格を感じさせる将軍であったようです。

しかしこの家継の将軍在任期間はわずか4年。なんと8歳という幼少の身で病に倒れて死去してしまいました。その病名は風邪であるといわれており、悪化させて急性肺炎を併発したものと思われます。医療医学の発達して現在においても、抵抗力の低い子どもや老人にとっては死の病として恐れられる肺炎。抗生物質などないこの時代でのその危険さは説明するまでもないでしょう。

当然の事ながら8歳であった家継に後継男子はなく、この後の八代将軍に関してはかなり揉める事となったのも有名な話ですね。

江戸幕府第8代征夷大将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね)

わずか4年ほどの間に6代家宣、7代家継と将軍が死去して徳川将軍家の血筋(二代将軍秀忠の直系男子)が途絶えた徳川幕府ですが、このような事態を想定して初代の家康が宗家補佐の役割のために作っていた御三家(紀州、尾張、水戸)の中から、紀州藩主の徳川吉宗が第八代将軍となりました。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第八代将軍 徳川吉宗 寛延四年(1751年) 68 中風(脳卒中)

過去にはジェームス三木作・西田敏行主演のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」、さらに民法でも松平健さん主演で約四半世紀続いたテレ朝の「暴れん坊将軍」と、時代劇の主役としても現代の人々に親しまれている徳川吉宗。しかし徳川吉宗は人気だけではなく、実際の将軍としての仕事も素晴らしい将軍でした。

享保の改革といわれる数々の幕政改革で危機的状態にあった幕府財政を立て直したその手腕は、「徳川幕府中興の祖」と呼ばれている事からもその凄さがお分かりいただけるかと思います。まさに初代の徳川家康に匹敵するほどに偉大な将軍です。

吉宗が将軍になっていなければ、江戸幕府は100年以上早く倒れていたという説さえある名君・徳川吉宗ですが、63歳の時に中風(脳卒中)を患って右半身麻痺と言語障害がある中での晩年となりました。最初の発作から5年後となる68歳で死去しましたが、脳卒中の再発によるものだといわれています。脳血管系の病気は再発が恐ろしいといいますが、まさにその通りですね。

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江戸幕府第9代征夷大将軍 徳川家重(とくがわいえしげ)

父である八代将軍・吉宗の存命中に将軍職を譲られ、大御所となった吉宗が実権を握る中で将軍となったのが第九代将軍の徳川家重です。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第九代将軍 徳川家重 宝暦十一年(1761年) 50 尿毒症

言語障害があり、コミュニケーションに難があったといわれている徳川家重。大河ドラマ「八代将軍吉宗」では中村梅雀さんがの熱演が印象深かったですね。家重の言語障害は子供の頃に患った脳性麻痺の後遺症によるものという説もあります。

コミュニケーション能力に難があったこと、能楽を好み武芸を疎かにしていたこと、大奥で酒色に耽りがちであった事、といった事例などから暗君であったという評価もあるこの家重ですが、大岡忠光といった天下の人材を取り立て、次代の家治には田沼意次を側用人とするよう遺言を残すなどといった功績から名君であったという評価もなされてきており、将軍としての評価は分かれる傾向にあります。

実は言語障害以外にこの家重は排尿障害によって頻尿であったともいわれており、そんな排尿障害に起因する尿毒症によって50歳で生涯を終えたといわれています。

江戸幕府第10代征夷大将軍 徳川家治(とくがわいえはる)

九代将軍・徳川家重の嫡男であり、家重死去の前年に将軍宣下を受けて十代将軍となったのが徳川家治です。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第十代将軍 徳川家治 天明六年(1786年) 50 脚気 毒殺説も?

五代将軍の徳川綱吉の評価が昔とは全く違ったと述べましたが、同じことは田沼意次にもいえます。わたしが歴史の授業で習っていた現役の学生時分は、田沼意次といえば賄賂政治の代名詞ともいうべき悪徳政治家のひな型のような存在でした。しかし今では田沼意次を優れた為政者として評価する声の方が大きくなっています。

しかしその田沼を側用人に抜擢して重用した徳川家治の評価はまだ低いままなのが気になります。田沼を重用して専横された暗愚な将軍・・こんな評価が昔は多くありましたが、田沼意次の評価がガラリと変わったのであれば、家治の評価ももっと上がっていいと思うのはわたしだけでしょうか。

話しが脱線してしまいましたが、徳川家治は晩年には足の浮腫みに悩まさされていたという話が残っています。これは脚気(かっけ)による典型的症状の一つといわれており、家治の死因もその脚気からくる心不全によるものではないかというのが通説となっています。脚気はビタミンB₁欠乏症なのですが、悪化すると心臓機能の低下・不全を併発する危険性があり、これを「脚気衝心」と呼び、最悪死に至る場合もある恐ろしい病気です。家治は持病の脚気により心機能不全を起こしたのではといわれているのです。ちなみに亡くなった年齢は父・家重と同じ50歳でした。

ちなみに、腹心の田沼意次による毒殺説という俗説も長く語られて来ましたが、この説はあり得ないでしょう。意次に動機が全くありません。家治死去によって失脚の憂き目にあってしまいましたし。むしろ家治に一番死んでほしくない人間こそが田沼意次ですからね。

 

この続き、十一代家斉から最後の十五代慶喜まではこちらの記事をご覧ください。

徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 11代将軍・家斉から家慶、家定、家茂、15代将軍・慶喜まで

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