[大河ドラマ西郷どん]阿部正弘(あべまさひろ) 藤木直人演じる黒船来航時の江戸幕府老中首座

幕末といえば、明治維新という日本史上に残る大変革を迎える直前の、まさに何が起こっても不思議ではないカオスの時代でした。そしてそのきっかけを作ったのはマシュー・ペリー提督ら異国船(黒船来航)の襲来による開国でした。

ここではそんな幕末において黒船来航という未曽有の日本の混乱期に老中として幕府を率いた阿部正弘をご紹介します。

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江戸幕府老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)の生涯・略歴

文政二年10月16日(1819年12月3日)、備後国福山藩の第五代藩主・阿部正精(あべまさきよ)の五男として江戸で生まれた。

文政九年(1826年)に父・正精が死去すると、正弘の兄で三男の阿部正寧(あべまさやす)が18歳という若さで備後福山藩第六代藩主の座に就いた。長男の正粹(まさただ)はこの時点で既に廃嫡されていたので、五男とはいえ、正弘は藩主の座に近い位置にいた。

生来病弱で藩政にも消極的だった正寧は天保七年(1836年)に隠居し、弟の政宏が第七代の備後福山藩藩主に就任し、同時に阿部家宗家の当主となった。

天保九年(1838年)には奏者番、天保十一年(1840年)には寺社奉行見習となり、感応寺僧侶らへの処断で時の江戸幕府十二代将軍・徳川家慶の目に留まり、一気に出世街道を駆け抜けていく事となる。

天保十四年(1843年)に25歳という若さで幕府老中に抜擢されると、前老中首座で天保の改革の指導者で失脚中だった水野忠邦が政敵・土井利位(どいとしつら)から老中首座を奪回したが、既に昔年の威光はなく、弘化二年(1845年)には正弘が水野を追い落として老中首座に就く事となった。

正弘が老中に就任したころには既に異国船が度々日本近海で目撃されるようになっており、実際に来航もしてその対策が急務の課題であった。

弘化三年(1846年)のアメリカ東インド艦隊のジェイムズ・ビドルの通商を求めた浦賀来航は鎖国を理由に拒絶したものの、嘉永六年(1853年)に第12-13代アメリカ合衆国大統領、ミラード・フィルモアの親書を携えたマシュー・ペリー提督が浦賀に来航、更に同時期にロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人・プチャーチンも長崎に来航して日本に開国を求める等、日本国中が大混乱に陥った。

ペリーの開国要求に対して1年の猶予を願った幕府側であったが、直面した未曽有の混乱の中で老中首座にあった阿部正弘は親藩や譜代大名だけではなく、朝廷をはじめとして外様など雄藩からも広く意見を聞いて国難を乗り越えようとした。しかし具体的な対策を見いだせないまま、開国派と攘夷派の対立の溝が深まっていく事となった。

結局翌年嘉永七年(1854年)にペリーが再来航して幕府との間に日米和親条約を結んで下田と函館の開港を決定、江戸時代初期より続いた鎖国体制は終焉を迎えたのである。

時代が安政年間となると、正弘は数々の改革案を実行に移していく。洋学所や長崎海軍伝習所、講武所などを次々と開設し、勝海舟や大久保忠寛(一翁)、永井尚志など後の幕府の中心的人物となる人材を積極的に登用し、西洋式砲術を推進して規制緩和によって大船建造を推進させた。

ただし、井伊直弼を中心とする開国派と徳川斉昭ら攘夷派の対立は深刻で、両者のバランスを保つために安政二年(1855年)、阿部正弘は老中首座を開国派の堀田正睦に譲る事を余儀なくされた。

首座は譲ったものの現役の老中職であった安政四年(1857年)、江戸にて死去した。あまりにも突然の正弘の急死に関しては毒殺説なども乱れ飛んだが、通説では病死という事となっている。墓所は東京都台東区にある谷中霊園。

ペリー率いる黒船来航の対応で評価を落とした老中、その苦難の対応の理由とは

江戸幕府歴代老中の中でも最も大変な時期の老中といってもいいのがこの阿部正弘です。

阿部正弘が老中を務めた時期での大きな事件というのは言うまでもなく「黒船来航」です。ペリーが日本に開国を求めて現れたあの出来事です。この時に老中首座として陣頭指揮にあたったのが阿部正弘でした。

ペリーの来航から再来航までの猶予期間1年の間にほぼゼロ回答であったという事からこの阿部を批判する声もありますが、個人的には強引に結論を出していたら国が真っ二つに割れていたと思います。下手をすれば内乱になっていたかもしれません。

というのも、開国派と攘夷派の対立は深刻だったからです。しばしばこのペリーへの対応について優柔不断、八方美人という評価を下されるこの阿部正弘ですが、むしろ開国派と攘夷派の間で双方のパワーバランスを取って調整するバランサーとしては優れた人物だったと思いますね。ただ、後に大老として安政の大獄などを実践する井伊直弼のような剛腕は持ち合わせていなかったという事もまた間違いありません。

さらにこの阿部正弘老中首座時代は、先に申し上げた開国派と攘夷派の対立に加え、この時期には病弱だった第13代将軍・徳川家定(天璋院篤姫が嫁いだあの将軍です)の後継将軍問題においても、有力大名や幕臣たちが一橋慶喜派と紀州の徳川慶福(後の徳川家茂)派に二分して対立するという、まさにカオスといってもいい状態でした。

そんな中で日本史上に残る国難に当たらなければならなかった阿部正弘という人物、個人的には歴だし老中の中でも最も大変な老中であったと思います。そんな状況を鑑みれば、批判するのも気が引けてくるわたしはお人よしなのでしょうか(苦笑)。

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斉興隠居、斉彬藩主就任に加え、洋学所、講武所や長崎海軍伝習所を創設した先見の明

決断力に欠けるという指摘をよく目にする阿部正弘ですが、先に述べたように調整能力に関しては非常に長けた人物だったと思います。個人的にはこういう人物は組織の中で一人は置いておきたい、そう思わせるタイプです。

「西郷どん」で序盤の主役と言っていい薩摩藩主・島津斉彬ですが、同じく一橋慶喜次期将軍擁立派として斉彬とこの阿部正弘とは入魂の仲であるというのは非常に有名な話であり、なかなか斉彬に藩主の座を渡さなかった島津斉興に実質的に隠居の引導を渡したのはこの阿部正弘の調停によるものです。密貿易に関しての調所広郷自害からお由羅騒動に至る薩摩藩のお家騒動に対し、この阿部正弘が調停役となって仲裁し、無事に斉興隠居、斉彬藩主就任となったわけです。やはりこの辺りの仲裁、調整能力には秀でた人物であったといえますね。第一、この正弘の仲裁無くしては日本のその後の歴史は大いに変わっていたでしょう。斉彬は一生藩主になる事無く表舞台にも登場できなかったかもしれません。当然の如く斉彬によって抜擢された西郷隆盛も一生日陰の身であったかもしれません。

さらには急死する直前まで安政の改革と称される数々の富国強兵策を敢行、後に繋がる大いなる遺産を残した事も特筆に値します。

阿部正弘によって創設された洋学所は後の東京大学ですし、講武所は後に日本陸軍となり、長崎海軍伝習所は日本海軍の前身となったものです。さらに江戸城無血開城で江戸を火の海から救った幕臣・勝海舟や維新後の明治時代に東京府知事を務めた大久保一翁、さらには最後まで幕府に忠誠を誓い、函館五稜郭まで戦い抜いた大目付・永井尚志などといった、江戸幕府の優秀な人材を発掘して登用したのも阿部という人物の先見の明を物語るものといえるでしょう。

ペリー来航に際して何のアクションも出来なかったという事で歴史的評価については賛否両論に分かれる傾向のある阿部正弘ですが、開明的で聡明な人物であることはこれらの功績からも明らかでしょう。

「徳川慶喜」での村田新三郎役で飛躍した藤木直人さん演じる老中首座

黒船来航という明治維新に繋がった大事件に老中として対峙した阿部正弘。識者や歴史ファンの間でも評価の分かれるこの幕府老中首座を「西郷どん」の中で演じるのが藤木直人さん。俳優としてだけでなく、歌手・ミュージシャンとしての顔も持つマルチな才能を持つ人気二枚目俳優です。

藤木さんの大河ドラマ出演は1998年「徳川慶喜」、2012年「平清盛」に続いて6年ぶり3作目となります。徳川慶喜では架空の人物、村田新三郎役を、平清盛では僧侶で歌人の西行を演じました。どちらも物語のキーパーソンとなる重要な役ですが、特に徳川慶喜での村田新三郎役はインパクト十分でした。このドラマで初めて藤木直人を知ったという人も多いのではないでしょうか。ぶっちゃけ、わたしはそうでした。架空キャラでしたが、物語の中枢となる実に重要な役であり、裏主人公といってもいい程の存在感を見せてくれました。まさに新たなスターの誕生を見たという感じでしたね。問答無用で藤木さんの俳優としての大出世作です。

そんな藤木さんが今回演じるのが、これまた物語初期のキーパーソンとなるべき重要人物、江戸幕府老中首座の阿部正弘。ただし、藤木さんの出演された前二作と決定的に違うのは、物語のかなり序盤のうちに退場してしまうであろうという事でしょうか。ゲスト出演扱いに近いといった方がいいかもしれませんね。

個人的には「世界のワタナベ」演じる島津斉彬とのバチバチの演技バトルが非常に楽しみです。このドラマによってこの阿部正弘という人物の評価が上ればいいですよね。

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