NHK大河ドラマ「真田丸」第48話「引鉄(ひきがね)」史実から見たネタバレ予想と第47話「反撃」視聴感想とMVP

通説での豊臣・徳川の和平交渉は?和睦条件を決めたのは誰?

真田丸第47話「反撃」では、豊臣方と徳川方の和睦が成り、これをもって「大阪冬の陣」は幕を閉じる事となりました。

この47回「反撃」の中では、和平交渉は常高院(はつ/演:はいだしょうこ)と大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね/演:峯村リエ)、そしてきり(長澤まさみ)と、阿茶局(あちゃのつぼね/演:斉藤由貴)との間で行われたこととなっていましたが、通説では常高院と阿茶とで行われて合意したと言われています。

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常高院と茶々でお互いの条件を出し合い、それを豊臣、徳川双方に持ち帰って協議し、翌日に和平となったのです。つまり、この和睦条件については当然、豊臣家当主の豊臣秀頼(中川大志)、茶々(竹内結子)、そして織田有楽斎(おだうらくさい/演:井上順)や大野修理治長(おおのしゅりはるなが/演:今井朋彦)も同意したうえで決定したという事です。

よって、今回の描かれ方のように大蔵卿の独断というのは少し行き過ぎかとも個人的には思いますね。

それに、はつと阿茶の正式な和平交渉よりも前に、織田有楽斎と本多正純(伊東孝明)との間で何度も下交渉が行われています。あの女性同士の和睦交渉で全てが決まったわけではないと思われますね。

ただし、豊臣家が徳川家康(内野聖陽)の本当の狙いを見抜けていなかったのは間違いありません。そこはドラマの描写通りであったでしょう。

要するに、全てにおいて家康の方が豊臣よりも狡猾であったということが全てだったといってもいいと思いますね。

史実における大阪城の堀の埋め立てや真田丸破壊 豊臣家は楽観していた?

真田丸の中では、和睦条件の中に「大坂城は本丸だけを残し、二の丸、三の丸は取り壊し外堀も埋める」との記述がなかったことになっていましたが、通説ではこの文言はしっかりと和睦条件に含められていたようです(二の丸取り壊しについては含まれていなかったという説も)。しかも、この条件は豊臣方から出した条件ともいわれています。

ただし、豊臣家の大きな誤算が一つありました。

和睦の条件として、「城の堀を埋めたり塀を壊す」というものは、戦国時代の講和条件としてよくあるものだったのですが、ほとんどの場合は一部を壊したり、部分的に埋め立てたりする程度であったといわれています。つまり、「壊した体」程度のものだったという事ですね。

しかし、徳川家は徹底的に大坂城を破却していったといわれています。

徳川家のナンバー2である本多正純が陣頭指揮を執り、複数の奉行衆を任命して、城攻めに加わった徳川の兵に加えて地元民まで動員して昼夜問わずの大工事で堀の埋め戻しを敢行したと言われています。大坂城外堀の南に突出して建てられた「真田丸」も当然打ちこわしとなり、真田丸に使われていた木材などは、そのまま堀の埋め立てのために堀に投げ込まれたといわれています。

一説では、大坂城の堀と塀の取り壊しは豊臣家の手で行うつもりであったという説もあります。それ故に豊臣家は楽観的であったとも。ただし、当然そのような事は和睦条件には一切記されていません。そこを利用して徳川家が自らの手で一気に大坂城を裸城にしてしまったという説もあります。

どちらにせよ、豊臣家は徳川家によってあっという間に最後の砦ともいうべき大坂城を失ってしまいました。二の丸、三の丸まで無くなっては、もう大坂城に戦闘能力はありません。劇中で真田幸村(堺雅人)が「もう勝ち目は無い」と口にする場面がありましたが、それは戦を知っていれば誰もが思った正直な感想だったでしょう。

徳川家康暗殺説の真相 大坂の陣で家康は死んで、その後は影武者だった?

ところで、次週の第48回「引鉄(ひきがね)」の次週予告において、徳川家康が刺されて血を吐く場面がありましたね。うちの妻はあの場面を見て、「え?家康死んじゃうの?」とわたしに聞いてきました。

確かにあの場面を見れば誰もが気になるところではあるでしょうね。

まあ次週のストーリーが分かりませんので何とも言えませんが、家康が大坂冬の陣後に死亡するというのはちょっと考えづらいかと思っています。

というのも、家康が死んだのは大坂夏の陣が終わった約1年後なのです。しかも死因は食中毒説や胃がん説が主流となっており、病死である事はほぼ間違いないというのが定説です。

しかし、昔から根強く唱えられている説もあります。それが、「徳川家康暗殺説」です。

家康は大坂の陣のさ中に豊臣の手の者により暗殺され、その後の徳川家康は家康の影武者だったという説です。家康の死は秘められ、誰にも知らされずに荼毘に付されて埋葬され、死後は影武者が家康を装っていたという異説ですね。特に真田幸村は執拗に家康の首を狙っていたといわれています。家康さえ亡き者にすれば、戦の戦況は一気にひっくり返ると思っていたと。真田は多くの忍びを抱えていたことも有名ですしね。幸村によって家康が暗殺されたという小説もあるくらいです。

しかしこれはあまりにも証拠の無い説であり、あくまで想像の域を出ないものです。三谷幸喜がこの説を採用するとは思えません。

従って、個人的な予想としては、あの予告に出ていた家康こそが影武者だったのではないでしょうか。家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」にあるように、非常に用心深い性格で、万が一の時に備えて影武者を複数用意していたともいわれています。

あの家康が影武者であったというのが一般的には一番納得できると思いますね。だって、大坂夏の陣の前に「家康死んでました」では、最後の盛り上がりにも欠けるじゃないですか(笑)。そんな野暮な事を三谷幸喜がするとも思えませんしね。まあ、あくまで推測なので外れたらすみませんですが(汗)。

「反撃」のMVP 女狸?の本領発揮の阿茶、真田家の想いを代弁した作兵衛・・うーん・・

真田丸第47話「反撃」のMVPに参りましょう。

ここ数回はすんなりと決まっていたMVPですが、今回は久々に迷いました(苦笑)。

普通に考えれば幸村かなとも思えたのですが・・。しかし最も印象に残った阿茶局とさせてください。

本多佐渡守正信(近藤正臣)を「古狐」とすれば、阿茶局は「女狐(めぎつね)」ときりが評したように、あの徳川家康が和平交渉に抜擢した理由が深くうなずけるほどの食わせ物ぶりでしたね。

アイドル時代から知っている人間からしてみれば、あの斉藤由貴がこんな役を出来るようになったんだなあ・・という隔世の感さえ覚えるほどの素晴らしい名演でしたね。まさに主が主ならば、側室も側室!って感じですね。女性にもこんな人物がいる徳川家、そりゃあ勝てんわと思わせてくれるに十分な狸ぶりでした。あ、そういえば「女狸(めだぬき)」とも評されていましたね。この言葉を言わせたいがために、ある意味「タヌキ顔」(すんません涙)の斉藤由貴さんをこの役に抜擢したのでしょうか。三谷幸喜なら十分あり得るかもしれませんね(笑)。

堀田作兵衛(藤本隆宏)を次点とさせてください。

後藤又兵衛(哀川翔)や毛利勝永(岡本健一)、長宗我部盛親(阿南健治)、明石全登(小林顕作)らに幸村の事を尋ねられた場面。亡き主君・真田安房守昌幸(草刈正雄)が武田家の旧領復活のために裏切者扱いされながらも主君への忠義を忘れなかったことを語った場面は思わず涙が出そうになりました。

そして、最後落ち込む幸村に対して

「徳川に一泡吹かせてやりましょう!」

といった場面も、同じく感動で身が打ち震える思いでした。うーん、阿茶とWMVPでもいいのかも・・。それくらい見せ場十分でしたね。藤本隆宏さんの武骨なキャラが最高に生かされた名場面だったと思いますね。

あと、個人的に笑ったのが小野お通(おののおつう/演:八木亜希子)がこう(長野里美)の突進をヒラリと交わす場面(笑)。こうは相変わらずいい味出してますね。ていうか、いつの間にこんなに元気に?最初とキャラ変わりすぎでしょ?などというツッコミは野暮ですね(笑)。


第48話「引鉄(ひきがね)」のストーリー 豊臣勝利のため、佐助が家康の命を狙う!

豊臣家と徳川家は和平案に合意し、和睦となって大坂冬の陣は幕を閉じた。

平和が訪れた大坂城であったが、その代償として真田丸は取り壊され、堀は徳川の手によって埋め立てられてしまい、豊臣秀吉が築いた天下無敵の大阪城は裸城と化してしまった。

この平穏が束の間のものであると読む真田幸村は、いずれ豊臣に襲い掛かるであろう徳川に勝利するため、徳川家の大御所である内府徳川家康の暗殺を配下の佐助(藤井隆)に命じる。一命をかけて家康暗殺に臨む佐助は、任務成功の暁には夫婦になってほしいときりに頼み、徳川の陣へと向かう。

そんなある日、幸村は不思議な形をした銃を手に入れる事となる。

大阪城の幸村からの書状を受け取った真田信之(大泉洋)は、その書状を呼んで幸村の真意を読み取り、大阪城へ向かう事を決意する・・

史実から見た「引鉄(ひきがね)」ネタバレと考察

和睦によって終わった大阪冬の陣。そしてその代償に失った軍事拠点としての大坂城。しかし幸村がドラマの中で述べたように、この平和は長くは続きませんでした。

そうです、大坂夏の陣が勃発するのです。次週のタイトル「引鉄」とは、恐らく大阪夏の陣が始まるきっかけの「引鉄」という意味でしょう。

和睦によって終結した大阪冬の陣。しかしその和睦が続いたのはわずかに4か月ほどだったのです。では、どのような経緯で豊臣と徳川は大坂冬の陣へと突入したのでしょうか。

通説では大坂方が口火を切ったといわれています。大坂方には何万人という浪人衆が集まっていました。もちろん徳川との戦で武功を挙げて立身出世、一攫千金を狙った浪人たちがたくさんいたのです。そんな主戦派にとって、大坂冬の陣の和睦は梯子を外されたようなものでした。

消化不良に終わった大阪冬の陣後、大坂城の牢人衆は来たるべき徳川との再戦のために武具を買い集め、埋められた堀を掘り返したり塀を復旧したりし始めました。乱暴狼藉を働くものも多かったといわれています。

このような状況は当然すぐに家康の耳に入る事となります。家康は豊臣家に対して二つの要求をしたといわれています。

  • 豊臣秀頼の大坂からの国替え
  • 大量の牢人衆の解雇

しかし豊臣方はこの条件に反発し、大坂夏の陣へと突入するのです。先週の記事で述べたように、大坂城の退去、浪人衆の解雇、淀殿の人質という3つの条件は豊臣にとっては絶対に呑めない条件だったからです。

では、一方的に約定を破った豊臣家の過失なのか?と言われればそうなのですが、だからといって徳川家に再戦の意志が無かったとも言えません。家康は和平後すぐに大筒の発注をするなど、来たるべき再戦に早々と備えていました。戦功による恩賞を求めて大阪に集まった浪人たちが、この中途半端な和睦で納得するわけがないという確信に近いものがあったはずです。実際に豊臣は戦の結果、浪人たちに分け与えるべき新たな領地は一切得られていないのですから。

恩賞を求めて集まったのに恩賞にあずかれないのであれば、当然その溜まったエネルギーは暴発を起こします。家康は当然そこまで読み切っていたはずです。

恩賞無き戦で恩賞を求めて集まった武将たちが満足するわけがありません。それが戦国の世の習わしなのですから。

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三つの派閥に別れていた豊臣家 譜代衆と牢人衆が複雑に絡み合ったその構図

ここで大坂城内の派閥について見て見ましょう。諸説ありますが、大坂城には三つの派閥があったと言われています(四派という説もあり)。

  • 主戦派(大野治房、毛利勝永、長宗我部盛親など)
  • 慎重派(大野修理、織田有楽斎など)
  • 中間派(真田幸村、明石全登など)

ざっと言えばこのような感じでしょうか。後藤又兵衛に関しては、中間派か主戦派か微妙なラインといったところでしょうか。木村長門守重成(白石準也)は慎重派と中間派あたりでしょう。

真田幸村は中間派となっていますが、真田丸の戦いにおける活躍での嫉妬や、敵陣に甥(真田信吉・信政)や叔父(真田信尹)など身内が大勢いるという状況によって、かなり肩身の狭い思いをしていたといわれています。実際に「何かと気づかいが多く・・」とこの頃に書いた書状も現存しています。

この大坂城内の派閥を見て面白いのが、浪人衆だけではなく、豊臣家譜代の家臣たちも主戦派と慎重派に別れているところでしょう。特に主戦派の大野治房と慎重派の大野修理は実の兄弟です。大坂城の豊臣家が、浪人衆を簡単に解雇できなかった理由がここにあります。豊臣家譜代の家臣と新参者の牢人衆は、決して綺麗に派閥別れしていたわけではなく、浪人衆にも譜代衆にも主戦派と慎重派がいたのです。どちらを切っても大坂城はバラバラになって内紛を起こす火薬庫になりかねなかったという事ですね。

このように大坂城内は譜代と浪人衆が複雑に絡み合って派閥を形成していました。まさに「あちらを立てればこちらが立たず」という状態です。逆にいえば家康はこんな状態の豊臣方が、間違いなく暴発すると見越していたと思われます。そして豊臣方はそんな家康の目論見通りに戦へと突入していく事になるのです。

徳川への内通者?スパイ?織田有楽斎が大坂夏の陣前に取った行動とは?

大阪冬の陣と大坂夏の陣の間に起こった大きな出来事の一つも恐らく次週描かれる事になるでしょう。

それこそが、織田有楽斎の大坂城退去です。

織田有楽斎は大坂夏の陣勃発前に大坂城を退城し、徳川方に味方することとなります。

通説ではその理由を

  • 織田有楽斎の嫡男・織田頼長に対する不満の鬱積
  • 様々な派閥を形成する大坂城内における求心力の低下

であると言われています。

そして大坂城を去った織田有楽斎は徳川家臣として茶の湯に興じるなどの余生を過ごしたと言われています。

この真田丸では度々豊臣方における徳川方へのスパイの存在を匂わせています。そしてその中核こそがこの織田有楽斎長益であるとも匂わせています。

本当のところは何も証拠が残っていないのでわかりませんが、このタイミングで大坂城を退去するというのは、やはり普通に考えてかなり怪しいと言わざるを得ません。徳川との交渉役も担っていた織田有楽斎ならば、徳川へ内通する事はたやすい事であったという事も出来ます。

その辺りを「真田丸」ではどう描くのか、非常に興味がありますね。

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