豊臣家滅亡の原因➀秀次切腹事件が無ければ関ヶ原は無い?秀頼成人までを繋げた関白自刃の失政

戦国時代の三英傑と呼ばれた男たち、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。信長が天下取りへの道筋をつけ、秀吉が天下人として成就させ、家康が天下泰平の世を築いたのは皆さんご存知の通りかと思います。

信長の子孫は、信長の次男である信雄の子孫が旗本や藩主などとして江戸時代も残り、家康の子孫はあらゆる分家に別れて大いに繁栄して明治維新を迎えました。しかし、豊臣秀吉の血統だけは誰も残ってはいません。大坂の陣において徳川家康に滅ぼされ途絶えてしまったからです。

信長、家康と違って、下級身分から一代で天下人に上り詰めた豊臣秀吉。その華やかなサクセスストーリーとはあまりにも対照的な豊臣家のその末路。まさに「諸行無常」という言葉がぴったりくるのですが、では豊臣家は滅亡からは逃れられない運命だったのでしょうか。

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豊臣秀吉の歴史年表

豊臣秀吉

豊臣秀吉

天文23年頃  豊臣秀吉が織田信長の家臣となる
(1554年)
永禄4年    秀吉、おね(寧、寧々)と結婚する
(1561年)
天正元年    近江長浜城主となる
(1573年)
天正5年    信長より中国毛利征伐の命を受け、西国方面攻略を任される
(1577年)
天正10年   本能寺にて信長横死。中国大返しで逆臣・明智光秀を討つ
(1582年)
天正11年   賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、事実上織田家の最高権力者となる
(1583年)
天正12年   徳川家康と織田信雄を屈服させる
(1584年)
天正13年   関白宣下を受ける。豊臣姓を与えられ、太政大臣に任官
(1585年)
天正17年   側室・淀殿との間に嫡男・鶴松が誕生。後継者に指名する
(1589年)
天正18年   小田原征伐で北条家を滅ぼし、天下統一事業を完成させる
(1590年)
天正19年   鶴松死去。甥の豊臣秀次に関白職を譲り、後継者に指名する
(1591年)
文禄2年    淀殿との間に秀頼が誕生する
(1593年)
文禄4年    豊臣秀次が謀反の疑いにより切腹。一族郎党も全て処分される
(1595年)
慶長3年    豊臣秀吉、伏見城にて死去。享年62。
(1598年)

謎に包まれた秀次切腹と一族の処刑

豊臣秀次

豊臣秀次

上図がざっと記した豊臣秀吉の人生です。この中にも、実は後の豊臣家滅亡を防ぐことのできる大きなヒントが隠されています。

歴史好き、日本史ファンであればもうおわかりでしょうね。そう、文禄四年に起きた関白・豊臣秀次の切腹事件です。

この豊臣秀次の切腹事件は、正史においては関白である豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がったためとされています。しかし、現在の通説ではこの謀反説を採用する識者はほとんどいません。秀次切腹の理由を正当化するために謀反の罪をでっち上げたというのが定説となっています。

さらに、秀次の異名とされている「殺生関白」というのも後世のでっち上げであるという説が強いですね。これも秀次切腹を正当化するための秀次暴君イメージ作成キャンペーンといわれています。

しかし、では秀次切腹の理由はなんだったのかといわれれば、これも確たる証拠がありません。しかし個人的には嫡男である豊臣秀頼の誕生が大きく関わっている事は間違いないと思われます。秀吉はわずか3歳でこの世を去った鶴松が死去した直後に秀次に関白職を譲って後継者に指名しました。恐らくもう子は授からないだろうという絶望にも似た気持ちがあった事は間違いないでしょう。

しかし、秀次が関白に就任した2年後に、淀殿は再び男子を設けます。秀吉にとっては待望の跡継ぎです。こうなると、実の子に天下人の座を譲りたいと思うのは人の常でしょう。そうなると、既に後継者となっていた秀次が邪魔になります。いや、秀吉にその気が無かったとしても、秀次が自分は排除されるのではと疑心暗鬼に陥るという事も想像に難くありません。

秀次切腹後に秀吉が一族を根絶させたのは、残った一族の手によって秀頼の天下人の座が脅かされる事を恐れての事でしょう。

秀次切腹のきっかけが何だったのかは闇の中ですが、どちらにせよ秀頼誕生による秀吉と秀次の確執がこの秀次切腹事件の主原因であることは間違いないと思います。

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一族が人材不足だった豊臣秀吉 死後の秀頼補佐は外様大名に・・

豊臣秀吉が死去した時に、後継者であった豊臣秀頼は数えでわずか6歳。当然政権運営など出来るわけもありません。

普通であれば、信頼のおける一門衆や譜代の家臣が秀頼成人までは補佐するのですが、下級身分から成り上がった秀吉には父祖の代から仕える譜代の家臣はいませんでした。親戚などを積極的に登用して位の高い地位に付けましたが、どの人物もあまり優秀とは言えない人物ばかりでした。関ヶ原で西軍を裏切って徳川家康の天下取りを決定的にした妻・寧の甥の小早川秀秋などはその最たる人物ですね。親戚筋にあたり、破格の出世をさせて豊臣家を支える存在にと考えた加藤清正と福島正則も関ヶ原で東軍に味方し、徳川家康の天下取りをアシストしてしまいました。

豊臣秀吉の甥であり秀次の弟である豊臣秀勝と豊臣秀保もともに24歳、17歳という若年で病死しており、最も切れ者で人望も高かった弟の大和大納言・豊臣秀長も秀吉の死に先立つこと7年、52歳で死去しています。

というわけで、秀吉は死の直前に豊臣政権の重鎮である五大老(徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、前田利家)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議制によって秀頼を補佐していくよう厳命しました。外様やかつての宿敵に後事を託さなければならないほど、本当に豊臣家には人材がいなかったのです。

秀次は優秀?無能?秀吉の猜疑心を増幅させたその能力とは

豊臣秀吉が62歳で死去したのは天命ですから仕方がありません。徳川家康ほどの長寿(76歳)であれば・・とも思いますが、それはないものねだりというものでしょう。

弟の大納言秀長が生きていれば・・とも思いますが、これも病気だったので仕方ありません。

そこで悔やまれるのが、関白豊臣秀次の存在です。

秀吉の死去時にもしも秀次が生きていれば31歳。まさに武将としては脂が乗ってきている年齢です。関白としての経験も積み、いくら徳川家康が手練手管といえども、そう簡単には手を出せない存在となっていたはずです。秀次を当主として頂き、その周囲を石田三成、大谷吉継、加藤清正、福島正則、宇喜多秀家、上杉景勝、小早川秀秋らが固めれば家康台頭は抑えられていた可能性が高かったでしょう。

豊臣秀次に関しては、以前は無能な武将、凡庸な人物であるという印象が強かったのですが、実際には戦功をいくつも挙げており、政務に関しても豊臣秀吉との二頭体制であったとはいえ、大きな失策はなく的確にこなしていたことが明らかになっています。少なくとも豊臣家の一族の中ではかなり優秀な人物であった可能性が高いといわれています。

逆にいえば、それなりに優秀な人物だったからこそ秀吉の猜疑心がより大きくなったのかもしれません。

何よりも大事な一粒種の将来を危険に陥れる程の存在・・秀吉の目にそう映ったからこそ何としても秀次の存在を消したかったのかもしれませんね。

豊臣家内の後継者問題を恐れたが故に最も厄介な宿敵に漁夫の利が?

秀吉の構想では、生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(1歳)とを結婚させ、後々は秀頼を三代目の関白にと考えていたというのが通説となっています。そしてこの件に関しての見解の相違によって秀次は疑心暗鬼に陥って、秀吉の不興を買うようになったという説もあります。2016年の大河ドラマ「真田丸」ではこの説を採用していましたね。

しっかりとこの辺りの取り決めをし、秀次と秀吉の間でわだかまりや誤解を取り除けていれば、秀次切腹という悲劇は回避されていたかもしれません。

もちろん、欲の出た秀次と秀頼の間で秀吉の死後に後継者を巡るお家騒動が起こっていた可能性も十分に考えられます。秀吉が我が子秀頼を溺愛していたように、秀次が婿養子である秀頼よりも実の子にどうしても関白の座を継がせたいと考えるのは不自然ではありません。

しかしその可能性よりも徳川家康に自分が亡き後の秀頼を頼む方がどう考えても危険だと思うのですが・・。まあ秀次粛清の時点では秀吉自身があと3年で世を去るなどとは分かりませんから、あくまで結果論なんですけどね(苦笑)。

どちらにしても、秀吉死去後に秀次がいれば、豊臣家の運命は全く変わっていたことは間違いないでしょう。少なくともああもあっさりと徳川家康に天下を奪われる事は無かったはずです。

秀次が関白として鎮座していれば、石田三成らと加藤清正、福島正則らが対立して加藤・福島らが徳川家康側につくこともなかったはずです。

徳川家康にとっては、秀吉が秀次を粛清した事はまさに天下取りへの大きなアシストだったのです。

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