[大河ドラマ]島津久光(しまづひさみつ) 青木崇高演じるお由羅の子で西郷どんを島流しにした薩摩藩最高権力者

NHK大河ドラマ「西郷どん」で主人公の西郷隆盛が活躍した幕末から明治初期にかけての動乱の時代、倒幕の立役者となった薩摩藩の最高権力者として君臨したのが島津久光でした。

西郷隆盛にとって大恩人ともいえる島津斉彬と比べると、久光との間柄というのは一言で言い表す事が出来ない程複雑なものがあり、それ故に西郷主人公の映画や小説、ドラマなどでの久光の描かれ方というのも様々な人物像となっており、故に色々な評価のある人物であるといえるでしょう。

ここではそんな島津久光についてご紹介しましょう。

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左大臣・島津久光(しまづひさみつ)の略歴・生涯

文化十四年十月二十四日(1817年12月2日)、当時の薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城にて生を受けた。父は薩摩藩第十代藩主の島津斉興で母はその側室・お由羅の方、久光は斉興の五男として生まれた。

幼名を普之進(かねのしん)といい、生後わずか4ヶ月ほどで種子島久道の養子となって島津家の重臣・種子島家に入るが、源氏の島津家から平氏の種子島家への養子縁組は種子島家臣団から大きな反対を受ける事となったが、久道は島津家との関係を考慮してこの縁組を受け入れたといわれている。

文政八年一月十三日(1825年3月2日)、久光の実父・島津斉興は突然種子島家との普之進の養子縁組を解消して普之進は島津家へと戻った。同年、島津一門でも屈指の名家である重富島津家の娘(正室・千百子)と結婚して婿養子となる。文政十一年(1828年)には実父・斉興の加冠により元服して諱を忠教(ただのり)とする。

その後、異母兄であり嫡男である長子・島津斉彬になかなか藩主の座を譲らない斉興に業を煮やした斉彬派と、忠教を次期藩主に推す斉興、お由羅、調所広郷らとの間でお家騒動が勃発し(お由羅騒動)、幕府老中・阿部正弘の調停によって斉興が隠居して斉彬が薩摩藩第十代藩主となった。お由羅騒動では両親や家臣によって斉彬派と対立するような形となってしまったが、忠教自身は兄・斉彬との関係は良好であり、あくまでお家騒動によって担がれる立場として対立したのは本意ではなかったという。

安政五年(1858年)に斉彬が急死すると、斉彬の実子は悉く夭折していたため、斉彬の遺言によって第十一代藩主には忠教の子である忠義が就く事となったが、実権は元藩主で忠義の祖父である斉興が握る事となった。が、翌安政六年(1859年)にはその斉興も死去し、若年の忠義の実父である忠教が実質的な薩摩藩の最高権力者となった。

文久元年(1861年)には藩主の父として島津本家に“国父”として帰還し、名も久光に改めた。

藩の実権を握った久光は、大久保利通や海江田信義、税所篤ら、中級及び下級の若手藩士が中心となった「精忠組」メンバーを厚遇して藩政に参画させたが、精忠組の中心的存在である西郷隆盛は流罪にするなど冷遇した。

斉彬と同様に公武合体路線を目指した久光は、文久二年(1862年)に有馬新七ら藩内の尊皇攘夷過激派を処分し(寺田屋騒動)、同年には幕府人事に介入する事で文政の改革の中心的人物となり、日本中に大きくその名を轟かせることとなった。

同じく文久二年(1862年)には、久光が京都へ向かう途中に生麦村で久光の行列を横切った外国人を斬殺した事によって(生麦事件)、翌文久三年(1863年)にはイギリスと薩摩藩が一時戦闘状態となった(薩英戦争)。

その後、公武合体派の念願だった参預会議が実現したが、そこで諸侯と徳川慶喜との対立が顕在化し、後に四侯会議を経た結果、島津久光率いる薩摩藩は武力倒幕路線へと舵を切る事となっていく。

後、薩摩藩は西郷隆盛や大久保利通らが中心となって大政奉還から王政復古の大号令、そして戊辰戦争へと向かっていく事となり、結果明治維新の中心的役割を果たしたことによって、新政府でも大きな権力を持つこととなった。

維新後は新政府の方針に常に批判的立場をとり続け、とりわけ旧薩摩藩士である大久保や西郷が中心となって施工した廃藩置県には激怒したといわれている。その後も新政府に旧習復帰の建白を出す等したが受け入れられず、左大臣職も辞して明治九年(1876年)には鹿児島へ帰郷して隠居生活を送る事となった。

明治十年(1877年)に鹿児島の不平士族が起こした西南戦争では中立の立場をとったが、終生新政府への批判的立場を貫き通し、明治20年(1887年)12月6日に死去。享年71。政府の開化政策に反対だった久光は死ぬまで頭髪は髷(まげ)を切る事無く、刀を差して着物姿で通したといわれている。

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蘭学の斉彬、国学の久光、保守派として公武合体路線から倒幕へ舵を切った名君

島津斉興の五男として生まれ、開明派名君と謳われた島津斉彬の弟として急死した兄に代わって薩摩藩を率いた実質的藩主こそがこの島津久光です(正式には一度も藩主には就任しておらず)。

西郷隆盛を主人公とした作品の場合、ともすれば悪役に寄った役柄となりがちなこの島津久光という人物ですが、もちろん藩主としては有能な人物であることは間違いありません。兄の島津斉彬が、西郷隆盛ら下級若手藩士の人材登用や集成館事業に代表される富国強兵策、さらには人並外れた見識といった点でスーパーすぎるために霞んでしまいがちなのは不運という他有りません。

上に記したように、斉彬と同じく公武合体路線を目指して文久の改革を成し遂げた中心メンバーとなり、参預会議から四候会議という場を設けて公武合体をあと一歩まで成し遂げたその行動力はやはり素晴らしいという他ないでしょう。

人材登用面にしても、西郷とこそ反りが合わなかったものの西郷の盟友である大久保利通や海江田信義、吉井友実ら精忠組メンバーを中心とした下級武士を登用して後の維新回天の立役者へと育てました。これまた斉彬と遜色ない大抜擢と言っていいと思います。

さらには、幕府も含む雄藩が連携して国力を強化して異国の脅威に立ち向かうという、大攘夷を念頭に置いた公武合体路線という政治体制志向も斉彬とほぼ同じといっていいでしょう。

ただ一つ大きく違うのが、斉彬は蘭学を好んだのに対して久光は国学だったというところでしょうか。その辺りの久光の保守性は維新後に丁髷(ちょんまげ)を結って帯刀し、和服姿で通した事からも見て取れますよね。

久光の倒幕後の国体の構想については諸説ありますが、徳川幕府を倒した後は中央集権体制ではなく、各藩を残したうえで島津幕府という政治体制を築くつもりだったという説も有力です。そうだとすれば、廃藩置県などの諸政策に大反対だったというのも頷ける話ですよね。

後藤象二郎、弁慶に続いて難役を演じるストイックな演技派、青木崇高(あおきむねたか)

NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公、西郷隆盛にとってはある時は敵、ある時は主君、という非常に微妙な間柄といってもいいこの島津久光という人物。西郷どんではどのような人物として描かれてゆくのでしょうか。

西郷どんでこの島津久光を演じるのが、中堅実力派俳優の青木崇高(あおきむねたか)さん。大河ドラマ出演は2010年「龍馬伝」、2012年「平清盛」に続き、6年振り3作目となります。

龍馬伝では龍馬の敵でもあり後に友となる後藤象二郎役、平清盛では後に平家打倒の中心人物となる弁慶役、どちらも近年稀に見る名作大河ドラマであり、その中で強烈な爪痕を残す熱演を見せてくれた大好きな俳優さんです。とにかくストイックな役作りは有名であり、どの役も実際の人物が憑依しているかのような凄味を伝えてくれます。

今回は前述したように非常に難しい役といっていいでしょう。逆に言えば、俳優としては役者冥利に尽きる程に演じ甲斐のある役と言えるのかもしれません。

略歴を見てもらえばわかると思いますが、この島津久光は西郷隆盛という人物にとっては終生関りを持つ人物です。つまり「西郷どん」でも最初から最後まで登場する重要人物であるという事です。

青木崇高さんが今度はどんな名演を見せてくれるのか、今から楽しみでなりません。個人的には明治以降の西郷や大久保との関わりが非常に興味あります。この三者の距離感や相関関係がどう描かれるのか注目しましょう。

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