豊臣家滅亡の原因➂大坂冬の陣・夏の陣での豊臣方の勝利の可能性は?真田幸村の策の重要性

木下藤吉郎として織田信長に仕官し、織田家で城持ち武将へと出世し、信長亡き後天下統一を果たして関白という人臣最高の位まで裸一貫で上り詰めた稀代の英雄・豊臣秀吉。

しかし、そんな秀吉亡き後の豊臣家は衰退の一途を辿ります。

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸幕府を開いて武家を統率する立場になり、五摂家として公家扱いであった豊臣家は徳川家の家臣というポジションではなかったものの、全国の大名家を傘下に置いて支配体制を固める事となる徳川家との「武家」としての力差は比べようもなく開く一方となったのです。

そして両者は大坂の陣でついに武力衝突となり、夏の陣で豊臣秀頼は自刃。ここに豊臣家は滅びます。

ここではそんな豊臣家の生き残りの可能性について触れてみたいと思います。

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老齢の徳川家康が生前に取り除かなければならなかった災いの種とは

大坂の陣における徳川家康の思惑については専門家の間でも意見が分かれるところとなっているのが現状です。

大坂の陣勃発時(慶長十九年1614年)の徳川家康の年齢は74歳。対する豊臣秀頼は22歳。人間50年といわれた当時の寿命から考えても、内府徳川家康の命はいつ尽きてもおかしくない状態でした。

前述したように、徳川家康が江戸に幕府を開いて幕藩体制を確立し、全国の大名家の頂点に立ってから14年が経っており、武家社会は完全に徳川体制となっていました。しかしその中でも豊臣家だけは別格といってもいい存在だったのです。

豊臣家は石高こそ70万石足らずという、徳川家の400万石には遠く及ばない存在でしたが、豊臣家は五摂家として関白になれる資格を有しているなど、家格としては徳川家と同等かそれ以上の存在だったのです。

それよりなにより、関ヶ原の戦いから14年が経ち、加藤清正や浅野幸長といった大名こそいなくなったものの、全国にはまだまだ数多くの豊臣家恩顧の大名たちが残っていました。彼らの多くは関ヶ原では石田三成らへの反感から徳川家康に味方しましたが、豊臣秀頼への忠誠心はいまだに熱烈なものがあったといわれています。

江戸幕府初代将軍の徳川家康は既に二代将軍の座を嫡男・徳川秀忠に譲っており、権力委譲も順調に進んでいたとはいえ、自分の死後に幕府が脅かされる可能性を極力排除しておきたかったとしても不思議ではありません。

そしてそんな可能性を秘めた唯一の存在こそ、依然大阪にあって財力と求心力を保っていた豊臣家だったのです。

豊臣家存続?滅亡?徳川家康の真意は?

豊臣秀頼

豊臣秀頼

織田信長は本能寺の変で信長と嫡男・信忠が討たれ、その後は家臣である豊臣秀吉に政権を乗っ取られました。

その秀吉も死後、豊臣政権の中心人物であった徳川家康に政権を乗っ取られる事となりました。

その過程を誰よりもよく知っている家康は、当然偉大なるカリスマ亡き後の体制維持の困難さを理解していました。自分の死後にカリスマ性で後継者の秀忠に勝る豊臣秀頼に政権を取って代わられるのではないかと考えていたのは間違いないでしょう。

そしてそんな偉大なるカリスマ・家康も齢70を超えた時、命あるうちに将来の禍根になりかねない火種を消しておこうと思ったはずです。それが大坂の陣だったのです。

専門家の意見が別れるところというのはこの時の家康の豊臣家に対する考え方です。分かれている説には大まかに二つあります。

  1. 秀頼が大坂城から出て、豊臣家が一大名として他の大名と同じように生きるのであれば存続を許したであろうという説
  2. あくまで豊臣家を滅ぼすつもりであり、大坂からの転封や人質で済ますつもりはなかったという説

この2つに大別されるでしょう。

わたしは家康はあくまでも豊臣家を跡形もなくこの世から消すつもりであったと考えます。一大名家としてでも、残しておくだけでその火種はくすぶり続けるのは間違いないからです。徳川に対する反感が高まった時に大名家が反徳川として集まれる旗、それは豊臣家以外にはあり得ません。例え一大名家に落ちたとはいっても、関白にまでなった豊臣の威光はそう簡単に消せるものではないからです。

その危険性を誰よりも認識していたのが徳川家康でしょう。だからこそこの人物は戦国天下取りレースの最終勝利者に成り得たのです。

方広寺鐘銘事件で片桐且元の条件を受け入れれば豊臣家は生き残れたのか?

豊臣家と徳川家が戦った大坂の陣の発端は「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」というものでした。豊臣家が寄贈した方広寺の鐘に刻まれた一文の中で、徳川家を呪詛する文言があるという事が問題となったのです。

この件に関しては、単純に徳川家のいちゃもんと片付ける事は出来ない、豊臣家の過失(故意説もあり)を認める意見が大勢を占めていますが、徳川家がこの件を豊臣家追及に最大限利用したのは間違いありません。

結果的には豊臣家臣でありながら徳川家臣でもあった片桐且元を、徳川家に無断で豊臣家が処分した事で大坂の陣は開戦することとなったのですが、まあこれは単なるきっかけに過ぎないでしょう。豊臣家の詰めや現状認識の甘さはもちろんありますが、事ここに至っては、戦は回避できない状態であったと思いますね。大坂城も開戦ムードが高まっていましたし。

ちなみに大坂の陣開戦前に片桐且元は徳川家と豊臣家の融和を図るため、自らの私案を3つ秀頼に提示し、そのうちどれかを採択して実行することを提案したといわれています。その三つの案が以下です。

  • 他大名と同じく、豊臣秀頼をが江戸に参勤する
  • 豊臣家が大坂城から退去して地方に国替えする
  • 淀殿(茶々)を人質として江戸に送る

結果的にこのうちどれ一つとして豊臣家は呑めないという事になり、片桐且元は裏切者のレッテルを張られる事となったのですが、このいずれかを呑んだとしても恐らく遅かれ早かれ豊臣家は何らかの理由をつけられて滅ぼされていたと思いますね。

理由は前述したように、家康はあくまでも「自分の命あるうちに将来の災いの芽を摘んでおく」ことしか考えていなかったであろうからです。

第一、この条件を豊臣家が呑めないであろうことは家康は百も承知だったと思います。それほど豊臣家はプライドが高く、徳川家の一家臣になる選択肢など頭の片隅でも考えてもいなかったのです。

頼みの綱である豊臣恩顧の大名家に見放された大阪城

大阪冬の陣前に豊臣家は全国の大名に対して味方になるよう書状を送りますが、大名家で豊臣に味方する者は誰一人いませんでした。集まったのは関ヶ原で領地を失ったり徳川政権下で冷遇されていた浪人衆だけでした。大阪冬の陣には約9万の兵力は集まりましたが、徳川軍はその倍以上の約20万。さらにその数倍にもなる兵力が全国の大名家に温存されている状態だったのです。

普通に考えればどう考えても勝ち目のない戦ですね。いくら難攻不落の大阪城があるとはいえ、援軍が期待できない以上は籠城戦になってもいつかは兵糧が尽きて敗戦する運命です。前述したとおり、徳川家康に豊臣家を存続させる意思はなかったとわたしは考えています。

では大坂と江戸が手切れになった時点で豊臣家に生き残る可能性は皆無だったのか?

いや、一つだけありました。

それこそが、大坂城に入城した真田左衛門佐幸村が大坂冬の陣開戦前に主張した作戦だったのです。

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籠城か野戦か?孤立無援の豊臣が徳川に勝つためのただ一つの正解とは?

大坂城に迫りくる徳川の大軍を迎え撃つために幸村がたてた策はこのようなものだったといわれています。

  1. 徳川軍到着前に全軍をもって進軍し、畿内の各国を制圧
  2. 西国大名と関東の徳川軍を完全に分断し近江瀬田川で徳川主力を迎撃
  3. 徳川軍と戦って時を稼いでその間に諸大名を味方につける
  4. 以上の策が失敗に終われば大坂城で籠城戦

実に見事な策です。まさに先手必勝。

豊臣恩顧の大名は主に西国に多く固まっています。中には毛利や島津など、関ヶ原で徳川家に遺恨を持つ家も多いです。そんな諸大名を味方につけるには豊臣が有利な状況を作り出す事が一番であるという事ですね。

当然、徳川軍は本隊や譜代・一門衆以外の勢力は厭戦気分でしょう。士気が高くないであろうことは明白です。豊臣家に同情的な大名も多いですし、豊臣に勝ち目ありと見れば十分なびいてくれる味方も現れるという見立てです。

あくまでこの作戦の本質は、徳川軍から豊臣に味方する大名を引き出すという事です。徳川の大軍を相手に真っ向勝負で勝てるとは思っていません。だからといって籠城ではいつまでたっても豊臣家に味方してくれる大名など現れるわけがないというわけです。従って、籠城策は最後の最後までとっておこうという策ですね。

さすがは大坂夏の陣で「真田日本一の兵(つわもの)」と称賛された真田幸村と言わざるを得ません。

大阪冬の陣での真田幸村の策は後世の創作?

しかしこの幸村の献策は採用される事はありませんでした。

豊臣家は、豊臣家譜代の家老である大野修理治長(おおのしゅりはるなが)らが推した籠城策と決まってしまったのです。

幸村の策が退けられた時点で大坂城と豊臣家の命運は尽き果てていたと言ってもいいかもしれません。それほどここでどんな策を立てるかは重要だったわけです。

実は、この幸村の迎撃策は後世の創作ではないかという意見もあります。英雄幸村像を作り上げるためのものという説です。しかし、基本的にはこれが幸村の策かどうか、このような策が実際に大坂城で議論されたのかどうかはここではそうたいした問題ではないと思います。

言えることはただ一つ、豊臣家が徳川家にこの大坂の陣で勝つ見込みがあったとすればこの作戦しかなかったであろうという事です。この策こそが豊臣家にとっての唯一の正解だったという事です。

徳川家康に豊臣家を存続させる意思があったのだとすれば、大坂冬の陣の和睦後、大坂夏の陣開戦前の徳川家の出した条件(豊臣家の大坂城退去・国替え等)を豊臣家がのめば良かったという意見もあるかもしれませんが、何度も言う通り、家康はこれを機に豊臣家を滅ぼすつもりだったので難癖をつけられて改易されていたのがオチでしょう。

大阪冬の陣を大阪城籠城で迎えた時に、すでに豊臣家は詰んでいたのだと思いますね。

大坂夏の陣・冬の陣の顛末 豊臣家はいかにして滅びたのか

最後に大坂の陣の開戦から終戦までを簡単に説明しておきます。

大阪冬の陣で籠城策を採用した豊臣家。難攻不落を誇る大坂城の守備力の前には徳川の大軍も手を焼きました。大坂城の一番の弱点と言われた城の南側には出城である真田丸を築き、真田幸村がそこで徳川を散々に打ち負かし、戦況は豊臣有利かと思われました。

しかし徳川軍は大砲による遠距離攻撃主体に切り替え、イギリス製のカルバリン砲なども投入して昼夜問わず大坂城にうちかけます。城内の豊臣家は寝る事もままならず追い詰められていき、本丸に着弾した一発の砲弾によって淀殿の侍女たち8名が死亡するという事件を機に豊臣家は徳川家との和議に舵をきることとなっていくのです。

豊臣家と徳川家の和睦は成りましたが、和睦条件として大阪城は堀が埋められ、二の丸と三の丸まで破壊されて裸城となってしまいます。

徳川家康がこの和睦を仮のものだと見ていたことは、家康が和睦後すぐに国友鍛冶に大砲の発注を依頼した事からも明らかです。あくまでこの和睦による徳川の狙いは大坂城防御力の無力化にあります。大阪城の戦闘力を無くすことで再戦の際に豊臣家の籠城という選択肢を無くしてしまったのです。

和睦後まもなくして大坂城の牢人たちは武具を調達し、和睦条件で埋められた堀を掘り返す等の行動を始めます。徳川軍はこの行動に対して再び大軍を大阪に派遣。大阪夏の陣へと突入するのです。

大阪夏の陣は実質2日間だけの戦いでした。

籠城策が使えなくなった豊臣軍は、城外で徳川の大軍を迎え撃つこととしました(というよりこれしか選択肢がありませんでした)。徳川軍16万5千に対して豊臣軍5万5千。3倍もの兵力差です。

5月7日の道明寺の戦いでは猛将・後藤又兵衛が討ち死に。午後の誉田の戦いでは薄田兼相(すすきだかねすけ)が討ち死に。さらに同日の八尾・若江の戦いでは木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)も奮戦むなしく壮絶な討ち死にを果たします。

続く5月8には大坂夏の陣最大の激戦となった天王寺・岡山の戦いとなりました。この戦いで天王寺口に布陣した真田幸村、毛利勝永は目覚ましい戦いを見せ、徳川家康の本陣を大混乱に陥れて家康に切腹を覚悟させますが、数で圧倒的に勝る徳川軍の立て直しにより真田軍は壊滅。幸村は壮絶な討ち死にを果たしました。さらに別動隊として控えていた明石全登(あかしてるずみ)も、味方の敗戦を聞いて松平忠直隊に突撃、全登はそのまま行方知れずとなりました。

岡山口でも大野治房・治長兄弟らが徳川の勢いを食い止める事が出来ず、豊臣軍は毛利勝永が殿を務めて大坂城内に退却することとなります。

裸城となった大坂城には徳川軍が雪崩をうって攻め込んできました。本丸からも火の手が上がり大阪城は炎上。豊臣家は家康の孫娘の千姫を使いに立てて豊臣秀頼の助命を嘆願しますが聞き入れられず、豊臣秀頼は母・淀殿やその他女性たち、そして毛利勝永、大野修理、真田大助らとともに自害して果てました。

ここに大坂の陣は終結。豊臣家は滅亡したのです。

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