幕末四大人斬りの最期 岡田以蔵、中村半次郎(桐野利秋)、河上彦斎、田中新兵衛、自決や斬首、戦死等その最後

幕末という時代は戦国時代と並ぶ日本史上稀に見るカオス(混沌)の時代でした。尊王と佐幕、攘夷と開国、様々なイデオロギー等が対立する時代、多くの血が流れましたが、その中でも顕著だったのが暗殺でしょう。

「天誅」に代表される幕末の暗殺事件において暗躍した暗殺者の中で有名なのが、いわゆる「幕末四大人斬り」と呼ばれる人物たちです。

ここでは多くの要人らをその手にかけた幕末四大人斬りと呼ばれる四人の剣士それぞれの最期をご紹介したいと思います。

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“人斬り新兵衛”こと薩摩藩士・田中新兵衛(たなかしんべえ)

人斬り新兵衛の異名で知られる田中新兵衛は天保三年(1832年)生まれの薩摩藩士です。

しかし元々の新兵衛の出自は侍ではなく、船頭或いは薬屋の出であったといわれています。

同じ四大人斬りの一人である岡田以蔵が所属していた土佐勤皇党の盟主・武市半平太(瑞山)と義兄弟の契りを結んでいた関係から、以蔵とともに行った天誅も何件かあるといわれています。

代表的な暗殺としては、京都を牛耳っていた実力者・島田左近(正辰)でしょう。この暗殺によって京の町に吹き荒れた「天誅」が始まったとする説が濃厚です。いってみれば「天誅」のはしり、人斬りの元祖というべき存在といってもいいかもしれません。越後の尊攘志士・本間精一郎の天誅は土佐の岡田以蔵と薩摩の田中新兵衛によるものだともいわれています。

そんな新兵衛の最期は文久二年(1863年)。

公家の姉小路公知が暗殺された朔平門外の変(さくへいもんがいのへん)の殺害現場に残されていた刀が田中新兵衛のものであるという事で、新兵衛は京都守護職の会津藩に捕縛されます。

その取り調べ中、新兵衛は当時町奉行だった永井尚志の一瞬の隙をつき、脇差で腹を刺し、さらに頸動脈を切って致命傷を負い死亡しました。享年32。

結局取り調べに一言も発することなく死んだ田中新兵衛の自決によって姉小路公知の暗殺事件は今でも闇に包まれたままとなっています。朔平門外の変については、新兵衛冤罪説もありますが、近年は新兵衛犯人説が通説となりつつあります。

“人斬り彦斎”こと肥後藩士・河上彦斎(かわかみげんさい)

“人斬り彦斎”と呼ばれた河上彦斎が生まれたのは天保五年(1834年)。肥後細川藩士・小森貞助の次男として生まれ、その後河上家の養子となり河上彦斎と名乗ります。

幕末四大人斬りの河上彦斎も岡田以蔵とともに有名で人気のある尊王攘夷志士です。その秘密こそ、この河上彦斎がアニメ化・映画化までされたあの大人気漫画の主人公のモデルとなった人物だからです。その大ヒット漫画こそ「るろうに剣心」。主人公・緋村剣心のモデルとなった幕末の志士こそ、この河上彦斉なのです。

身長は150㎝そこそこという当時の男性の中でも小柄な体格に色白な容姿は一見すると女性のようなルックスだったといい、京の町を震撼させた人斬りにはとても見えなかったといわれています。しかし片手抜刀術の達人であるその実力は幕末剣士の中でも指折りだといわれるほどです。その剣術は右足を大きく前に出し、左足は逆に大きく後ろに地面すれすれに平行になるよう伸ばします。その体勢から右腕一本で剣を抜き、逆袈裟(相手の左下から右肩上にかけて)に切り上げます。この独特の抜刀術で多くの命を奪ったといわれています。

女性のような外見とは裏腹に、仲間との雑談中に出た幕府側の人間を、その雑談中に席を立ってその足で斬って帰ってきたというようなエピソードもある、生粋の人斬りともいえる内面を持った人物でした。

彦斎の代表的な暗殺といえば何といっても佐久間象山暗殺でしょう。勝海舟や坂本龍馬、吉田松陰、河井継之助、橋本左内らの師でもある幕末屈指の天才軍学者を斬った事で彦斎の名は全国に知られる事となりました。この暗殺で何より凄いのが、計画してのものではなく衝動的なものだったということでしょう。普通、天誅と称される暗殺は大なり小なり事前に計画を練ってやるものです。が、彦斎はたまたま佐久間象山が西洋風の鞍を装着した馬に乗って由緒ある京の町を歩いているのを目撃して衝動的に象山をその手にかけてしまうのです。ただしこの話には後日談があり、暗殺した後に象山の人物像を知った彦斎はショックを受け、以降はきっぱりと暗殺から足を洗ったといわれています。

生粋の攘夷論者として世間を恐れさせた人斬り彦斎の最後は明治4年(1872年)。

明治維新後、諸外国との開国開放路線に舵を切った明治政府にとって、強硬な攘夷派の彦斎は邪魔以外の何物でもありませんでした。明治政府は明治四年に彦斎を大村益次郎と広沢真臣暗殺に関与した疑いで逮捕・投獄し、斬首刑に処してしまいました。享年39。

大村益次郎暗殺にせよ広沢真臣暗殺にせよ、彦斎の関与は死罪になる程深いものではなく、現在ではこの斬首刑は新政府にとって不満分子と化していた彦斎の体のいい排除という側面が大きいといわれています。時代の波に乗って名を挙げた彦斎ですが、最期もまた時代によって使い捨てられたともいえる人生ですよね。

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“人斬り以蔵”こと土佐藩士・岡田以蔵(おかだいぞう)

人斬り以蔵こと岡田以蔵は天保九年(1838年)、土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)の土佐郷士、岡田義平の長男として生まれました。

坂本龍馬を主人公とするドラマや映画、小説などの影響により、恐らくは四大人斬りの中でも最も有名で人気のある志士でしょう。

土佐藩の井上佐市郎を始め、越後藩士の本間精一郎、地下人・宇郷玄蕃頭、目明し・猿の文吉、金閣寺の寺侍・多田帯刀、公家家臣・賀川肇ら多くの天誅にかかわったとされている岡田以蔵、その殺害方法も様々で絞殺などもあり、残虐なものもあります。

そんな岡田以蔵ですが、龍馬との関係や、勝海舟やジョン万次郎の用心棒を務めたといったエピソードから幕末の志士の中でも大きな人気を誇っています。2010年の大河緒ドラマ「龍馬伝」では若手人気俳優の佐藤健さんが以蔵を演じたことでその人気は不動のものとなった感がありますね。

そんな以蔵の最期も有名です。

八月十八日の政変によって政治の中心地であった京都の政情は一変し、尊王攘夷派は苦境に立たされます。長州志士らは京から駆逐され、土佐勤皇党も京での影響力を失い、用済みとばかりに土佐藩から弾圧を受ける事となり、多くの勤皇党志士が投獄されて過酷な拷問を受ける事となります。

勤皇党志士が拷問されても口を割らずに耐え、中には拷問死する者もいた中、京都で無宿者として捕らえられた以蔵は拷問に耐えきれずに天誅などを次々と自白します。この自白によってさらに多くの勤皇党員が捕えられ、土佐勤皇党は瓦解します。そして慶応元年(1865年)閏5月11日、以蔵は数々の罪を問われて斬首刑に処され、その首はさらされるという最期を迎えました。享年28。多くの天誅を行った人斬りの最後は、武士として切腹を許されない罪人としての獄門だったのです。

“人斬り半次郎”こと薩摩藩士・中村半次郎(なかむらはんじろう/桐野利秋)

 

人斬り半次郎こと薩摩藩士・中村半次郎は天保九年(1839年)、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現在の鹿児島県鹿児島市吉野町)の薩摩藩下士・中村与右衛門の三男として生まれました。明治維新後に桐野利秋(きりのとしあき)と改名して活躍したため、そちらの名前の方が知名度は高いのかもしれません。

最初に断っておきますが、この中村半次郎に関しては、上記三名の“人斬り”とは少し・・いやかなり趣が異なる人物といっていいと思います。というのも、この半次郎に関しては“人斬り”という異名がついていますが、実際に彼が手を下した暗殺は信州上田藩士で兵学者の赤松小三郎のみです。この暗殺に関しても、半次郎の単独犯という説以外に薩摩藩重鎮である西郷隆盛・大久保利通の命を受けたものであるという説もあります。薩摩藩にとって害を成すべき人物として赤松を斬ったのであり、それ以外の暗殺は無かったといわれています。

ただし、当時としてはかなり大柄な体格を生かした薩摩示現流の剣術は相当なものであったという事は間違いなかったようで、「壬生浪」と呼ばれ、京都の尊王攘夷派志士たちを震え上がらせたあの新選組でさえ「薩摩の中村半次郎には手を出すな」との指令が隊士に出されていたという逸話も残っています。

長身でおしゃれな服装、そしてワイルドながら端正な容姿、多くの薩摩藩士及び他国人からも一目置かれた人格、それに加えて剣術の強さと勝海舟や大隈重信にも絶賛されたその才覚・・まさに華も実もある幕末志士ですね。

そんな中村半次郎の最後は明治十年(1877年)。

明治六年政変で征韓論に敗れた西郷隆盛が明治新政府の職を辞して下野して薩摩へと帰国すると、鎮西鎮台(熊本鎮台)司令長官兼陸軍裁判所所長であった中村半次郎改め桐野利秋は辞職して西郷とともに下野し、薩摩へと帰国します。

薩摩藩の不平士族に担がれた西郷隆盛が蜂起して西南戦争が勃発すると、利秋は四番大隊総指揮兼総司令となり、西郷の片腕として明治政府軍相手に奮闘します。一時は鹿児島城下を手中に収めた西郷軍でしたがしかし衆寡敵せず、新政府軍の圧倒的軍事力によって追い詰められた西郷軍は総大将の西郷隆盛が被弾して自決。残った利秋も岩崎口で奮戦しましたが、明治政府軍の銃弾を額に受けて戦死。享年40。その死は多くの明治政府要人にも惜しまれたといわれています。

中村半次郎について詳しく知りたい方には、俳優の榎木孝明さんが構想13年で企画・主演した2010年公開の映画「半次郎」をお薦めします。自身も薩摩人である榎木さんの半次郎に対する熱い想いが見ていてヒシヒシと伝わってくる隠れた名作映画です。この作品を見れば中村半次郎という男の魅力、そして彼がただの人斬りではなかったという事が分かってもらえると思います。

四者四様の人生とキャラクター、そして死に様も

いかがでしたでしょうか。幕末四大人斬りのそれぞれの最期。

中村半次郎の項でも述べた通り、四大人斬りと一括りにするのはいかがなものかと思うほどにそれぞれのキャラクターやイデオロギーなどは違うのですが、そんなキャラクターを示すように四人の最期もそれぞれでしたね。

苛烈な人生を反映したものか、それとも因果応報というべきものなのか、この四人のうち畳の上で天寿を全う出来た人物は一人もいません。

田中新兵衛=取り調べ中の自害

河上彦斎=濡れ衣に近い斬首刑

岡田以蔵=拷問に耐えられず自白して打ち首・獄門

中村半次郎=西南戦争にて戦死

幕末というカオスの世界に生きた剣士たち。この幕末の一瞬に輝いた男たちを、あなたは徒花(あだばな)と見ますか?それとも維新という大輪を咲かせた花と見ますか?

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