大坂城五人衆の壮絶な最期➁牢人衆最強の毛利勝永、土佐の長宗我部盛親、切支丹武将・明石全登

毛利豊前守勝永(もうりぶぜんのかみかつなが)

天正六年(1578年)、織田信長家臣であった豊臣秀吉に仕える毛利勝信の子として生を受けた毛利勝永。当時の姓は森で、森吉政と名乗っていました。

織田信長死後、天下人となった豊臣秀吉の九州平定後に豊前国小倉の領主となった森家は、その後毛利に改姓します。

肥前、豊前の国人一揆鎮圧に功を成したほか、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも武功を挙げ、秀吉死去の際には形見分けとして「貞真の刀(さださね)」を譲られるほどに豊臣政権内では評価されていたといわれています。

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城攻城に大きく貢献し、3千石の加増を受けました。しかし本戦では西軍が敗れ、本拠地の豊前小倉城も東軍の黒田如水(官兵衛)に落とされ、戦後は改易処分となり罪人として肥前の加藤清正に預けられます。その後は土佐の山内一豊の元へ送られ、山内家では流人の身でありながら1千石を宛がわれるという厚遇を受けていました。

慶長十九年(1614年)、徳川との戦が不可避となった豊臣家から入城の誘いを受け、一計を案じて山内家を船で脱出、嫡男・勝家とともに大坂城に入城を果たしました。

織田信長時代からの豊臣家譜代の家臣であった毛利勝永の大阪入城は歓喜を持って迎えられたといわれており、真田信繁や長宗我部盛親らとともに大坂浪人五人衆として大軍を任される事となります。

大阪冬の陣では大阪城西部の今橋付近の守備に当たりましたが、目立った武功を挙げる事は出来ず、大阪冬の陣は東西の和睦によって終わりを迎えました。

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大坂夏の陣での毛利勝永

毛利勝永は5月6日の道明寺の戦いに後藤又兵衛、真田信繁らと参加します。平野に陣を張った大坂方ですが、5月6日早朝に陣を出た後藤又兵衛隊は、真田・毛利隊の到着前に10倍の兵力を誇る徳川軍と道明寺で開戦。奮戦むなしく又兵衛は討ち死にし、後藤隊は壊滅状態に陥ります。

戦場についた真田隊は後藤隊を撃破して勢いに乗って押し寄せる伊達政宗軍と互角の戦いを繰り広げますが、誉田でも大坂方が敗北したことによって全軍撤退となります。

この時の有名なエピソードとして、後藤又兵衛戦死の報に落ち込み自身も討ち死にの覚悟を吐露した真田信繁に対して、「ここで死んでも意味はない。どうせなら秀頼公の前で華々しく散ろうではないか」と励ましたという逸話が残っています。この逸話は勝永の冷静沈着さと、武将としての器の大きさを示す逸話として語り継がれています。

そして5月7日。毛利勝永が大坂城最強の武将であったといわれる所以ともなる、天王寺・岡山の戦いが火蓋を切ります。

毛利勝永は兵約4千を率いて四天王寺に布陣。合戦は毛利隊が本多忠朝隊を攻撃したことによって口火を切ります。

毛利隊は大坂方の約3倍を誇る徳川軍に対して猛攻を見せます。本多忠朝隊を瞬く間に撃破して大将・本多忠朝を討ち取ると、続いて本多勢の救援に駆けつけた小笠原秀政、忠脩(ただなが)親子の隊も蹴散らし、秀政・忠脩親子も討ち取ってしまいます。大坂冬の陣・夏の陣を通じて徳川軍の大将を討ち取ったのはこの毛利勝永だけでした。しかも3つの大将首という大活躍だったのです。

この毛利勝永隊の猛攻によって徳川軍は大混乱に陥り、その間隙をついて、茶臼山に陣を張っていた真田信繁は毛利隊の前方にあった徳川家康の本陣に突撃をかけました。後世に語り継がれる有名な大坂夏の陣の真田の家康本陣への突撃は、毛利勝永隊の獅子奮迅の活躍による好アシストがあってのものともいえるでしょう。

真田信繁の乾坤一擲の突撃と、毛利勝永の鬼神の如き働きによって一時は切腹も覚悟した家康でしたが、徳川軍は次第に落ち着きを取り戻し、圧倒的兵力によって戦況を有利に運び始めます。やがて真田信繁隊が壊滅すると、他の部隊も次々と撃破されていきます。

唯一戦闘力を保持し続けて徳川と対峙していた毛利軍は、全軍退却となった豊臣家の殿を務め、追撃してきた藤堂高虎隊を撃破し、細川忠興隊や井伊直孝隊も退けるなど、見事な退却戦をしてのけます。全軍総崩れとなったこの戦いにおいて、一番に戦端を切りながら徳川の大将を討ち取って最後まで持ちこたえ、さらに退却戦の殿をつとめて見事に大阪城に撤退させた采配は、まさに大坂夏の陣のMVPに相応しい働きと言えるでしょう。

大阪城に撤退した豊臣家にはすでに戦う力は残されていませんでした。襲い掛かる徳川の兵は大坂城になだれ込み、城からは火の手が上がります。

千姫の助命嘆願も受け入れられず、最期を悟った豊臣秀頼や淀殿(茶々)らは、燃え盛る大坂城内の籾蔵で自害して果て、豊臣家は滅亡しました。

最後に秀頼を解釈したのは毛利勝永だといわれています。秀頼を解釈した後、勝永もその後を追って自害して果てました。享年37。

大阪夏の陣のMVPは毛利勝永?真田幸村との人気差はなぜついた?

大坂夏の陣を見聞した宣教師は、真田と毛利の奮戦によって徳川家康は自害しようとしたと伝えられています。さらに、江戸時代中期を代表する文化人・神沢杜口(かんざわとこう)は著書「翁草」の中で「後世に語り継がれているのは真田の事ばかりで毛利の名はない」と、後世での真田信繁と毛利勝永の扱いの違いのあまりの大きさを述べています。

真田信繁は、死後講談などによってその活躍が取り上げられ、真田幸村と名を変えて庶民の間で大人気を博すこととなりました。その後も幸村に仕える架空の忠臣たちを描いた「真田十勇士」なども創作され、真田人気は今なお絶大なものを誇っています。

しかし、もしも江戸時代の講談師が真田幸村でなくこの毛利勝永を取り上げていれば、今の真田幸村と毛利勝永の知名度や人気は全く逆のものとなっていたでしょう。そういう意味では毛利勝永という武将は戦国時代においても過小評価されている武将といえるのかもしれません。

個人的には豊臣方における大坂冬の陣のMVPは真田信繁、夏の陣のMVPはこの毛利勝永だと思っています。総合すれば大坂の陣のMVPは真田信繁なのかもしれませんが、毛利勝永も並び称されて然るべき武将なのは間違いないと思いますね。

長宗我部土佐守盛親(ちょうそかべとさのかみもりちか)

盛親は天正三年(1575年)、土佐の戦国大名・長宗我部元親の四男として生まれます。

嫡男・信親が戸次川の戦いで戦死すると、四男でありながら、父・元親の後押しもあって長宗我部家の後継者となります。慶長四年(1599年)に元親が死去すると、名実ともに盛親が長宗我部家を相続。

しかし翌年の関ヶ原の戦いでは西軍に味方して関ヶ原本戦で敗戦。戦わずして撤退した盛親は東軍の追撃を振り切って海路土佐へと帰郷します。

その後は東軍の総帥・徳川家康に謝罪して本領安堵を願いますが、お家騒動によって実の兄である津野親忠を殺害してしまったために家康の怒りを買って土佐を取り上げられて改易となってしまいます。

その後は京の町で厳重な幕府の監視下に置かれながら暮らしていたといわれています。旧長宗我部家臣団からの仕送りや、京都の寺子屋で子どもを教えていたともいわれていますが、経済的には困窮していたとも伝えられています。

そんな中、盛親のもとに豊臣家から仕官の誘いが届きます。盛親は徳川方に味方して豊臣と戦いたいと幕府側を油断させ、その隙をついてわずか6人の供とともに大坂城入城を果たします。

大阪城に集まった浪人衆の中で、関ヶ原以前の大名としての格はこの長宗我部盛親が別格ともいえる程の大物でした。

大坂浪人五人衆として迎えた大阪冬の陣では大坂城南側の八丁目口・谷町口を守備します。有名な「真田丸の戦い」では真田信繁とともに真田丸に籠り、徳川軍を撃破したともいわれています。

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大坂夏の陣での長曾我部盛親

長宗我部盛親隊は5月6日の八尾・若江の戦いに参加します。

約5千の兵力で八尾に布陣した長宗我部盛親は、同じく約5千の兵を率いた藤堂高虎隊と対峙します。

藤堂高虎隊の攻撃を受けた長宗我部隊の先鋒は壊滅。勢いに乗って前進する藤堂隊に対して盛親は、騎馬隊も馬を降りさせて全て槍を持たせて堤防に潜ませます。

藤堂勢を十分に引き付けたところで一斉に立ち上がって槍による攻撃を仕掛けると、藤堂隊は大混乱に陥ります。この乱戦の中、藤堂隊は藤堂高刑や藤堂氏勝、桑名吉成といった旗本や侍大将が命を落とします。さらに救援に駆けつけた藤堂高吉隊も撃退するなど、長曾我部軍の強さを存分に見せつけました。

しかし若江で戦っていた木村重成隊が全滅したという報を受け、長曾我部軍は大坂城への撤退を余儀なくされてしまいます。長宗我部軍はこの撤退戦によってかなりの被害を受けたとされており、翌日の戦闘には参加できなかったといわれています。しかし、相手方の藤堂高虎隊も同じく大被害を受け、戦闘不能に陥る事となった激戦でした。

翌日、大坂城近くの京橋口を守備していた盛親は、大坂城が落城すると戦場を離脱します。しかし八幡に潜んでいたところを捕えられ、二条城城外で柵木に縛られて晒されたのち、京を引き回されて六条河原で斬首に処せられました。享年41。

盛親が大阪城で自害しなかったのは、長宗我部家再興のために再起を期していたとも、京の町に潜伏して家康・秀忠の命を狙うためであったともいわれています。盛親の死によって、完全に長宗我部家は滅亡することとなりました。

明石掃部全登(あかしかもんたけのり/てるずみ)

明石全登

明石全登

全登は、浦上家家臣の備前国保木城・明石行雄の子として生まれました。

浦上家滅亡後は宇喜多家家臣となって直家と秀家に仕え、関ヶ原の戦いの前には宇喜多家の家老として、五大老を務める宇喜多秀家の片腕ともいわれる存在でした。

西軍として参加した関ヶ原本戦の前哨戦である「杭瀬川の戦い」では、石田三成隊の猛将・島左近清興とともに見事な連携を見せ、東軍の中村一栄・有馬豊氏隊を奇襲によって撃破する活躍を見せます。関ヶ原本戦でも宇喜多隊8千を率いて奮戦しますが、小早川秀秋の裏切りによって西軍は壊滅し、宇喜多隊は退却。全登は見事な退却戦で宇喜多秀家を戦場離脱させます。

しかし宇喜多家の本拠地・岡山城は既に落城し、主君秀家も行方不明となって宇喜多家は改易、全登はそのまま浪人となってしまいます。

浪人中の全登の消息は諸説ありますが、熱心なキリシタンであった全登は、黒田家を初めとするキリシタン大名に保護されていたと伝わっています。

そして徳川と手切れとなった大坂城からの誘いを受けて大坂城に入城を果たした全登は、真田信繁や後藤又兵衛らとともに大坂城牢人五人衆として大阪冬の陣に臨むこととなったのです。

敬虔なキリシタンであった全登が豊臣に味方した理由は二つあったといわれています。一つは切支丹に対する弾圧を強めていた幕府に対する反発、そしてもう一つは八丈島に島送りとなった旧主・宇喜多秀家の救出であったと伝わっています。

大阪冬の陣で大阪城南東部の黒門口を守備した全登は、和睦を経て大坂夏の陣へと向かっていくこととなります。

明石全登の大坂夏の陣

5月6日、明石全登隊は正午ごろに道明寺に到着。しかし前乗りしていた後藤又兵衛の隊はすでに徳川軍によって全滅した後でした。攻めかかる徳川の大軍を相手に奮戦した明石軍ですが、共に戦った薄田兼相(すすきだかねすけ)隊は壊滅し、明石隊は誉田に後退。そこで真田信繁隊、毛利勝永隊と合流しました。この激戦によって全登は負傷したと伝えられています。

翌5月7日。負傷した全登はその満身創痍の体に鞭打って最後の戦いに赴きます。

天王寺・岡山の戦いでは真田信繁、毛利勝永らの主力部隊とは別に、別動隊300を率いて木津川堤防付近に待機します。一説によると、この明石全登の別動隊は機を見て徳川本陣に突撃をかける決死隊であったという説もあります。

毛利勝永の奮戦、真田信繁の突撃などで徳川本陣を大混乱に陥れた豊臣家でしたが、徐々に態勢を立て直した徳川軍によって天王寺口の大坂方は壊滅。これを見た全登は大阪城へ迫る徳川軍を300の兵で迎撃。敗走させます。しかし徳川の援軍が続々来襲し、四方を囲まれた全登は東に血路を開くべく、幾重にも取り囲む徳川に向かって決死の突撃を敢行します。

そして全登はそのまま行き方知れずとなります。

全登のその後の消息はわかっていません。

旧領であった備前に潜伏したとも、九州のキリシタンに保護されたとも、日本を出て南蛮に渡ったともいわれています。

ただひとつだけ言えるのは、敬虔なキリシタンであった明石全登が自害していないということだけは確かでしょう。

 

五人衆の真田信繁、後藤又兵衛についてはこちらの記事をご覧ください。

大阪城五人衆の壮絶な最期➀大坂夏の陣で真田幸村、後藤又兵衛はどう戦い、どう散っていったのか?

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