豊臣家滅亡の原因➁関ヶ原の戦いでの決断次第では徳川家康を倒し、石田三成が勝利していた?

豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家。織田信長や徳川家康と違って、豊臣秀吉はなかなか子宝に恵まれませんでした。ハッキリと秀吉の実子であるといわれているのはわずかに男児2名のみ。うち成人できたのは第二子の豊臣秀頼だけです。

豊臣家は結果的に時代を築いた傑物・豊臣秀吉の死から17年後、二代当主の秀頼の代でついえる事となってしまいました。

ここではそんな豊臣家の生き残りの可能性を検証してみたいと思います。

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豊臣家凋落の一番の原因である秀吉死後の関ヶ原の戦い

徳川家康

徳川家康

以前の記事「豊臣家滅亡の原因➀秀次切腹事件が無ければ関ヶ原は無い?秀頼成人までを繋げた関白自刃の失政」の中で、豊臣家崩壊の原因の一つに、秀吉による豊臣秀次切腹事件を挙げました。

確かに秀次切腹は豊臣家の人材不足に拍車をかけ、秀吉死後の徳川家康の台頭を促しましたが、それでもまだまだ豊臣家は一枚も二枚も抜けた存在だったことは間違いありません。

個人的には豊臣家滅亡の一番の要因は、やはり慶長五年(1600年)に起きた「関ヶ原の戦い」だったと思います。まあこれはほとんどの方と同意見です。

関ヶ原の戦いとは、慶長三年(1598年)に秀吉が死去した後、豊臣政権内で激化した内部対立によって引き起こされた戦争です。

秀吉の死後、五大老五奉行の合議制によって政権運営をしていく事となった豊臣政権でしたが、徳川家康が秀吉の遺命に背いて、他大名家と婚姻を結んだり、禄高の加増に関与したりし始めるなど、独断専横が目立ち始めました。

そこでもともと仲の悪かった秀吉子飼いの武将の文治派(石田三成、小西行長ら)と武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)の亀裂が加わり、豊臣政権内は家康派と反家康派に別れていく事となります。

家康を支持する派閥には、主に豊臣政権内の武断派が加わり、反家康派は文治派の石田三成が急先鋒という形となっていきます。

しかし三成は加藤清正や福島正則らの「石田三成襲撃事件」によって失脚、事実上豊臣政権から駆逐されてしまいます。そして家康は三成と同じく反家康派の急先鋒である五大老の一人、上杉景勝に謀反の疑いありとして、上杉景勝が治める会津征伐を決定し、大軍を率いて東上することとなったのです。

関ヶ原の戦いとは?東軍徳川家康と西軍毛利輝元の覇権をかけた大一番

上杉景勝の会津征伐の総大将として東へとむかった徳川家康率いる大軍は、豊臣家に背いた上杉を征伐するための豊臣秀頼の軍というものでした。つまり豊臣家の正規軍ということです。従って、多くの豊臣家恩顧の大名が従軍していました。

そして、徳川家康が会津を目指して京を留守にした間隙をついて、近江佐和山城で蟄居の身であった石田三成が打倒家康のために挙兵します。

石田三成は主に西国の大大名を味方につけ、西軍の総大将に中国の覇者・毛利輝元を据え、大軍を組織して伏見城を落城させて家康を討つべく軍を東へと進めます。

一方の家康は挙兵した西軍と雌雄を決するべく反転して西上します。率いる軍の多くは豊臣家恩顧の大名でしたが、そのほとんどは離脱することなく家康軍として付き従う事となりました(東軍を離れたのは信濃上田城主・真田昌幸と美濃岩村城主・田丸直昌のみ)。

東軍と西軍は途上の城を攻略しながら美濃国・関ヶ原で激突。

戦力はほぼ互角であり、激戦が予想されましたが、西軍には徳川家康との密約により戦に参加しない大名、さらには裏切る大名が続出。結果的に西軍はわずか半日で敗走し、天下分け目の戦いは東軍の大勝利に終わりました。

西軍首謀者の石田三成らは処刑され、西軍総大将の毛利輝元は大坂城を退去して大減封。この戦いによって反家康派を一掃した徳川家康派征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いて実質上の天下人となった・・・というわけであります。

会津征伐で家康に味方して上杉景勝を逆臣とする

この関ヶ原の戦いの経緯を見ますと、一見豊臣家にはどうしようもなかったかのように見えます。あくまで関ヶ原の戦いは豊臣政権内の内部抗争であるという体であるからです。

しかしあくまでこれは「豊臣政権内の内部抗争という体」なのです。

「体」にしてしまったのは、他でもない豊臣家であるという事です。

まず豊臣家が犯した大きな過ちは、徳川家康が上杉景勝討伐に向かう時に豊臣軍であるというお墨付きを与えた事でしょう。上杉景勝に豊臣家に対する謀反の意志があったとは思えません。確かに上杉側が意地になって対応を間違えたのは確かなのですが、だからといって挙兵して豊臣政権に牙を剝く意志など毛頭なかったのは間違いないでしょう。根底には家康主導の政権運営に対する強い反発があったのも確かだと思います。

つまり、この会津征伐こそ本来は豊臣政権内の主導権争いの様相が強いのです。五大老の家康と景勝の主導権争いですね。結果的に豊臣を巻き込んでうまく立ち回った事で、家康は景勝討伐の正当性を豊臣家のお墨付きという形で手に入れる事となったのです。

ここで豊臣家が、この争いは徳川家と上杉家の私闘であるという政治決断を下していれば、あれほど多くの武将が会津征伐に従軍することもなかったでしょう。結果、東軍の勢力は極めて小さくなったはずです。会津征伐自体が無かった可能性もかなり高かったと思います。

関ヶ原に至る過程における豊臣家の最初の選択ミス、これが会津征伐での家康への加担だと思いますね。

石田三成による豊臣秀頼、毛利輝元出陣要請を拒否した淀殿(茶々)

関ヶ原で豊臣家が犯した2つ目の大きなミス、それは逆に西軍を率いて関ヶ原本戦に赴いた石田三成らに表だって加担しなかったという事でしょう。

三成は家康と雌雄を決するべく西へ向かって進軍しましたが、その途中で大坂城の豊臣秀頼と西軍総大将の毛利輝元に出陣を促しています。

ここでもしも秀頼と輝元が出陣していれば、戦況は大きく西軍有利に傾いたでしょう。

前述したように、徳川家康率いる東軍として西上していた大軍には数多くの豊臣家恩顧の大名がいました。彼らの多くは強烈なアンチ石田三成派でしたが、仮に石田三成の率いる西軍に豊臣秀頼が大将として加わっていると知れば、その多くは西軍と刃を交える事を躊躇ったことは間違いありません。西軍につく者も多かった事でしょう。

いや、直接秀頼出馬とまではいかずとも、秀頼の名で家康討伐の下知を下せば良かったのです。三成に加担することを鮮明にする、それだけで戦況は大きく違ったはず。少なくとも裏切り、日和見が続出した関ヶ原本戦の惨敗は無かったはずです。

毛利輝元出陣でも効果は大きかったでしょう。少なくとも吉川広家と毛利秀元は東軍と戦う事が出来たはずです。さらに、西軍有利を演出することで小早川秀秋の寝返りを阻止できた可能性も高いでしょう。

しかし、秀頼出馬も輝元出陣も淀殿(茶々)の鶴の一声によって阻止されたといわれています。

西軍と東軍の争いはあくまで豊臣政権内の内部対立によるものである、という事をこの時点で豊臣家が認めてしまったという事です。石田三成らへの諸大名の反感を最大限に利用しようとした徳川家康の目論見、これを阻止する最大の好機を逃してしまったのです。そしてその決断は西軍崩壊、ひいては豊臣家の没落へと繋がっていくのです。

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徳川家の論功行賞、処断によって勢力を削られた豊臣家と毛利家

関ヶ原本戦で惨敗を喫した西軍。勢いに乗った東軍は西軍に属した各大名の本拠地陥落を目指してさらに西へと進みました。

石田三成の居城である近江佐和山城は裏切った小早川秀秋らによって落城させられ、その他西軍に加担した多くの城が落城・開城を余儀なくされていきます。そんな中、大坂城にあった豊臣秀頼、淀殿に対して家康は使いを出して二人の処分を考えていない事を伝えます。この報を聞いた淀殿は安心し、お礼の手紙を家康に出したと言われています。

さらに西軍総大将の毛利輝元は、徳川家康と内通して関ヶ原本戦で合戦に参加しなかった分家の吉川広家から毛利本家を処分しないように徳川家康を説得したとの情報を得、大坂城を退去して徳川家康に明け渡してしまいます。

結果はどうなったでしょうか。

徳川家康は関ヶ原の戦いによる東軍武将への論功行賞と西軍武将への処罰を決めます。その論功行賞によって豊臣家の蔵入地(豊臣家の直轄地)は全て東軍大名へと割り振られてしまいます。これによって豊臣家の直轄地を含めた領地は約220万石から約70万石へ、三分の一となってしまいます。

反対に徳川家康は約250万石から約400万石へと大加増。しかも佐渡金山や生野銀山、石見銀山といった財政基盤も徳川家のものとして豊臣家の財力を削減して徳川家の財政を確保します。

これによって徳川家と豊臣家の勢力は逆転します。徳川家は勢力上は豊臣家よりはるかに大きな力を得る事となったのです。論功行賞を行ったことで武家の棟梁としての立場も鮮明となり、実質上全国の大名家は豊臣家臣から離れたという事にもなりました。

毛利家も一旦は本領安堵を約束されましたが、その後毛利輝元が西軍総大将として働いたという決定的証拠を突きつけられて、約110万石を全て没収するという沙汰を受けました。結局、分家の吉川広家が自らの領地となるはずだった長門周防約37万石を全て毛利本家に譲る事で毛利家は守られましたが、110万石から37万石という、これも三分の一以下の大減封となってしまったのです。

お家の安全を担保して武装解除させておいて、それから厳しい沙汰を言い渡すという、家康の巧妙な外交戦術にまんまと引っかかってしまったといわざるを得ない結果でしょう。

立花宗茂の徹底抗戦を退けて大坂城を明け渡した毛利輝元と豊臣家

しかし、関ヶ原本戦で大惨敗を喫した後でもまだ西軍に起死回生のチャンスは残されていました。

まだ大坂城は無傷で大量の兵が残されていたのです。さらに、関ヶ原本戦で戦った毛利秀元隊約1万5千、吉川広家隊約3千はほぼ無傷で撤退していましたし、長宗我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)隊合わせて約1万もかなりの兵数が残っていました。

さらには九州の猛将・立花宗茂と毛利元康、小早川秀包らも大津城攻めで関ヶ原本戦には間に合わなかったために無傷で大坂城に入れる状態となっていました。さらに西軍の大名たちは多くの兵を国元に残してきており、まだかなりの残存勢力があるという状態だったのです。

そして、大津城攻めを終えて西軍惨敗の報を聞いた立花宗茂らは、大坂城にいる西軍総大将の毛利輝元に大坂城での徹底抗戦を主張します。しかし、徳川家康の甘言によって秀頼、淀殿、そして毛利輝元は既に大坂城明け渡しに傾いており、結局一戦も交えることなく徳川家康に大坂城を明け渡してしまったのです。

しかし、もしもこの時点で立花宗茂の言うように大坂城に籠城して徳川軍を迎え撃ったらどうなったでしょうか。大坂の陣の折に徳川家康率いる20万超の大軍をもってしても落とせなかった難攻不落の大阪城。そこに歴戦の武将や精鋭が立て籠もって戦えば、徳川家康も大苦戦をしいられたでしょう。大坂の陣よりも徳川の兵ははるかに少ないですしね。

豊臣秀頼、淀殿を擁して大坂城で戦えば、徳川家についた豊臣恩顧の武将は大量に離脱したはずです。そのうち各地方からも豊臣に味方する大名たちが火の手を挙げたでしょう。西軍についた武将も息を吹き返したかもしれません。さらには九州で不穏な動きをしていた黒田官兵衛や野望の塊である伊達政宗らもどんな動きをしたかはわかりません。

毛利輝元を説き伏せて、豊臣軍という正当性を与えたうえで徳川軍と大坂城で決戦を挑めばまだこの戦の趨勢は微妙だったでしょう。ここで白旗を挙げた事が第三のミスといえるでしょうね。

石田三成と豊臣家の間にあった徳川家康の危険度に対する温度差

以上、関ヶ原における豊臣家の選択ミスと思われるものを列挙しました。

まあ、第一の会津征伐に関しても第二の関ヶ原本戦への秀頼、輝元出陣に関しても、第三の大阪城での徹底抗戦にしても、全ては歴史の結果を知っているからこその後出しジャンケンなのかもしれません。

しかし、徳川家康という男の本当の恐ろしさを豊臣家が見抜けなかったというのは、やはり致命的なミスだったと思いますね。織田信長亡き後にどうやって豊臣秀吉がその座を奪ったのかという事を考えてみれば、家康がこの絶好の機会を虎視眈々と狙っていそうな事くらいは察しがついても良さそうなものだと思うんですけどね。

徳川家康の危険性を最も認識していたのは、やはり石田三成だけであったと言わざるを得ませんね。豊臣家に仇なすものとして豊臣家臣として家康排除の必要性を認識していた石田三成。しかしその卓越した危機管理意識は、守ろうとした豊臣家との共通認識ではなかったのかもしれませんね。

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