徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 初代家康から秀忠、家光、家綱、五代・綱吉まで

医療の進化した現代では簡単に病名が確定できますが、昔は偉人であってもその人がどんな病気で亡くなったかも確定することが困難な時代であり、資料も少ないためにどのような病気だったのか手がかりさえないこともしばしばです。

そんな中、徳川幕府の全十五代将軍はある程度資料が多く残されており、亡くなる前の病状などから死因となった病名などが絞れるパターンが多いです。

というわけで、ここでは徳川幕府の初代から十五代までの征夷大将軍の死亡の原因となった病名などを見ていきたいと思います。当然のことながらあくまで残された資料などによる推測の域を出ませんし、ここにご紹介する以外にも通説に近いものから俗説まで大小様々な説があります。全てをご紹介しているわけではありませんのでご了承ください。

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江戸幕府第1代征夷大将軍 徳川家康(とくがわいえやす)

徳川260年の平和を築いた戦国レースの最終勝者にして、死後は“神君”と呼ばれた日本史の偉人、徳川家康が徳川幕府歴代将軍の初代となります。その家康は何が原因で死去したのでしょうか。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
初代将軍 徳川家康 元和二年(1616年) 73 胃癌・食中毒

一昔前まで徳川家康の死因として広く知られていたのは、天ぷらを食べての食中毒による死というものでした。

しかし最近の研究が進む中で、現在最も有力な死因と言われているのが、胃ガンであったという説です。家康が天ぷらを食べて食あたりしたというのは事実らしいのですが、食あたりしたのが1月で死去したのがその約3か月後という間隔から、食中毒が直接の死因という可能性が極めて低いという事となっています。

代わりに、短期間で見る見るうちに痩せていった、お腹に大きなしこり、タール便(黒色便)といった記述がある事から胃ガンの可能性が高いというのが現在の主流の学説となっているようです。

しかし、恐らくは家康にとって最後の心配の種であった豊臣家を滅亡させた翌年の73歳での死去。まさにすべき事をすべてやり終えての大往生といってもいい人生の幕引きでしたね。

江戸幕府第2代征夷大将軍 徳川秀忠(とくがわひでただ)

続きましては、徳川家康の後継者としてまだ不安定だった徳川政権を見事に安定させて三代の徳川家光へとリレーした、“理想的な二代目”といっても過言ではない名将軍・徳川秀忠を見てみましょう。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第二代将軍 徳川秀忠 寛永九年(1632年) 54 胃癌

徳川秀忠も実は父である徳川家康と同じく胃ガンによって死去したという可能性が高いといわれています。こう見てみると親子そろって胃ガンというのは、家系的なものも一因としてあったのかと思えてしまいますね。父・家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の言葉でも分かるように、忍耐の末に天下人となった苦労人でした。この秀忠も不安定だった幕府を見事に軌道に乗せて260年の泰平の時代の基礎を築き上げたその人生は苦難とストレスの連続であったことは想像に難くありません。

ちなみに小説などでは武闘派として描かれる事の少ない徳川秀忠。しかし残されていた遺骨などからはかなり筋骨隆々だったといわれており、流石は戦国の世に生まれた将軍といったところでしょうか。

江戸幕府第3代征夷大将軍 徳川家光(とくがわいえみつ)

戦国・安土桃山時代生まれの祖父・家康、父・秀忠とは違い、生まれながらの将軍(江戸時代生まれ)といわれる三代将軍・徳川家光へと参りましょう。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第三代将軍 徳川家光 慶安四年(1651年) 48 脳卒中

若い頃から何かと問題行動が多く、将軍後継者としての資質を疑われる、ある意味問題児でもあった徳川家光でしたが、徳川将軍の中でも屈指といわれる名君として江戸幕府体制を確立する等、名声は現代に鳴り響いているのですから歴史というのは本当に面白いものです。

武芸や能を好み、お忍びでの外出を好むなど、なかなか破天荒なエピソードも残る将軍家光ですが、その最後は脳卒中だといわれています。

趣味である名茶器鑑賞中に突然発作に襲われて意識を失い、意識不明のまま重体となってそのまま没したといわれています。発作は激しい震えを伴ったものであったらしく、更にその発作前には歩様に異常をきたしていたという証言もあります。というわけで、家光の死因は脳卒中によるものであるという説が濃厚です。血管が破れた方(クモ膜下出血・脳出血)なのか、詰まった方(脳塞栓・脳血栓)なのかはわかりませんが、まあ確かにほぼ脳卒中で間違いないかと思われますね。

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江戸幕府第4代征夷大将軍 徳川家綱(とくがわいえつな)

第3代将軍の徳川家光、そして第5代将軍のあの「犬公方」と呼ばれた有名将軍に挟まれて何かと地味な感じとなっている(汗)、第四代将軍の徳川家綱へと参りましょう。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第四代将軍 徳川家綱 延宝八年(1680年) 40 急性心不全などの心臓疾患

父である三代将軍家光が48歳という若さで急逝したため、わずか11歳で将軍職に就く事となった四代将軍徳川家綱。既に三代将軍家光の治世でほぼ天下泰平の世は完成していた感はありますが、それでも家綱の治世では幕府の転覆をはかった由比小雪の乱(慶安の変)が起きるなどという大きな事件もありました。

父が48歳という若さでの急逝と書きましたが、この四代将軍家綱はその父・家光よりもさらに若い40歳でこの世を去りました。しかも父と同じく急な病による死であり(倒れてから死去まで数日間)、その急死は将軍後継問題などにも影響を及ぼしたといわれています。死因としては心臓疾患などの循環器系の病気ではないかといわれています。

この家綱は若い頃から病弱だったといわれており、結局嫡男を残すことなくこの世を去りました。家綱は生後間もなく髄膜炎を患ったという記録が残っており、その後遺症で脳に障害が残ったという説も有り、そのために病弱だったという説もありますね。

江戸幕府第5代征夷大将軍 徳川綱吉(とくがわつなよし)

第四代将軍の家綱の急死によって第5代将軍に就任したのが、家綱の異母弟である徳川綱吉です。

代数 将軍名 没年(西暦) 享年 死因 摘要
第五代将軍 徳川綱吉 宝永六年(1709年) 64 成人麻疹・窒息死  無理心中説も?

徳川家康、秀忠、家光、家綱・・と、4代将軍までは全て先代の子が受け継いできた徳川幕府将軍職。しかし4代家綱が男子に恵まれずに亡くなったため、5代将軍は家綱の弟である綱吉が家綱の養子という形となって5代将軍となりました。

「犬公方」と呼ばれ、「生類憐みの令」を出した有名な将軍ですが、わたしが学校の授業を受けていた時と今では綱吉の評価は随分変わりました。昔は「暴君」という側面が強かったのですが、現在では「名君」と評する識者もいる程に再評価へと風向きが変わってきています。「生類憐みの令」は民を苦しめた悪法ではなく天下泰平の世、殺生を禁ずる平和を象徴する善法だったという評価ですね。人が人を殺めるのが当然だった戦国の名残を無くしたものだったという評価です。

とまあ、綱吉の評価については置いておくとして、どんどん低年齢化していた徳川将軍家の若くしての死でしたが、綱吉の代で歯止めがかかりました。綱吉は64歳まで生きて最期は成人麻疹で亡くなったとされています。

麻疹(はしか)というのが濃厚だといわれている綱吉の死因ですが、麻疹を患っている時に急性気管支炎にも罹っており、その発作のために餅を喉に詰まらせたのが直接の死因であったという説もあります。

なお、俗説ですが綱吉の正室だった鷹司信子による無理心中で夫の綱吉は命を落としたというものもあります。これは正室である信子が綱吉の死のわずか1か月後に亡くなった事実から伝わったもので、何の信ぴょう性も無いあくまで俗説に過ぎないものだと思われます。

 

この続き、六代家宣から十代家治まではこちらの記事をご覧ください。

徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 6代将軍・家宣から家継、吉宗、家重、10代将軍・家治まで

十一代家斉から最後の十五代慶喜まではこちらを。

徳川歴代15代全征夷大将軍の享年と死因(病名) 11代将軍・家斉から家慶、家定、家茂、15代将軍・慶喜まで

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