[大河西郷どん]寺田屋事件で散った有馬新七(ありましんしち) 精忠組同志の大山格之助らと斬り合った悲劇の志士

幕末という時代は、日本の大変革期という事もあって大きな事件が立て続けに起きた時代でした。

幕末における主役を担っていたといってもいい存在だった薩摩藩。維新回天の原動力となったこの雄藩においても大きな事件が数多くありました。その中でも最も悲劇的だといってもいいのが「寺田屋事件」でしょう。そしてその寺田屋で命を落とした薩摩藩士の一人に有馬新七がいます。「西郷どん」では主人公・西郷隆盛らの郷中仲間、幼馴染として登場する有馬新七。ここではそんな有馬新七という人物についてご紹介したいと思います。

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“精忠組”有馬新七(ありましんしち)の生涯・略歴

文政八年十一月四日(1825年12月13日)、薩摩国日置郡伊集院郷古城村(現在の日置市伊集院町古城)の郷士(外城士)・坂木四郎兵衛を父として生まれる。父の身分は伊集院郷の郷士であったが、父・坂木四郎兵衛が薩摩藩城下士・有馬家の養子となったために四郎兵衛の子である新七も城下士の身分へと格上げされた。有馬姓となり城下士となった新七は鹿児島城下の鍛冶屋町に居住した。

天保九年(1838年)に元服し、天保十四年(1843年)には崎門学派の儒学者である山口管山の門下となり学ぶために江戸へ赴く。

安政四年(1857年)、薩摩藩邸学問所教授に取り立てられ、文久元年(1861年)には闇斎派朱子学の教育を徹底させていた薩摩藩の藩校・造士館(ぞうしかん)訓導士となった。

江戸遊学中から水戸藩の尊攘派志士たちと交流を持ち人脈を築いていった新七は、日米修好通商条約を締結し、安政の大獄によって一橋慶喜派や尊攘派志士を弾圧していた大老・井伊直弼を水戸・薩摩浪士たちが暗殺した「桜田門外の変」にも参加予定であったが、実質的藩主であった島津久光と藩主・茂久(忠義)によって薩摩藩士による大老暗殺の直接関与を禁じられたために断念した(薩摩藩から唯一襲撃に加わった有村次左衛門は脱藩したうえで参加)。

水戸藩士らによる大老暗殺後も「誠忠組」を中心とした薩摩藩内尊攘過激派志士の中心的人物であった新七であったが、文久二年四月(1862年)に上京した薩摩藩・島津久光は朝廷から自藩の尊皇攘夷派過激藩士たちの始末を命じられた。これを知った新七たち尊攘派志士たちは関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を討ち取ってその首を久光に持参して決起を促すという計画を立てた。そういった過激藩士たちの暴発を食い止めるために薩摩藩は大久保利通や奈良原喜左衛門、海江田信義ら、新七らと同じ「精忠組」に所属する藩士たちに説得を託すがどれも不調に終わる。

そして文久二年(1862年)4月23日夜、新七ら尊攘派志士たちが寺田屋で集会するという情報を得た久光は、薩摩でも有数の剣の達人8名を選び、寺田屋に説得へと赴かせた。しかし8名の追捕使達には、志士たちが万一説得に応じぬ場合は「上意討ち止む無し」との命も受けていた。

寺田屋で過激派志士たちに説得を始めた「精忠組」に所属する追捕使、大山格之助や奈良原喜八郎、道島五郎兵衛らであったが新七らは藩邸同行を拒否するなど説得は不調に終わる。ほどなくして追捕使と寺田屋集結志士たちとの間で乱闘となり、有馬新七は追捕使の一人、道島五郎兵衛と斬り合いの最中に刀が折れたので、道島に突進して道島を壁に押し付け動きを封じたうえで、同志の橋口吉之丞に向かって「おいごと刺せ(自分もろとも相手を刺せ)!」と命じ、橋口の刀によって道島もろとも貫かれて絶命した。享年38。

明治二十四年(1891年)に明治政府より従四位を贈られた。

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直心影流の達人で崎門学を学び憂国の詩文を読んだ文武両道の士・新七

有馬新七といえば、寺田屋での薩摩藩士の同士討ちによって非業の死を遂げた尊皇攘夷派の志士という事で有名な人物です。

ともすれば、あまりに過激すぎて藩に粛清された過激派浪士とというイメージが先行してしまいがちなこの有馬新七という人物ですが、薩摩藩内でも一目も二目も置かれた名士であったという側面はそれほど知られてはいません。薩摩藩邸学問所の教授や造士館訓導士を歴任した経歴からもその一端は窺い知ることが出来ます。

剣術における流派は直心影流(真影流)であるといわれており、相当の使い手であったと伝わっています。それもそのはず、新七の叔父である坂木六郎貞明は若干19歳にして江戸の神陰流長沼亮郷(四郎左衛門)に入門し、わずか5年で免許皆伝となった凄腕の剣客でした。その腕を買った時の薩摩藩主・島津斉彬は郷士であった坂木六郎を城下士に格上げして造士館助教へと抜擢したほどだったのです。そんな剣客の叔父から幼少時より剣術を習った新七も相当の使い手でした。

さらに新七が凄かったのは学問でも優秀な文武両道の士であった事です。

上述したように有馬新七は江戸時代前期の朱子学者・儒学者である山崎闇斎(やまざきあんさい)が創始した崎門学に学び、寛永年間に刊行された中国の義士を評伝した「靖献遺言(せいけんいげん)」研究するなどして尊皇思想を身に着けていきました。「靖献遺言(せいけんいげん)」という書は幕末の勤王の志士にとってはバイブルといっても過言ではない程の書物として親しまれたものです。

そんな勤王の志熱い新七が作った憂国の詩文は孝明天皇の「乙夜の覧(いつやのらん/天子の読書という意味)」に供された程であったといわれています。

文武両道という言葉がこれほど当てはまる人物もそうはいないでしょう。だからこそ寺田屋でのその死はあまりに早すぎると多くの人が惜しんだのです。

精忠組の盟主・西郷隆盛捕縛による不在中に起きた寺田屋事件

有馬新七が命を落とした寺田屋事件は薩摩藩士同士の同士討ちなのですが、と同時に薩摩藩の下級武士を中心に結成され、西郷隆盛を盟主的立場とした「精忠組」同士で斬り合ったという側面もあります。

寺田屋メンバーでは新七を始めとした田中謙助、橋口伝蔵、柴山愛次郎、弟子丸龍助など死亡した人物のほとんどが精忠組であり、二階にいて投稿した西郷従道や大山巌といった明治の元勲たちも精忠組でした。

対して久光によって追捕使に選ばれた剣客の大山格之助(綱良)や奈良原繁、道島五郎兵衛、森岡善助らも精忠組のメンバーでした。寺田屋事件とはまさに精忠組同士の血で血を洗う同士討ちだったのです。薬丸自顕流の使い手であった大山格之助や奈良原繁、道島五郎兵衛らと直心影流の剣客である有馬新七との寺田屋での斬り合い・・。想像しただけで恐ろしいものがありますよね。

この寺田屋事件によって「精忠組」は事実上壊滅してしまうという結果となってしまいました。この寺田屋事件が起きた時、精忠組の盟主として寺田屋で犠牲となった志士たち、及び追捕使に選ばれた藩士たちの人望を集めていた西郷隆盛は久光の不興を買って捕縛されていたのです。西郷が藩に捕縛される事無く、新七たちの説得に赴いていたらどうなっていたか・・それを考えると余計にやるせない気になってしまうのはわたしだけでしょうか。

殺陣も乗馬もこなす身長184cmの増田修一朗(ますだしゅういちろう)が有馬新七役に

2018年大河ドラマ「西郷どん」で有馬新七を演じるのがこの俳優さんです。

名   前:増田修一朗(ますだしゅういちろう)
本   名:増田修一
生年月日 :昭和55年(1980年)12月4日生まれ
年   齢:37歳
出 生 地:東京都
身   長:184cm
体   重:71kg
ジャンル :俳優
血 液 型:B型
特   技:スキー・ラグビー、乗馬、殺陣、英会話
所属事務所:ケイダッシュ

大河ドラマは2014年「軍師官兵衛」以来4年ぶり2作目の出演となります。ちなみに軍師官兵衛での役どころは、北九州のキリシタン大名として有名な大友宗麟の嫡男である大友義統(おおともよしむね)役でした。

ラグビーで鍛えられた184cmの体格に乗馬、殺陣など時代劇に必要なスキルも兼ね備えた増田修一朗さんの演じる悲劇の志士、有馬新七。そのクライマックスとなる寺田屋事件ではどんな名演を見せてくれるのでしょう。幼馴染である大山綱良らとの対決は涙無くしては見られないものとなりそうです。期待大ですね。

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